何度でも昼も夜も分からない独房の中では、孤独だけがそこにある。
『前を見ろ!』
時折意識の遠くから繰り返し聞こえてくる山田一郎の声は、この独房に入ってからの谷ケ崎の頭痛の種だった。それがヒプノシスマイクの波動を受けた後遺症と診断されたのはつい先日。
どうやらあの暴力的なまでに"強さ"を吠える少年に、自分の心は呪われてしまったらしい。
『兄さんが生きていたら…』
考えても仕方ないということは、本当はもうずいぶん前から分かっていたんだ。
山田一郎に兄さんを"殺された"わけじゃない。
俺が、兄さんを"守れなかった"んだ。分かっている。でも、愛された過去に縋るしかなかったんだ。
(もう言い訳はやめろ)
卑屈な考えに捕らわれてしまうこの性格は、なかなか治せるものじゃあない。何度も堕ちていく自分の思考が嫌になる。今日もどうやらまともに眠ることは出来そうにない。
誰にも知られず、日の目を見ることなく散った四人の男達。
彼らは再び北の大地にある監獄へと投獄された。
一度脱獄を成功させてしまったが故に四人は一切接点がないようにそれぞれが厳重な管理下に置かれている。他の三人がどうしているのかは谷ケ崎には分からない。
しかし、自分がこうして生かされているのだから彼らも同じようにどこかで生きてはいるだろう。…いや、こんな檻の中じゃ飼われていると言ってもいい。
どこか遠くで爆発音がした。それからすぐに看守達が慌てふためいて右往左往。
D4の前例を知ったどこかのバカが脱獄でも企てたのだろうか。浅はかな考えだ。あの正面突破のやり口は、腕が立つ"俺たち"でなくては通用しない。
「……、」
なんだ、と思う。それじゃまるであの時脱獄を共にした面々の存在を認めているみたいだな。
この重い扉の向こうで起きている出来事は、今やもう自分とは何も関係ない。きっと世界が終わりを迎える日がきたとしても、誰にも気に留められることもないのだろう。
ただただこの四角い空間で息をし続け、いつか刑罰として下される『死』を待つのみだ。
顔を上げられる"前"がない。山田一郎、お前はどうしてる?そこに"未来"はあるのか。
…あるだろうな、お前には。
脳裏に過るのは足の痛みに苦しむ山田一郎を心配そうに囲って寄り添う者達の姿。"仲間"の姿。
自分をクズだと認めたあの少年には、それでも庇おうとしてくれる誰かがいたのだ。兄さんを想う俺のように。
「谷ケ崎さん」
不意に聞こえた声に、さすがに肩が小さく揺れた。妙なことを考えていたから、幻聴かと思った。しかし視線を向けると、扉の中央にある配給口から見覚えのある顔が覗いている。
「…燐童……何してるんだ」
久しぶりに声を発した。自分はこんな声をしていたのかと少し不思議に思う。
「何って、脱獄に決まってるじゃないですか」
そうケロリと言ってのける燐童は、格子の向こうで何か細工をしているようだ。
「久しぶりですねえ伊吹」
身を屈めてこちらを覗き込んできた丞武は、ナイフを持った手をひらひらと振って笑っている。
「元気そうでなによりです。お迎えにあがりましたよ」
「オイさっさとしろ」
姿は見えなかったが、どうやら後ろには有馬もいるようだ。せっかちな彼のことだ、看守に見つかり次第即座に反撃出来るように見張り役を買って出ているのだろう。
「さっきの騒ぎはお前たちか···」
「えぇ。前回とほとんど同じ手ですが、これが結構使えるんですよ」
ガチャンと錠が外れた音とともに、重厚な扉が慎重に開け放たれる。
キンと冷えきった廊下の空気が独房の中に一気に押し寄せてきて、その風を真正面に受けた身体は驚いていた。
寒いと感じる自分自身に"命"を感じた。そしてなによりも…なぜ、ここに来たのか、と。
目の前に並んで立つ燐童と丞武は、飯でも誘うかのような気軽さで笑っていた。
「行きましょう伊吹」
「地図なら僕の頭に入っています」
「…お前ら、」
みなが話すと白い息が揺蕩う。自分が呼吸をしていると分かる。自分の周りに他人が存在していることが久しぶりで、妙に落ち着かない気分だ。でも、暗い独房の中にいるよりはずっといい。
「寒いですか?伊吹」
谷ケ崎は未だに茫然とした足取りでぽてぽてと牢から足を踏み出した。その動きの鈍さに目を留めた丞武が問いかけてくる。その手には何やらとろみのある液体が入った小瓶。
「糖分をとると身体が温もりますよ?」
「要らない」と答え終わるよりも先に、丞武はガバッと腕を大きく広げる。
「少しの辛抱です。どうせすぐに看守達が来ますから、適当に殺して奪いましょう!」
「殺すのはやめておきましょう」
恍惚と天を仰ぐ丞武に、燐童は呆れを隠した平べったい笑顔であっさり諌める。
その後ろから、有馬が「!」と苛立った溜め息で割って入ってきた。やはり少し離れた場所で見張りをしていたようだ。
「オイさっさと行くぞ、熱ちぃだの寒ぃだの今更だろうが。谷ケ崎てめぇお外が寒くてお家から出たくねえってんならこのまま置いてくぞ」
「こんなこと言ってますけど谷ケ崎さんの独房を特定したのは有馬さんですよ」
ガン! 有馬の足が牢の格子を蹴りつける。とんでもなく凶悪な顔で燐童に向かって静かに唸っていた。
「てめ余計なこと言うんじゃねえよ…」
「そんなに怒ることでもないでしょう、ただの事実じゃないですか」
とどめを刺したのは丞武。有馬はぐぬぬと黙りこくって苦々しく舌を打つ。けれどそうして顔を背けた先でちょうど谷ケ崎と目が合ってしまい、ピタと身体が止まる。
「………」
ありがとう、なんて言葉が交わされる関係じゃない。そんなことは分かっている。だから谷ケ崎も何も言わなかった。何も言わなかったがしかしだからといってわざわざ有馬から目を反らすのも違う気がして、そのまま一拍、謎に無言の視線の交差。耐えられなかったのは有馬のほうだった。
「~っせえんだよ谷ケ崎!」
「何も言ってねぇだろ」
「~~~っぁあくそが」
さっさと行くぞ!と悪態をついて先を急ごうとした。が、少しお喋りが過ぎたようだ。
向こうから武装した看守たちが駆けつけてくるのが見える。
「おやおや。思ったより早かったですね?」
「警戒されていましたからね」
「てめえらがごちゃごちゃ喋ってるからだろうが!」
「俺は何も言ってない」
きっぱりとした谷ケ崎の反論を、有馬は即座にイラァと睨みで却下する。
「どうします?谷ケ崎さん」
この流れで何をどうすると言うのか。こういう時、燐童はいつも決定権を谷ケ崎に委ねる。きっと谷ケ崎がどう判断するのか、昔から燐童には分かっているのだろう。···見通されている。だがその先回りに、助けられてきたこともある。
「どうするもこうするもない。脱獄するんだろう」
向かってくる相手は看守といえどこちらから見ればただのド素人だ。鈍った身体を目覚めさせるにはちょうどいい。
先陣で迎え撃つのは得物を持った丞武と有馬。取りこぼした残りは燐童と谷ケ崎が叩く。いつの間にか出来ているパターン。陣形。交わす言葉や号令はない。それでも誰がどう動くのか、得意な殺法や見えている範囲…互いがシビアな闇の世界で生きてきたからこそ、互いのことがよく分かるのだ。
それが『連携プレー』だなんてことは、誰一人口にはしないし認めようとはしないけれど。
「こんなところで終わってたまるか」
後ろから聞こえてきた谷ケ崎の言葉で、乱戦へと身構えた三人はふと静かに笑う。
これが、士気が上がる瞬間だ。
そうだ、こんな場所に閉じ込めておけると思うなよ。
闇の中で"しか"生きられない?よく見てみろ、あんたの周りは本当にどこもかしこも真っ当か?
光あるところ闇があるのは必然。
闇はどこにだって存在する。だから、闇の住人はどこへだって行けるんだ。
それを俺なりの『希望』と呼んでもいいだろう?
奪い奪われるこの世界。呪ってくれて結構。上等だ。
俺たちは『デスペラード』誰にも止められないならず者のお通りだ。
さぁ今一度、いや何度でも、絶望の中から無敵を手に入れよう。
この四人で。