未来へ何が正義かを決めるのは他でもない自分自身だ。
『ヒップホップは害悪である』
社会の理不尽さに無力に立ち尽くしていた過去の風景が目の前から突風のように迫り、あっという間にトンネルを抜けるように後ろへと流れていく。自分だけがその場所に立ち止まり続けたまま、景色は『今』に変わっていく。
この世界は残酷だ。
信号無視をして交差点に進入した乗用車が、トップスピードで人混みに突っ込んでいく。跳ね飛ばされて、下敷きになって、倒れる人々の狭間で運転席から降りた青年はいくつもの刃物を振り回して手当たり次第に人を刺す。
駆けつけた救急隊はすべての人を救うことは出来ないと判断する。
命の選別。取捨選択。
救われる命と救われない命。選ばれた命と選ばれなかった命。
彼女の命は選ばれなかった。
血の気のないその手首には黒いテープが巻かれていた。その判断が下った時、彼女に息があったのかどうかは記録されていない。
ただ、トリアージを担当していたスタッフがのちに「隣の女性を先に見てくれと進言した女性に黒いテープを貼った」と証言していたことが裁判の記録に残っている。それが彼女だったのかは分からない。けれど私は直感で、彼女だっただろうと言える。
自分が助からなくても誰かを優先する。彼女の持っている正義は、何にも揺るがない黒色をしていた。
そしてその黒は、私の心を正義とは違った色彩で染めていった。
奪われたものはもう取り戻せないのに、取り返しのつかない情報だけが与えられていく。
ヒップホップが。ダンスが。ラップが。クラブが。ドラッグが。若者が。
あの青年が事件を起こした原因。それだと言われているものに、この世界は溢れていた。ただただ許せなかった。
人は手に入れた幸せの数よりも失ったものの大きさのほうが胸に残る生き物だ。私も例外ではない。
お前らのせいだ。
踏みつけろ。ねじ伏せろ。何も疑うな。何も許すな。
『彼らは犯罪者 ”害悪”の共犯者』
何も聞くな。何も信じるな。奪われた経験のない者に、この気持ちはわからない。
自由なんて無くていいものだ。不要なものだ。
そんなものがあるからこの社会の秩序は悪意に犯されてしまうんだ。
自由を表現するものなど、自由を表現する者など、消えてなくなってしまえ。この世から消えてしまえ!!
「最高!ねえ、今この瞬間だけは、自分がこの世界で一番自由だと思わない?」
もう彼女の笑顔も、声も、忘れてしまいそうなのに…。胸が、喉が、体が、押し潰されそうだ。
0にも100にも出来ないこの気持ちを分かち合える人はもうこの世にはいなかった。
ヒップホップ禁止条例が撤廃されても、世の中は大して変わらない。犯罪は無くならないし、罪を犯した囚人達は入れ替わり立ち替わり収監されている。
何が正しいのかは分からない。
『HIPHOP is not a crime』
今の私を見たら、彼女はなんて言うだろう。
拠り所のない夢を通り過ぎて、目を覚ます。うす暗い寝室の中でただ独り茫然とする。隣の空いたシーツは真冬の海のように冷たい。
いつもこの時期になると目覚ましのアラームよりも先に目が覚めてしまう。寝入りが悪く点けたままだったベッドサイドのライトを消して、溜息を一つ深く吐く。
デジタル時計の下に表示された日付をチラと見て、静かに目を閉じる。馳せた想いが少しでも空に届くようにと願う。
今日という日を、私は私の役割を果たすために生きている。
「お疲れ様でした!」
ニューシティを管轄する刑務局。その正門ロビーで、イガリとシシドは揃って敬礼をして刑務局長の退勤を見送った。
局長の姿が見えなくなった頃、ドタバタとロビーに駆け込んでくる新米刑務官。
「あれ!?署長は?」
慌ただしいコウチの騒音に、イガリもシシドももう慣れた様子でやれやれと振り返る。
「たった今帰られたところだ」
「えーっ!」
悲鳴を上げるその胸には書類を挟んだバインダーを抱えている。どうやらトップに確認してもらわなければならないものらしい。
先輩二人がちょうど局長を見送ったところだと検討をつけたコウチは追って走り出そうとする。駆け出すと同時にトップスピードが出せる後輩の若さに先手を打って、イガリがガシッとその肩を捕まえ、シシドは前に立ち塞がって行く手を阻んだ。
「バカバカバカ!今日は止めとけ!」
「せっかく定時で帰られたんだぞ。仕事を増やすんじゃない」
「でもこのレポート、間違いがないか見てくれるから、今日中に持ってきなさいって言われてたんですよ!?」
「だったら今日中に間に合わせろバカ」
ポカッと頭を叩いてくるシシドに、コウチは心無しか頬をむくらませる。
「シシドさんが雑用押しつけてくるから遅れたんですよ」
「……コウチ、お前いい度胸してんな?」
一歩詰め寄ってシシドが凄んでも、コウチにはなんのその。
同僚からは少し怖がられがちのシシドに対しても忖度無しで言い返すさすがの次世代児。二人の様子に、一歩引いていたイガリは微かに笑う。
この後輩、すっかり大物である。
局長も新人の頃は先輩方にずいぶん強気な態度を取っていたと噂に聞いている。局長が事あるごとにトラブルメーカーなコウチややり過ぎるシシドを気にかけているのは、もしかするとご自分の若い頃に似ているからなのかもしれない。
「今日は局長の奥様の命日なんだよ」
「おい……」
そっと静かな声で告げたイガリに、シシドは少し気遅れした視線を流す。……軽く話せる話題ではない。
「え……」
さすがのコウチも、ひっそりと息を詰めた。
「奥様って……え、ご結婚されてたんですか…!?」
「何の話だ」
そのタイミングで、ちょうどソーマがロビーに降りてきた。
ソーマはコウチが提出の遅れたレポートを持って駆けていったのを職務室で見送ったのだが、戻りが遅いことが気になって追ってきたのだ。降りてくればそこにいるのはシシドとイガリだけ。やはりクガには間に合わなかったのかと息をついたところで聞こえてきたのが、その話題だった。
「ソーマさんも知らないんですか」
「あぁ。……局長とはあまりプライベートの話はしたことがない」
ソーマはこの局に配属されてからずっと他の同僚とは距離を置いていた。……正直、苦手な人種が多くて居心地の悪い職場だと思っていた。そのトップに君臨するクガはこの集団の絶対的崇拝対象のように見えていたし、個人的に関わりたくないとも思っていた。合同トレーニングや勤務時間外のお誘いにも、何かと理由をつけて参加を断ってきた。
………今は違う。アース達の一件、ヒップホップ禁止条例の撤廃まできてようやく、思い返せばずっとクガの中には部下達への優しさや気懸かりがあったのだと気づくことが出来た。
クガはきっとヒップホップの世界で生きていたソーマのことを分かっていた。アースとの絆を分かっていた。だから、己の立場を押して署名活動にも裏から手を回してくれた……。
ならば何故あんなにも執拗にヒップホップは害悪であると唱えていたのか。
絶対に付け焼き刃ではないあの高度なダブルダッチを飛べる人が、あくまでも「トレーニングだ」と言い張っていた。
(……なんで)
自分はクガのことを何も知らない。ソーマは初めてクガの内側に触れる質問をした。
「お前達は知ってるのか?局長のこと……」
「命日って……亡くなられたってことですよね」
ソーマとコウチの疑問に、シシドとイガリは微かに目配せをする。シシドが頷いたのを受けて、イガリは小さく息をついてから話し始めた。
数年前、クガがまだ局長になる前の話。
シシドが刑務官を目指し、イガリが刑務官になったばかりの頃。当時は世間を騒がせた大事件だった。
夜の繁華街、一人の若者が起こした暴走車を用いた刺殺事件。何人もの人が猛スピードの車に当てられ、降りてきた男に刺された事件。
あまりにも被害が大きく、最初はテロかと思われたその事件は実際、深夜営業のクラブハウスでドラッグの味を知った青年が正気を失って起こした通り魔的犯行だった。
その交差点に、クガのパートナーは運悪く居合わせた。
クガが彼女の死を知ったのは奇しくもその日その時間、犯人が使用していたものと同じドラッグの大規模な取引現場を刑務局が押さえ、押収している任務中だった。
その青年にドラッグが行き渡る前に阻止することが出来れば、もしかすればこの事件が起こらない世界に変えられたかもしれない……なんてたらればは、ここで語るべきではないだろう。
「……そんなことが…」
素直なコウチは目に見えて明らかに肩を小さくしている。その横で、ソーマも知らなかった背景を重く受け止めて眉を寄せていた。
「その事件なら知ってる。でもまさか局長の奥様が被害者の中にいたとは……」
「局長も人には決して話されませんし、被害者が多すぎて名前までは把握しきれていないのは当然ですよ」
「……じゃああの時署長がヒップホップ禁止条例に賛同してたのは…」
合点がいった。そして、それ以上は他人に気安く言えることではない。
しゅんと自分のことのように落ち込んでいるコウチの肩を、シシドは黙って強く抱いて叩く。シシドなりの後輩への気遣いだ。
「本当は今日はお休みしてくださいって話もしたんだけどな」
言いながら、イガリは苦笑う。
「真面目な人だから、きっとこんな日こそ社会を正すために働くべきだって思ってたんじゃないかな……」
そうしてソーマを見た。困ったように笑う。
「そんなわけなので、コウチのレポート、ソーマさんが見てやってくれませんか」
「……あぁ、分かった」
承諾しながらも、ソーマは人知れず重い溜め息をつく。よりによって今日この件を知ってしまった。
「俺もこのあと用があるから、手短にやるぞ」
ついてこいとコウチを呼び寄せて職務室に戻る。コウチは素直な返事をして後ろをついてくる。
(…………アイツも間が悪い奴だな…)
今日はアースがクガをクラブBRAKE FREEのイベントに誘っている日だ。
ヒップホップ禁止条例が撤廃された後、クガは刑務局の人間を連れて一度BRAKE FREEに足を運んでいる。条例が撤廃されたといっても、当時は刑務局と若者達は分かりやすく敵対関係にあった。
「クガだ!何しに来やがった!」
一触即発の雰囲気の中、アースの計らいでアクロバティックで足並みの揃ったダンスパフォーマンスを見せた刑務局勢の姿に、状況は一転した。
肌の色やどこの人、どんな言語やリッチか貧乏か、そのどれも関係なく壁を壊せる自由こそがヒップホップだ。敵対してきた深い溝も、ヒップホップがあれば埋められる。
クガがアース達の為に動いてくれたことや署名活動に秘密裏に協力してくれたこともソーマやオーナーのマサが面々に言って聞かせ、今では刑務局を憎んでいる者は少ない。むしろあのイケたパフォーマンスが見たくて「またBRAKE FREEに呼んでほしい」と切望するガール達がいるくらいだ。非公式にファンクラブもあるらしい。まるでこの時代のゲバラやカストロだ。彼が白を黒と言えば、ガール達は黒にしてしまうのだろう。イケたリーダーのカリスマ性も考えものだ。
「……てなわけで、今日はさすがに局長は来ないかもしれないぞ」
クラブBRAKE FREEのカウンター。ソーマはコーラを片手にスツールに座り、隣に座るアースに先ほどイガリ達から聞いたクガの過去を聞かせていた。
クラブはまだ開店前で客は入っていないが、今日はイベントのリハーサルがある。ステージではキョウがMPCを叩き、パフォーマー達がアップがてらに自由に踊っている。時折盛り上がったメンバー達の歓声が響いていた。
「……そんな事件あったんだ…」
アースはコウチと同じようにキュッと心を痛めて萎んでいた。
「そんな日によりによってクラブに誘うなんて、ちょっと申し訳なかったな……」
そう反省するアースに、ソーマも多くは言えずに頷くだけだ。
「でもクガさんもさ、そういう事情、話してくれれば良かったのに……」
「ジャンキーに殺されたんだぞ、そんな簡単に人に話せるわけないだろ」
悲しみの乗り越え方は人それぞれだ。誰かに話すことで心が解放される人もいれば、自分の心の中だけでそっと眠らせておきたい人もいる。
「誰もがお前みたいに強いわけじゃないんだ」
「クガさん強いじゃん」
「〜そうだけど…!そういう話じゃないんだよ!」
まったく。アースは真っ直ぐに自分の中で白と黒がハッキリしているから、こういう時の言葉に出来ない感情に少し鈍感だ。
「マサさん知ってる? クラブでドラッグ買ってたって、どこのクラブかな?」
アースはカウンターの中にいるマサに身を乗り出す。マサは少し離れたシンクでワンドリンクの準備をしていたのだが、この話が聞こえない距離じゃない。
「…さぁな。その頃確かにここにも刑務局の調べは入ったけど、売人がいたのはうちじゃなかったのは確かだよ」
そうなんだと頷くアースの横で、ソーマは少しマサの表情を見つめる。潔白だと微笑んではいるが、どこか暗い目元。きっと世代的にも事件を知っているのだろう。
「クガさんならさ、そのことも分かってるよな。奥さんが亡くなったのはBRAKE FREEのせいじゃないって。それでも、やっぱり来ないかなぁ?」
確かにアースの言うとおりなのだが、やはり心情的には難しいだろう。マサは苦笑う。
「……どうだろうな。人の心はそう簡単には割り切れないものだからな」
「うん……でも今日はクガさんに見てほしい技があるんだけどなぁ……」
コークスクリューのことだろう。クガのパフォーマンスに触発されて、アースが最近必死になって習得した技だ。公の場で披露するのは今日が初めてになる。事情を鑑みれば仕方がないと思いつつ、アースはやはり惜しさを滲ませる。こんな時はやはりまだまだ子供だ。幼くいじけて項垂れる頭を、マサはくしゃくしゃと撫でてやった。
「また次の機会にすればいいさ。一度は来てくれたんだから、いつかまた見に来てくれる」
「〜……だといいけど…」
マサはその事件を確かに知っている。被害者が誰かまではさすがに網羅していなかったが、あまりにも心苦しい運命に言葉が出ない。
『ヒップホップは害悪である』
その犯人は、BRAKE FREEにも来ていた青年だった。
当時、夜のクラブに集まる若者達の一部にドラッグが蔓延していたのは事実だ。
マサがオーナーをしている店では出来る限りそういう事案がないように目を光らせてはいるが、今も完全には行き届かない。
署名活動中に捕まった時、聴取室で対峙したクガの姿が忘れられない。圧倒的な強者。
『ダンスも、ラップも、若者を犯罪に巻き込む危険なものだ』
永久に溶けない氷のような目。誰の意見も受け付けない静けさと覇気のある声質。
あの頃は彼の背景を知らなかったから、なんて独裁的で高圧的な人間なんだと絶望した。けれど……そうか…。
(あの人にも『譲れない理由』があったんだな……)
条例で決まったことだから、だけで動いていたわけではなかった。
囚人を痛めつけること、人を支配し優位に立つことを悦しんでいたわけでもなかった。
あの事件にたとえこの店が直接は関係がなかったとしても、有象無象の客の質など知らない、彼女は運が悪かっただけだなんて考えで済ましてはいけない問題だ。
若者を犯罪に巻き込む悪意はどこにでも存在する。犯罪の影には必ず失われたものがある。
そのすべてを正そう守ろうというのなら、このニューシティと多くの部下達を従えた彼が背負っているのは、……果てしなく重い責任だ。
強くなくてはならない。絶対的に。それはどれほどの重圧なのだろう……。
今日のイベントではアースがメインダンサーとしてステージに立つことが決まっていた。
まるで猛獣の心音のようにクラブの外まで震わせるベースの重低音。綺羅びやかなネオンの看板。BRAKE FREE。
分厚い両扉を開ければそこは暴れ狂う怪物の腹の中。ビートに合わせて繰り出されるホーイチのラップは縦横無尽に客を楽しませ、自然とその手を上げさせる。
ステージの上、デュークがサブダンサーを従えて得意のショットガンスタイルでフロアーをその足で撃ち抜いた。撃たれた客は飛び上がってレスポンスを返す。デュークは時折、次の出番を待つアースにも「来いよ」と強気の煽りを入れ、手で作った銃を向けて鋭く弾丸を放った。
ステージの中央、一段高いDJブース。アースはディスクジョッキーへ拳を合わせに駆け寄って、肩をぶつけ合って挨拶を交わす。アンタのナンバーは今日も最高だ。
集まった客は波のようにうねって、クラブ全体がこの音を楽しんでいる。巨大なクジラがこのニューシティの真ん中で宙に飛び上がるイメージ。何もかもを水面を叩きつけて大波を巻き起こす。誰も彼もがその波に乗り、前向きな熱気に包まれた良い雰囲気だ。
しかし、フロアーを見渡してもやはりクガはいない……。
「フゥーーー!!」
探し人が見つからない代わりに、満足げな笑顔を咲かせたハンクがスタッフさえも巻き込んで客を煽りまわっているのが目立っていた。
(……参ったなぁ…)
ソーマはカウンターに背を預け、ステージを遠くに眺めていた。そろそろアースの出番だ。
何度かスマホを手にしたが、結局クガへ連絡することは出来ずに「ぁあっ」と独り唸ってポケットに仕舞うことを繰り返していた。
クガは……今日はもう来ないだろう。それは当然だ。親友の晴れの舞台ではあるが、しかしクガにも自分の心の平穏を一番に考えてもらいたい。
だとしても、誘っていた手前、アースが申し訳ないと反省していたことは話してやったほうがいいのか、むしろ何も知らないふりをして今まで通り関わらないように避けたほうがいいのか……。
こういう時、自分はアースと違って延々と引き摺ってしまうのだ。正解はない。だからこそ難題だった。どうしたものかと悩んでいると、会場が一際大きな歓声に包まれる。
暗転したステージに一筋のスポットライト。その細い光の中にアースはいた。
閉じていた瞼がゆっくりと開き、会場を真っ直ぐに見据える。その強い眼差しは誰もを惹きつけて離さなかった。
(……アースには、もうここじゃ狭すぎるな…)
マサはカウンターの中からステージを見守り、じんわりと胸を熱くさせる。アースのダンスは見えない羽根を羽ばたかせていて、今にもどこか遠くへ飛んでいってしまいそうだ。リミッターのない若さに少し心配になるくらい。でもそんな年長者の心配なんてお節介だと笑い飛ばして、アースはどこまでも飛んでいくのだろう。
このステージをあの刑務局長が見たらきっと改めて思い知る。あんな子を檻に入れて飼い慣らすなんて、無理に決まっていたんだ。
やっぱりダンスもラップも楽しい。
大好きだ。この場所がおれのすべてだ。
心臓がでたらめなビートで暴れている。せっかくセットした髪も汗でへたってるけど、全然気にならない。今この瞬間、おれは誰よりも自由だ。
全部置いていく。全部叩きつける。
これがおれのすべてだ。心して食らえ!
すべての音と昂りが集約されて、アースはステージの真ん中で最後のダンスの一撃を見えない壁をぶち破るように殴って決めた。
クラブBRAKE FREEから音が消えたのはそのラストからほんの0.5秒。アースの圧倒的なパフォーマンスを浴びたフロアーは息を飲んだその静寂から、爆発的に沸き立って空間を震わせる。
怪物の咆哮のように耳を劈く空気を、アースは一身に浴びていた。集まったヘッズ達の喝采を受けて立つスポットライトの光の向こう、その一瞬、確かに見えたものを見逃さまいと視界の奥に意識が一気に集中した。
「――!?」
息が止まった。スローモーションに見えた。
たくさんの人々がこちらを向いて喝采と笑顔で手を挙げている中、フロアーの中央からクラブの扉に向かって歩いていく背中。後ろ姿でも見間違えない。
クガが帰っていくのが見えた。
「っ!!」
何も言わずに来て、何も言わずに帰るなんて、そんなことさせてたまるか。ここで終わらせてたまるか。衝動的に駆け出す身体が止められなかった。
今日のステージを、おれはあんたに見てほしかったんだ!今のリアルなヒップホップを、あんたに感じてほしかったんだ!!
アースを絶賛する口笛や拍手はまだ続いていた。なのに、何かに驚いたアースは急に「ごめん!」と客へ叫んで、唐突にステージを飛び降りた。
ひったくりでも追いかけるような形相でフロアーを横切っていくアースに皆が驚いて目を丸くする。何が起こったのかと少しざわざわと不審な空気が流れるが、そんな突拍子もない挙動もアースらしいと思えばいつもの事だ。
「っ、オイまだまだ終わんねぇーぞ!!」
一瞬虚を突かれたが、すぐに機転を利かせたデュークがDJに指示を出して次の音楽をかけさせる。ホーイチの首根っこを掴んでステージに引っ張り上げる。
「ふぇえ!?僕ですかぁ!?」
フロアーで完全にアースを応援する客になっていたホーイチは突然の白羽の矢に目を回すが、デュークからの強気のアイコンタクトにスイッチを入れると即興で音にフリースタイルを被せてパフォーマンスを再開させた。
会場のテンションは何とか途切れることなく繋がるが、ソーマはカウンターの横を駆け抜けていったアースを引き止めようと動き出す。
「おい!アースお前何やっ…」
駆けるアースはソーマには目もくれず、クラブ出入り口の向こうに釘付けだった。最大級の大声で叫ぶ。
「――クガさん!!」
「!?」
まさか。ソーマはアースから放たれたまさかの呼び名に目を見開く。驚いて、言葉が喉に詰まった。
来てたのか。来てくれていたのか。
どうして…と信じられない気持ちで一瞬身体が固まったが、すぐにアースを追いかけて走り出す。
「クガさん!!」
必死に呼び止めるアースの声は聞こえているはずなのに、クガは普段のように淡々と立ち止まらずクラブを出て歩いていってしまう。
道に出てから、周りの音がなくなった状態で、アースは懲りずに叫ぶ。心の底から。
「ありがとう!!」
そこで、クガの足は静かに止まった。
アースが勢いよく開け放った扉を、ソーマは一歩遅れて駆け抜ける。
ひんやりとした外の空気がぶつかって、一瞬髪がふわりと浮く。クラブに溜まっていた熱気から解き放たれて、まるで暗いトンネルを抜けたようだった。
背後で分厚い扉は閉じられて、フロアーのビート音は少し遠くに鳴りを静める。
ソーマの心臓はバクバクと大きな音を立てていた。亡くしたパートナーのこと。己の過去と現状に苛んだであろうクガの心境。知らなかった事情を知った上でクガと真正面から話すのは……緊張する。
ソーマは何から話そうかと頭の中で引き出しを開けまくっていたが、アースはきっと何も考えてはいないんだろう。
……そういう奴のほうが、最強だ。
「ありがとう!!」
「……」
クガは立ち止まっても、振り返りはしなかった。その背中に、アースは構わず続ける。
「見に来てくれてありがとう。見てくれた? おれもコークスクリュー練習したんだ。まだまだ全然低くて、あんたみたいには飛べないけど。でもさ、これからたくさん練習する。絶対出来るようになるよ。コークスクリューだけじゃない。今まで出来なかったこと、きっとこれからもどんどん出来るようになるよ。おれ、あんたにだって教えてもらいたいことがたくさんあって、」
「もういい」
アースの言葉はあの時と変わらずまっすぐだった。
『今のあんた達の本音!聞かせてくれよ!!』
「……」
クガは背を向けたまま、そっと目を閉じる。慎重に胸の奥深くに息を吸い込んでみても、何故か息苦しい。込み上げる感情に耐えられずに 深く吐息する。
「……もういい」
ダンスも、ラップも、若者を犯罪に巻き込む危険なものだ。
彼女はダンスが好きだった。
…………自分も好きだった。
けれど自由を履き違えた若者は簡単に犯罪に染まってしまう。簡単に誰かの大切なものを奪ってしまう。
若者の未来を奪ってはいけない。
加害者にも未来への権利を。
そんな尊い思想の数々。頭では分かっている。分かっているさ……でも、
……奪われた側の人間には何が与えられる?
罪を犯した者は更生矯正させなければならない。
危険分子は排除し、この社会の秩序を守らなければならない。
それが私の果たすべき役割だ。
何も許さない。
それが私に出来る務めだ。
……そう自分に課してここまできたんだ。
けれど私が長い時間独りで彷徨い続けてきたこの葛藤を、たった一人の少年が暴いてしまった。
「どれだけ練習したかは、見れば分かる」
部下達も同様だ。任務での動きを見ればどれだけトレーニングを積んできたのか分かる。何が足りないのかも分かる。助言してやれる。…だからクガはどれだけ多忙でも必ず現場に出ているのだ。
振り返ると、二人の青年は神妙な眼差しで自分を見つめていた。
『夢』『未来』『自由』それらを知っている少年の眼だ。
「……今日は奥様の命日だとお聞きしました…」
ソーマが戸惑いがちに伺ってくる。その一言ですべて察した。今日私がここに来るとは思わなかったのだろう。
まったく…。やれやれと心の中で笑む。誰から聞いたのかは大目に見て言及しない。
シシドとイガリには休んでほしいと言われたが、そんな日こそ秩序を守るため働かなくては何のために局長という立場になったのか。
目の前のクラブBFからは変わらずビートの効いた音楽が空気を揺らしている。あの分厚い扉でも、自由を唱う音を封じ込めることは出来ない。
認めよう。信じよう。この若者達へ心からの賛辞をもって。
クガは凛と背筋を正し、真っ直ぐに目を見てアースに応えた。
「過去は変えられない。でも、お前達は未来を変えられるんだろう?」
アースは強い意志を込めた瞳で当たり前だと頷く。いい返事だ。
「良いステージだった。お前を釈放して良かったよ」
クガからの、何の偽りもない賞賛。信頼。期待。認めてくれた言葉だ。
少し強張っていたアースの表情は、それだけで一気に花火のように弾けて笑う。
「おれも!アンタに出会えて良かったよ」
交差する視線はもう局長と囚人でない。同じ根っこを持つ、人間同士だった。
「ケンカにも強くなれたし!」
ビシッとクガに拳を突き出してみせるアースに、静かに見守っていたソーマは驚いて「バカやめろ!」とその手を取り押さえる。叱られても全く悪びれないアースに、思わずハハと笑ってしまった。
「あの中での出来事をケンカだと思っていたのか」
ずいぶん太い神経をしている。
「申し訳ありません、こいつバカなんです」
ベシッとアースの頭を叩いて頭を下げさせるソーマにも、柔く笑んでみせた。
「ここは職場じゃない。もっと緩くていい」
ソーマにとって、自分はおそらくいつも空気をヒリつかせる存在だったはずだ。シシドやイガリのように距離の近い接し方はしてこなかった。試みてはみたが、ソーマ自身にそのつもりもなかっただろう。
クガの様子に、何故かアースのほうが嬉しそうに笑ってソーマの肩を小突く。
「だってさ」
「っお前にじゃないだろ」
「ソーマは硬すぎるんだよ、相手に苦手意識持ってたら何も変わんねぇぞ」
「本人を目の前にして苦手とか言うな」
……聞えてるぞ、とは言わないでおく。
若者は難しい。
「おい、アース!」
クラブの扉から、オーナーのマサが呼び戻しに来る。
「主役がカーテンコールにいないなんてどうするつもりだ」
「!ヤッバ」とアースとソーマは慌てて戻っていく。脇を通り抜ける二人に笑って「ほら急げ急げー」と肩を叩いたマサは、やれやれ息をついてからクガを見やる。
「最後まで見ていってやってください」
BFへ戻ったマサはカウンターに一杯のグラスを置いた。そのグラスを指先で受け取ったクガに、自分もグラスを軽く掲げる。
ステージではイベントの余韻が続いていて、パフォーマーも観客も音に乗っている。このカウンターだけはその音の輪から外れて少し落ち着いた空間だ。
「奥様に」
哀悼を。マサは正直にソーマから聞いたことを告げ、自分の目が細部までは行き届いていないことも話した。
「クラブが犯罪の温床だと印象付けられてしまうのは僕ら大人の責任です。今HIPHOPを愛してる子供達には罪はない」
ここはアースのような子達を守るためにある場所だ。
このクラブを統括するオーナーへ、クガは細めた目を光らせる。
「それは印象ではなく事実だ」
実際に最愛の人を失っているその厳しい視線と声色に、マサは少し息を詰まらせる。でも、……
「でもHIPHOPは犯罪じゃ「例えばこの先このクラブから犯罪に染まってしまう若者が出てきた場合、私は決して容赦しない」
見逃したわけではない。
アースの言葉は決して”すべての若者”の言葉ではない。これから先はより深く人間の善と悪を見極めていかなくてはならない。
世の中にいるの『犯罪者』か『我々』か。そのどちらかしかいないと決めつけることで目を背けてきた事実と、向き合っていかなくてはならない。
「……人を導くことは、簡単ではない」
まるで自分にも言い聞かせるようなクガの言葉を、マサも重く受け止める。
「胸に刻みます」
そうして互いに目を交わして、グラスを飲み干した。このほんの少しの時間で充分。『大人』である自分達の在り方を認め合った。
マサはほんの少しいたずらに笑う。
「もううちの子達を貴方の元にやるわけにはいかないからなぁ。刑務局長様がどれだけ怖い人かはよーく分かってるので」
と、わざと鳩尾を押さえて上目にクガを見る。蹴りが入ったあの時、痣が2週間は消えなかったし、痛みも二ヶ月は続いた。……この人はきっと、いや絶対に、若い時はその攻撃力でブイブイいわせてたタイプだ…。どんな新人時代だったのか、いつか聞いてみたいくらいだ。
「ていうかアレって訴えたら僕勝てるんじゃない!?」
クガは二杯目をもらいながら、眉を上げる。上等だ。
「どこの誰に訴えるって?」
「……わぁー……やっぱり怖い人だ」
ひゃーと自分の肩を抱いて慄くマサに、クガはようやく氷の瞳を緩めてははと自然な表情で笑った。
(こんな風に笑うんだ)
誰も寄せ付けないような冷え切った目をしていると思っていた。けれど思えばこの人を取り巻く部下達はみな彼を尊敬し慕っているように見えた。
厳しい人だけど、胸の内を解けば人に寄り添う人でもあるのだろう。そうでなくては社会から『悪』を正す職など就きはしない。
「あぁでも良かった。こうして話してみなきゃ分からないこともあるから」
それに、と自分とクガを交互に軽く指差して続ける。
「この年になると同年代の友達ってなかなか出来ないじゃないですか。貴重な出会いだ」
友達。いけしゃあしゃあと言ったマサに、なんとも言えないむず痒さで眉が寄る。
友達になった覚えが微塵もない。むしろプライベートで話したのは今日が初めてだ。
怪訝さをモロ出しするクガに、マサは両腕を広げて朗らかに笑う。
「HIPHOPが好きな奴は全員仲間ですから」
暢気な男。その危機感の無さが犯罪に漬け込まれる、と言い返そうとした途端、何やら騒がしくアースがテーブルに駆け込んでくる。グラスを倒す勢いだ。
「クガさんダブルダッチできるってほんと!??」
慌てて追いかけてきたソーマが口を塞ごうとするが、アースは目をキラキラさせて止まらない。
「やってみせてよ!」
「アース!だからお前は少しは弁えろバカ!」
一緒に駆けてきたホーイチも、ソーマをまぁまぁと押し退けてクガを覗き込む。
「見せてください!僕とデュークさんのも見せますから!」
「おい俺やるなんて言ってねえぞ!」
やってやってと少年達にテーブルを囲まれてせがまれる。刑務局長に対する態度ではない。
…まあプライベートでそんな肩書きを持ち出すつもりもないのだが。
目が合ったマサは「どうぞ」と手をステージに向ける。
職場ではあり得ないこの状況、イガリやシシドが見たら血相を変えるだろうなと思いつつ立ち上がった。
「ターナーは誰だ」
ジャケットのボタンを外す。沸き立つフロアーと己の目を交互に指差す。見ていろという合図だ。
クガのパーフェクトなダブルダッチに、少年少女達は羨望の眼差しで教えて教えてと手を上げた。
マサが「おーい、もう店閉めるぞ〜」と手を叩くまで、没頭していた。
好きなものに全力で取り組むストリートの若者達の姿は、クガが久しく見ないものだった。
「付き合ってくれてありがとうございました。部下の子達よりだいぶ騒がしい連中でしょ」
帰り際、クラブの扉を出た先でマサにそう声を掛けられた。二人は並んで話し出す。
「クガさんの夢はなんですか」
何の話だと目をやると、マサはふと笑う。
「アース達はまだまだ間違えることもあるかもしれません。でもね、案外そういう時も自分達で何とかするもんなんですよ」
そう……あの子達は自分の力で、自分の心で、動くことができる。
「僕達大人は少しだけ力を貸してやればいい。僕は、彼らにHIPHOPの未来を託してみたいんです」
いつかの若かりし自分が託されたように……。
「この場所を守り続けること。そしてアース達のような若者が羽ばたいてく姿を見守ること。それが僕の夢。その為にしてやれることはなんだってしてやりたいんです」
マサはそうして「貴方は?」と眼差しでクガに問う。
クガは遠くを見たまま、少し考えて言葉にした。
「この世界の秩序が保たれること」
その視線の先には、わいわいと騒ぎながら帰路につくアース達の背中。無邪気で、真っ直ぐで。……気がつけば心の中でそっと(気をつけて帰れ)とまるで親身な年長者のように願う自分がいた。
「……キミはさっき私を友達だなんて言っていたが……本来はあの場所で私に出会うような生き方をしてはいけないんだ」
彼らのように一歩踏み外せば犯罪に巻き込まれやすい瀬戸際に立つ子供達には……まずは踏み外さないように見守る大人が必要だ。
「この場所を残す以上、キミが果たすべき役割は大きい」
一方は音楽と自由を愛するこのクラブで、闇に引き込まれないように手を差し出し。
そしてもう一方は法と秩序を守る刑務局で、闇から無理矢理にでも光へ叩き出す。
それぞれの場所で、若者を見守っていくことが必要だ。
「キミはキミの役割を果たし、その時がくれば私は私の役割を果たすだけだ」
理不尽さを繰り返すこの世界は変えられない。
人は何度だって過ちを犯す生き物だ。
ならば私は私の役割を果たすとしよう。
過去、理不尽の犠牲となった人々のために。
そして、……これからを生きる若者達の未来のために。
話すクガの横顔を見て、マサはひっそりと心温かく笑む。ここにいるのは『局長とオーナー』ではなく、ただの『お兄さん達』…いや、アース達からしたらただの『おじさん達』か。……
「あーあ。こんな事考えちゃうなんて、僕も大人になっちゃったんだなぁ」
少し神妙だった空気に柔らかく戯けて身体を伸ばしてみる。クガと同じ眼差しでアース達の帰路を見守った。
クガも小さく息をついてキミに同意だと笑って、ひっそりと左手の薬指を愛おしく撫でる。これに触れる感触に、今は痛みとは違う温かさを感じる。あの日から眠らせていたこの指輪を手に取るまでに、ずいぶんと時間がかかった。
「キミも、二度と監獄に戻るなよ」
「えぇ? 勝手に捕まえといてよく言うよぉ」
してやったりと笑むクガに降参して、マサも肩をすくめて笑った。
この世界は理不尽に満ちている。
でも、……希望を捨てるほどじゃない。
そうだろ? ――――。
後日、今日のことを聞いたシシド達がBFの面子だけで局長と接したのはズルいと騒ぎ立て、全員でバーベキューをすることになるのは、また次の未来だ。