今はまだ背伸びする恋人はいつか七月
「守る」
ちゃり。ちゃり。中身のすくないバッグの中で、真新しい鍵が音を鳴らす。新曲の練習を終えた一彩は、足早にマンションへと向かっていた。明日はすこしゆっくりできるから、燐音の部屋に泊まりに行くのだ。荷物が少ないのは、五月に兄の元へお泊りをして以来、少しずつ自分の私物が兄宅に増えているから。途中のスーパーで頼まれた買い物を済ませて、一彩は浮かれた気分で鍵を差し込んだ。
「兄さ~ん…?」
あれ、と一彩は首を傾げた。いつもならドアを開けると顔を見せるか声をかけてくれるはずなのに。しんと静まった部屋に、もしかして出かけてしまったのだろうかと考えた。今日は一彩よりも少し早い帰宅だと聞いていたが。靴を脱いで、兄を探す。
そのわけはすぐに分かった。兄がソファでうたたねをしていたのだ。近くのテーブルには資料がばらまかれていて、いけないと思いつつも少しだけ覗き込む。それはcrazy:Bではなく、別の人気ユニットのツアー企画資料だった。気になって読み進めると、計画はかなり詰められて、最終段階に入っている。一番上にクリップで挟まれたメモには、『シロ!』と赤ペンで書かれていた。
急に舞い込んだ、というのはこういうことか、と一彩は納得した。この人気ユニットは数か月前、SNSで急に解散を表明した。それで、来年度の企画がおじゃんになったというわけだ。売りさばかれたチケットは返金対応、しかし抑えた会場は有効活用したいからと白羽の矢が立ったのが、crazy:Bか。解散の理由はなんであったかは忘れたが、これは慎重にならざるを得ないだろう。なにせ、解散を表明したユニットリーダーはすでに蒸発している。表沙汰にはなっていないが、事務所は対応に追われているのを一彩は知っていた。
一彩は企画資料をまとめると、ソファでねこけている燐音を見た。HiMERUと二人で急いで調べたのだろう。目元には隈がある。良くも悪くも目立つユニットだから、慎重に、けれど大胆に動かなくてはならない。そんな器用な真似は、彼ら以外できないと一彩は思っている。
どうにか兄を支えたい。自分にしかできないようなやり方で。ブランケットを持ってきて静かにかけてやる。どたばたとツアーを発表した燐音たちは、なんとか順調にチケットを売りさばいている。ツアー会場ごとにゲストも呼ぶらしく、事務所の後ろ盾がかなり潤沢なものになっているのは、しりぬぐいをさせる償いだろうか。ゲスト目当てのチケットでも、売れたものは売れたものだ。お声がかからなかったのは寂しいが、そもそも事務所が違うのだから仕方がない。一彩は兄の頬を優しくなでながら、キッチンへ向かった。疲れている兄のために、ご飯くらいは作ろう。仕事はあまり関わることができないけれど、これくらいなら。
ことこと。ぐつぐつ。ふんわりと漂うお味噌の香りに、しょうゆとショウガの効いた匂い。燐音はぱちりと目を覚ますと、キッチンの方を見た。
「一彩」
「ウム、おはよう兄さん! よく眠れたかい? もうすぐご飯ができるから、休んでいて構わないよ。お風呂も用意はできているけれど、先に入るかい?」
「あー、飯できるなら先に食べる」
「ウム。では、テーブルを片付けて待っていてほしいよ」
「分かった」
燐音はふぁ、と伸びをすると、テーブルに散らかしていた資料を集めた。急に舞い込んだツアーの話も、蓋を開ければただのしりぬぐいだった。HiMERUと二人、安堵しながらこれからの策を考えた。Crazy:Bが成功する方法。ファンが楽しかったと言ってくれる方法。別のユニットのために集められたメンバーで、このツアーを成功させるには。
「お疲れさま。さきにどうぞ」
ことり、と置かれた小鉢。キュウリの酢の物が盛り付けられている。
「久々に食べる気がする」
「実家ではよくでてたけどね」
燐音は箸をとって薄く切られたキュウリをつまんだ。お酢なかにほんのり甘味がある。それが疲れを癒してくれるようで、燐音は思わず声を漏らした。
「うまい」
「よかった」
燐音が小鉢の酢の物を食べていると、みそ汁とご飯が並べられた。続けて、盛り付けられた生姜焼きと千切りのキャベツ。弟による手作り定食だ。一彩が向かいに座ったのを待って、燐音は手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
みそ汁は燐音の好きな味だ。この数か月、一彩が泊りに来るときは二人で晩御飯を作ったりしていたが、一彩はあっと言う間に料理を覚えた。天才はどこでも発揮されるもんだな、と思いながら生姜焼きに箸を伸ばす。醤油とショウガの程よい塩梅が、食欲を刺激する。ぺろりと平らげて、燐音はふうと一息ついた。
「ほんと、うまくなったよなこの短期間で」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
「五月に俺が一人暮らし始めて、ちょこちょこお前が泊まるようになったけど、まだ数か月だぜ? 俺よりうまくなったんじゃねぇの」
「ありがとう。レシピ通りに作っただけだけれど、これからもっと精進するよ」
「レシピ通りに作れるのがすごいんだって」
「ウム、これでもっと上手に作れるようになったら兄さんを守ることもできるかな」
「守る?」
一彩がこくりと頷いた。
「仕事は助けられないけれど、こういったことなら兄さんを守ることができるよ」
「俺の生活を、ってか。何、俺っちの胃袋から攻略するつもりか? 相手は手ごわいぜ?」
燐音の挑発的な笑みに、はは、と笑いながら一彩は反論した。
「確かに胃袋だけなら難しいだろうけれど、ふふ、僕はプライベートの生活すべてを補助して見せるよ!」
「すんな。俺っちに一人暮らしをさせろ」
「どうしてだい!? 洗濯も掃除も兄さんが仕事をしている間に完璧にしてみせるのに!」
「俺っち家政婦を雇った記憶はありません」
「やりたいからやるんだよ。だって、仕事は関われないじゃないか」
「そんなに俺と仕事したいの」
「そうではなくて、兄さんを支えたいんだよ。守りたいんだ」
一彩は食べ終えた皿を重ねて、立ち上がった。兄の方へとすすめて、膝をつく。
「兄さんと二人で生きたいからね」
「キザなことしても、こんな顔では響きませーん」
燐音がそう言って手を伸ばす。頬にくっついていたご飯粒をとって、ぺろりと食べた。一彩の頬がカッと赤くなる。いつからついていた。
「俺の騎士気取りが一人前になるのはいつになることやら」
「くっ、必ず一人前になって守って見せるよ…!」
悔しそうな顔をした一彩が皿をシンクへと運びだす。燐音はおとなしく甘えることにして、その姿を見守った。昔と言うことが何も変わらない。しかし、それが自分の意思であることを、今の燐音は知っている。
随分とたくましく成長したものだなぁ、と燐音は息を吐いた。いつか、本当に自分の横に立つだろう。それはどんな関係性であっても、きっと燐音を満足させてくれる。そう思えるような背中だった。
「年齢差」
ぶすぶすと文句を言う一彩を置いて、燐音はレジへと向かう。夕飯後のコンビニで、一彩は兄の持つカゴにプリンを一つ入れた。
「年齢確認お願いします」
「はーい」
かごから出されるビール、焼酎、炭酸飲料。それからおつまみスナックに、プリン。慣れたように財布をだす兄の後ろで、一彩はおとなしく会計が終わるのを待った。持ってきていた適当な袋にがさがさと詰め込んで、コンビニを出る。夜道を歩きながら、一彩は音を立てる服を奪って燐音の空いている手を取った。素直に指を絡めた兄は、にやにやと笑っている。
「そんなにすねるなよ」
「すねてないよ」
「仕方ないだろ、学生さんにお酒は買わせられないからなぁァ!」
きゃらきゃらと笑う燐音を、一彩は止められなかった。だって一彩はまだ未成年で、まだ高校生だ。できることが限られている。家の中で兄にご飯をつくることはできても、外で兄の好きなアルコールをプレゼントすることはできない。何をしようにも、保護者扱いされる兄の後ろ。これじゃ兄を守るなんてできっこない。仕事は難しくても、プライベートだけでもと思ったのに。やる気があっても法の縛りは破ってはならない。
「今だけだからね」
ぷうと膨らんだ頬を、燐音は空いている手でつんつんとつついた。風船のように膨らんだ頬は、弟のもちもちとした感触を伝えてくる。学生の若い肌はすべすべしていて楽しい。最近すこしずつ手入れをするようになったらしい一彩の頬に産毛はない。メイクのりがよくなるように、と友人と一緒に剃ったらしい。十代なんだからそこまで気にしなくてもいいのに。しかし、こういった事柄はいっちょまえに興味を持つ時期でもある。仕事でもあるし、まぁいいか、と思ったとき、一彩の袋を持った手が燐音の手のほうへとのびた。
「なぁに、弟くん片手じゃ飽き足らず、両手でつなぎたいわけ」
「ム、そんなことをしたら歩くのに支障が出るよ」
そう言うと、一彩は器用に黒を持った手で、燐音を手をもとの位置に戻した。撫でられるのが嫌だったらしい。燐音は夜の道をのんびりと歩きながら、隣を歩く弟をちらっと見た。
背はぐんと伸びている。燐音に追いつきそうな身長は、最近低迷しているらしい。住んでいるわけでもないのに、牛乳がないとわざわざ買いに行こうとする弟は迫りくる成長期の終わりにビビっている。髪は昔から変わっていないが、顔つきがしっかりとしたせいもあって青年そのものだ。小さなころは可愛かったふわふわの髪が、最近は整髪剤の香りを纏わせることが多くなった。丸い頬はすらりとしたラインになったし、つんとした鼻筋がまた一彩の顔つきを大人へと変えさせている。高校三年生はまだ未成年じゃないのか、なんて思うほどには、一彩は燐音の想像を超えて大人になった。それは見た目だけではなくて中身もだ。
「兄さん? 話を聞いていたかな?」
「聞いてない」
「そう簡単に答えるのは良くないと思うよ。本当に聞いていなかったようだからもう一度言うけれど、今度のお休みはいつになるのかな」
「休み? あー、しばらくツアーでドタバタしてるけど、まぁ、今度の土曜は休みとれるかも」
「本当かい! 僕も休みなんだ、泊りに来てもいいかな」
「俺の許可なんかいらないだろ、お前鍵持ってんだから」
「しかし家主は兄さんだよ。許可はとらなくては」
「その家主が特別扱いしてんだから。金曜の夜から泊まるか?」
「ウム、泊りたいなと考えているよ!」
「よし、牛乳は買っといてやるからな」
燐音が揶揄すると、一彩は眉にしわを寄せ、その端正なラインをゆがませた。
「ム、追いつくまで時間の問題だよ」
「成長期が終わるのも時間の問題だな」
「兄さんは言葉遊びが上手だからね、僕は行動で示して見せる」
一彩はそう言うと、ふんと顔をそむけた。つんととがらせた唇はうすく青年の形であるのに、どうにもかわいらしく見える。燐音はどうしたって埋められない歳の差に存在する、まだ一彩が脱ぎ捨てられていない『子供らしさ』がいとおしくなって、ぐいとつないだ手を引っ張った。
「じゃあお兄ちゃんも行動で対抗してやんよ」
空いた両手を一彩の片腕に絡ませて、こてんと頭を肩へ乗せた。そのまま上目遣いのように視線を向ければ、一彩はそろそろと瞳をさまよわせた。
「おいおい、しっかりしろよ。行動で示すんじゃなかったのか」
「……うるさいな」
低い声で呟いた弟が、とんと足を一歩前に出して腕を引き抜く。引き抜かれた腕につられて前傾姿勢になった燐音へ、一彩は顔を近づけた。
「…」
「……おま、」
「帰るよ!」
一彩が叫んでぐいぐいと大股で歩き出す。大人へと脱皮する彼の、子供のような反抗に、燐音はぷっと吹き出した。