夏の終わりの風が吹いていた。閉館したあおうみ水族館で、水槽を眺めながら、奏汰がわらう。らいげつ、せいそうかんをでるんです。かおるもいっしょなんですよ。人間みたいに、柔らかな笑顔を向けられて、斑は咄嗟に笑顔を作った。
「薫さんと一緒に？」
「はい。かおるが『まんしょん』をかうというので、ぼくもいっしょにすむことにしたんですよ」
べらんだで『ぷぅる』がおけるくらいの、と屈託なく笑う奏汰は、少しだけはしゃいでいるようだった。指先を水槽につけると、すやすやと眠っている魚たちへ微笑む。
「かおるのしんせきが『ちゅうこまんしょん』を『りのべぇしょん』したらしくて。ぼくたちもゆうめいになってきましたから、『せきゅりてぃ』がばんぜんなほうがいいんじゃないか、って」
大きな水槽を部屋に置いてくれるのだとか、海までは有料道路を使ってすぐだとか、そんな希望に満ちた声で、楽しそうな報告をしてくる奏汰を、斑はぼんやりと見つめていた。
「ーーみけじま、どうしたんですか」
滅多に呼ぶことのない名前を呼ばれて、斑はそっと指先を奏汰に伸ばしていた。触れてはならない。かの人は神聖なもので、大事な友人で、ーーそうして、一生涯傷を負わせる何か。
自分の胸の中に湧き上がる感情は、きっと神様に対する信仰心に近いものであって、奏汰に対する後悔でもある。ぱちくりと目を瞬かせる奏汰に向かって、斑は消え入りそうな声で言った。それはもう、一生分の願いを込めて。
「……奏汰さん、お願いを聞いてくれないか」
「おねがい？　ぼくのちからがひつようなんですか」
祈りたいわけではない。神様はもうこの世界にいないし、自分たちが手を離した時からずっと、この世界は平行のままだ。それでも少しだけ近づいて、離れて、そうしてまた近づいてを繰り返していた。
「かみさまじゃなくなったぼくですけれど、みけじまのねがいごとなら、きょうりょくしましょう。ぼくは『ヒーロー』ですから。こまったことがあったら、たよってください」
さあ、と胸を叩いた奏汰を抱きしめて、斑はそのまま唇を指先でなぞる。ふわふわしているくせに力が強い奏汰に殴られることも覚悟して、擦り付くように首筋に顔を埋めて、静かにその願いを口にした。

「一晩だけ、俺に付き合って欲しいんだ」



きっと後悔しかしないだろうということはわかっていた。奏汰を傷つけて、新しい関係性まで壊して自分の我を突き通そうとする。終わったはずの恋心なんて、一人で供養すればいいのに、あろうことか本人へそれをぶつけるのだ。
海の近くにある旅館は、月明かりだけがさざめいている。唇を押し付けることを許さなかったのは奏汰だ。これいじょうはだめですよ、と真剣な顔をして、斑を拒む。内心ほっとしたのは確かだ。取り返しのつかないことをしてしまったら、きっともう、本当に二度と彼と同じ世界に生きることはできなくなる。
「……引っ越しは、さ来週だったと言っていたなあ」
「はい。てつだいにくるなら、こんかいのむたいをちょうけしにしてもいいですよ」
「はは、なかなか残酷なことを言ってくれるなあ…」
はだけた浴衣を直しながら、斑は奏汰の髪の毛を撫でる。短くなった髪。人間の世界を生きるようになった神様。もう、自分が救うこともない友人は、その指先をそっと払う。
「ーーごめんなさい、みけじま。ぼくは、あなたのねがいを、またかなえられませんでした」
「……奏汰さん」
「ごめんなさいね、…みけじま。ぼくの、さいしょの『ヒーロー』。だいすきで、だいじなこだった、あなた」
奏汰の瞳が潤む。涙を拭ってやろうとするけれど、奏汰はやはりそれを拒んだ。この体に触れられるのは、きっともう斑じゃないんだろう。
海へと還っていく斑の初恋はゆっくりと溶けていって、奏汰に届く。
そうして、まるで泡沫みたいに消えてしまうのだ。