心臓は口より物を語る 夜。ファミリー層も住む燐音のマンションは住宅街に近いため、車の音も遠くに聞こえる程度でとても静かだった。
燐音は寝返りを打とうとして、背中に感じる暖かな気配に動きを止めた。もう何度も繰り返したそれに、ため息をぐっと堪える。いつもの就寝時間はとうに過ぎているというのに目は冴えていて、一向に眠気が来ない。それは隣で寝ている一彩も同じようだった。
「……」
地方の仕事からそのまま燐音の家へあがりこんだ一彩との『お家デート』は楽しかった。なんてことない普段の会話が弾む。会話の合間にすっかりレモンタルトを食べ終え、紅茶も飲み干して一息ついたとき。一彩が時計を確認したのを見て、燐音はなんとなく帰すのが惜しくなった。
一彩といるのは純粋に楽しい。今日のこの時間は特に楽しかった。だから、この時間を終わらせたくないと思った。それは初めての一人暮らしに心が寂しがっていたのかもしれない。一彩の、太陽のような明るい存在感をこの部屋でまだ感じていたかったのかもしれない。とにかく、一彩が部屋にくるまでは気丈に振る舞っていたはずの心が嫌だ嫌だとわめきだして、燐音は寂しさを押し込めなくなった。
「もうそろそろ帰らないとね」と立ち上がった一彩の腕をつかんだ。寂しい心を悟られないよう「疲れてるだろ? 今から帰ると遅くなるし、泊れば」と心配するふりをして提案した。
「ちょうどお泊りセットあるし、もう一泊くらいいいっしょ」
「それはいいけど、いいのかい?」
「あ? 弟が兄の部屋に泊まるどこがおかしいんだよ」
「ウム、それはそうだけど。……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
一彩が同意してスマートフォンで連絡を取り始めたのを確認して、燐音は一彩のボストンバッグを持って洗濯機へ向かった。適当に下着や服を取り出して放り込む。ごうんごうんと動き始めたそれを見て、ほっと息をついた。これであれは今日ここに泊まる。
「兄さん?」
ぼー、と洗濯機を見ていた燐音の腕を一彩が引っ張った。
「わり、なんでもねぇ。晩飯の用意しようぜ…、あー、いや、お前疲れてるっしょ、俺が作るから」
「僕も手伝うくらいできるよ」
「いいから座ってろって」
そうやって燐音はかいがいしく世話をした。洗濯機は乾燥まで回し、簡単なものだが夕飯を作り、風呂の準備をして自分の部屋着を貸した。順番に風呂に入ってリビングでゆっくりしたところで、ふと、燐音の頭に一つの疑問がよぎった。
寝る場所がない。
いや、あるにはあるのだ。燐音のシングルベッドが一つだけ。燐音が借りたこの部屋にはリビングに寝室、そして小さな収納部屋がある。元は二つのワンルームだったところをぶち抜いてリノベーションされた部屋は単身向けとしては広い方で、燐音は自身の仕事用の衣装などを運び込むことを考えてここを選んだ。四月半ばに荷物をまとめて運び込み、部屋はすべて片付いている。燐音は最近見たはずの荷物を思い出した。五月とはいえ、寝るにはかけ布団か何かが欲しい。一彩にベッドを使わせるとして、自分はソファで寝るしかないか。そう考えた時だった。同じことを考えていたらしい一彩が、燐音が入れたホットミルクを両手に持ちながら話かけた。
「僕、ソファで寝るよ」
「お前が疲れてんだからベッド使えよ。何のために泊まらせたと思ってんの」
「ウム、そうなのだけど」
一彩が言いよどむ。燐音の心臓が少しずつ大きく動きはじめた。こころなしか暑い気がする。シングルベッドなのだ。シングルベッドに、男二人は普通に狭い。たとえ、燐音と一彩が幼いころ――それこそ、燐音が家出するまで――一緒にくっついて寝ることが多かったとしてもだ。もうそんな歳ではない。さすがに甘やかしが過ぎる。いや、その前に。
「一緒に寝るのは、ダメかな」
そらきた。燐音と一彩はお試しとはいえ付き合っているのだ。一緒に寝るとなったら、燐音にその気はなくとも一彩は気になるものだろう。初めてのお泊り。燐音は己の寂しさにかまけて一彩のことを考えていなかったことを後悔した。もっと準備と覚悟をして誘うものだった。きっと一彩はいま、確実に『弟』よりも『恋人』としてここにいる。燐音はどう振る舞えばいいか迷った。迷って、迷って、慎重に言葉を選んだ。
「さすがにシングルベッド、は狭いっしょ」
「そんなことないと思う」
「そんなに一緒に寝たいの」
ぽろりと出てしまった言葉に、燐音はあっと口をつぐんだ。
「……それはそうさ、だって一緒にいたいんだから。兄さんのこと好きだし、それに、昔みたいに一緒に寝たい気持ちもあるよ」
寂しかったんだ、と小さく呟いた声はまるで十二歳の頃の一彩のようだった。里の考えを忠実に守るようになった中で時折ぽろりと漏らす本音のような声色に、燐音は眉尻を下げた。困った。それは反則だ。弟を武器にするなんて。
「……分かった。狭くていいなら一緒に寝るか」
「いいの!?」
「けど、背中合わせな」
「構わないよ!」
そうして今に至る。時刻は日付が変わるころだろうか。二人でベッドに入ったのは何分前だったか。いつもなら襲ってくるはずの睡魔はどこで惰眠を貪っているのか、燐音は総会に回る思考を恨んだ。思考があっちこっちとせわしなく動いている。いっそのこと自分の精神を鍛え直すか、こんな恥ずかしいような思いをするのは自分が弱い証拠か、なんて考えて。大きく身じろいだ一彩の気配に燐音は身を固くした。
「そんな構えないでよ」
「……」
「まだ寝てないの、分かってるんだよ」
「早く寝ろよ」
こちらをむいた一彩の視線に、燐音は見えないようシーツをギュッとつかんだ。心臓がどきどきと動いている。後ろにいる存在を、この体は意識している。一月や二月に弟とおなじベッドに寝たって何も思わなかっただろう。今、体がうまく動かないのは一彩のせいだ。一月から妙に距離感を近づけて、二月にマロングラッセを渡して。俺が気づいていなかったと知るや、明確にデートだとご飯やなんだと誘ってはしかけてきている。それだけでも十分意識するというのに、挙句の果て「自分と長く愛し合ったなら」なんて妄想まで俺に語りやがった。どうしろというのだ。俺に、どうしてほしいというのだ。ただの妄想の俺にあんな幸せそうな顔をされては、そして俺がそんな想像通りの顔をしていたなんて言われれば。
嫌いになんかなれるわけない、と内心呟いた。大切な存在にそんなに情熱を注がれて、気にならない訳なんかないじゃないか。
「兄さん、こっちを向いてほしいよ」
「寝ろって。背中合わせで、って言ったろ」
「ウム、だけど」
「子供じゃないんだから」
「でもやっぱり兄弟なんだから一緒に寝たいよ」
その言葉に、燐音はむっとしてかみついた。
「兄弟以上にしようとしてるのはどっちだ」
「それは僕だ。だけど、兄さんが今振り向かないってことは、兄さんも意識してくれているんだろう?」
ならお互い様さ、と一彩が言った。何がお互い様だ。燐音はそう言い返したくなる気持ちを抑えて、無視を決め込んだ。一彩は燐音の背中をちょいちょいとつつきはじめ、燐音が無視していることが分かると、ぐいと勢いよくその腕を引っ張った。
強制的に仰向けにされ、さすがにイラついて燐音が声を荒げようと息を吸った時、胸元にぽすんと落ちてきた赤毛に息を止めた。顔は伏せられて見えない。すがるように一彩の手が燐音の寝間着をつかんでいる。あ、だめだ。とくんと押さえられない心臓がなった。
「今、心臓がはねた」
「……」
「兄さん、兄さん、好きだよ」
「早く寝ろって」
「おやすみなさい」
ひとつ吸った息を吐いて、燐音は一彩が寝やすいように横を向いた。胸元に抱き着いた一彩の思考は分からない。甘えたいのか、アタックの一環なのか。けれど、どちらにせよ、燐音の思考が暖かくとろりとし始めたことは事実だった。