続・死なせない自分にも何かを懐かしむ感情があったのだと、彼らと過ごすうちに思い出すことばかりだ。
「時空院さんがいない間にこの家も色々と変わったんですよ」
言いながら、燐童は玄関のドアを開ける。
時空院の長い入院生活は今日で終わりを告げた。ほとんど廃屋のような病院から「健康な人間に出してやる食い物はない」と乱暴な勧告を受け、まだ日の明るい時間にこうして燐童に付き添われて退院してきた。
数か月と経ったにしては荷物は少ない。数枚の着替えがあるくらいだ。それと白いマニキュア。帰ったら誰かさんに塗ってやらなければならない。
「まだこちらのお宅を使っていたんですねぇ」
「えぇ、最初は一時の仮住まいのつもりでしたけど、こうなるともう普通に持ち家みたいなもんですね」
この国に密入国した際に手引きしてくれた人物が手を回し用意してくれた一軒家。
大家は中年の恰幅のいい女性で、うまく言葉が通じない四人の外国人を相手にしても「家賃さえ払ってくれればそれでいいさ」と豪快に笑っていた。言語も扱えて外交に慣れている燐童や素直な受け答えをするおかげで思いのほか年上に受けの良い谷ケ崎のおかげで、密入国者だということを分かっていてもこの地域の人々は自分達を受け入れてくれている。心地よい無関心と寛容さ。退院しても全快とはいかない時空院のことを考えると、この家を手放すには惜しかった。
もちろん何かあればすぐに出ていく覚悟はしている。……しているはずなのだが、月日が経つにつれてこの家はすっかり住み心地の良い空間に仕上がっている。もはやアジトというよりも我が家という感覚だ。
「ただいまー」
玄関を抜けてリビングに入る燐童がドアを開けながら無自覚にそう声にする。後ろから続いていた時空院はその自然さに少し驚いて、ひっそりと笑ってしまった。
「二人ともまだ帰ってないみたいですね」
谷ケ崎と有馬は用事があるからと今日の退院には付き添いに来なかった。仕事ではない。どんな用事なのかは詳細には聞いていないが、燐童は彼らの目的に心当たりがある。ダイニングテーブルには飲みかけのグラスやホームセンターのチラシが広げられたままだった。やれやれとそれらを片付けながら、燐童は時空院に声をかけようとして一瞬手が止まる。ドア口でリビングに入らずに立ち尽くす時空院の横顔が、いつもよりずっと大人しかった。まるで霊視する霊媒師のように家中の空気を感じ取っている。
「………」
数か月ぶりに帰ってきた人間を、この家は拒んだりはしない。むしろ迎え入れるように温かい空気が流れていた。自分が知っている頃よりもずっと「家」になっている。入居時から置かれていたソファーや家具からはよそよそしさが消え、すっかり燐童達に馴染んでいるようだった。
「ここなら病院よりは羽根が伸ばせますよ」
燐童がほんのり笑ってそう声を掛けても、時空院の気持ちには少し距離があるようだった。
外から二人分の足音。そのすぐ後に玄関の開く音。
谷ケ崎と有馬がガサガサと何やら買い込んだビニール袋を手に帰ってきた。
「ただいま」
リビングに入りながら、谷ケ崎も先程の燐童と同じように自然と言う。
その後ろから続く有馬は「いやこれマジで重いわ」とボヤく。久しぶりに帰還した時空院のことなど当然のように視界に入れて、
「早かったんだな」
「突っ立ってんじゃねぇーよ邪魔だ邪魔」
と脇を通り過ぎて買ってきたものをダイニングにドカドカと置いていく。その中でも谷ケ崎が小脇に抱えていた箱物はひと際大きかった。
「わあ!本当に買ってきたんですか?」
谷ケ崎が置いたそれを見て、燐童はははと笑う。大真面目に頷く谷ケ崎に、有馬はうんざりと大袈裟にため息をついてみせた。
「ホットプレートなんて洗うの面倒くせーだけだぞって言ってんのによ」
「買うならコレにしろって選んだの有馬だろ」
「ぁあ?てめぇが安いやつで済まそうとすっからだろうがよ。こういうもんは正規品買うのが一番コスパ良いんだよバカ」
言いながらキッチンに入る有馬は腕まくりをして手を洗う。
「さっさと箱から出せ、一回洗うから」
「わかった」と開封する谷ケ崎からは心なしかわくわくほわほわと花が飛んでいる。その様子をよしと見てから、次は燐童にビニール袋を顎で示す。
「肉だけ先に切って冷蔵庫入れとけ、ブロックだから」
「ええん僕そんな大きなお肉切ったことないんです~」
「嘘乙。人間よりかは切りやすいから安心しろ」
「いや僕本当に人間は切ったことないですよ、沈めたことはありますけど」
とんだブラックジョーク。視線は自然と時空院に集まる。
「おや。私の出番ですかねえ!」
意図を汲んで、悪乗りで胸に手を添えてみれば、三人はそれぞれにあははと笑ったり、うっそり目を据わらせたり。
「お前に任せるのは、……なんか嫌だわ」
「失礼ですね有馬くん、私以上に適任者がいますか」
どれどれとキッチンに入ろうとしたところで、谷ケ崎にぐいーと首根っこを捕まえられる。
「丞武は見学だ」
おや何故と首を回して尋ねようとして気付く。伊吹は柔く笑っていた。これはお咎めではなく気遣い。退院したといってもまだ体は本調子ではない。実際まだ少し肩が硬かった。見る者が見ればその違和感は感じ取れる。
「今日はお前の退院祝いだからな」
大人しく待っていろ。まるで子供に言い聞かせるような言葉に思わず笑ってしまった。いつの間にそんなお兄さんの顔をするようになったのだろう。人の成長がこんなにも興味深いものだなんて、知らなかった。
ホットプレートで焼肉パーティーなんて、まるで休日をのびやかに過ごす家族のような昼食。
肉。野菜。肉、肉、肉、野菜。じゅうじゅうと焼ける音、もやんと上がる煙。
トングで具材の焼き上がりを確認しつつ、有馬は「は?」と驚いて視線を時空院に向ける。
「マジかよ、お前ホットプレート使ったことねえの」
「えぇ、こういう食卓は初めてですねえ。新鮮です」
子供のようにほんの少しテーブルに前のめりになってプレートを覗く時空院に、燐童は「油飛びますよ」と笑う。
「時空院さんって良いとこの子ですよね、本当に聞けば聞くほど」
「……それでどうしてこんな大人になっちまうんだ」
「ナチュラルに失礼ですよ伊吹」
交わされる会話は途切れることなく賑やかで、未だに互いに知らないことも多いのだという驚きもある。
「おいちょっと待て谷ケ崎お前さっきから人が焼いた肉片っ端から取っていきやがるな」
言ったそばから谷ケ崎は有馬が置いた肉を取っていく。オイと言われてもきょとんとした目。
「? こっちに寄せてくるから俺の分なんだろ」
「違ぇわ!なんでお前の分も焼いてくれてると思ってんだよ、持ってくならこっちにしろバカ」
「焦げてるのはいらない」
「わがままが!」
不満を言いながらもトングを持つのは有馬の役割のまま。自分の分だけでいいと思っていても、谷ケ崎の不慣れさが目につくとイライラしてしまうから結局手を出してしまうのだ。そうしてテリトリー合戦が繰り広げられる中で燐童はちゃっかり自分の分を確保しているし、有馬は時空院の皿も空になれば自然と肉を下ろしてくれる。
二人が買い込んだ食料の中には練乳やシロップも入っていた。どうやら今日くらいは糖分のお許しが出ているらしい。
病み上がりで弱っている身体に肉の油と毒のような甘味が染み渡る。一枚の肉が見えなくなるほどに練乳を垂らしていると、さすがに伊吹に手首を捕まれた。言葉もなくスッと制するその動きは静かに見えるが、実際は握り止める手の力がぎゅーっと本気なのだから、おっかない。
「許してくれているのでは?」
「限度があるだろ」
「……伊吹、実は私とってもお腹が痛いんです…。この糖分を摂取しないと治まりそうにありませんっ」
「それは腹を縫ってるからだ」
「……あぁ…どうしてそんな薄情な子になってしまったんですか伊吹。私はそんな子に育てた覚えは」
「いいから黙って手ぇ放せ」
最後まで言わせてくれない。無理やり剝がし取られた練乳は速やかに燐童の手に渡り、時空院の手の届かない位置に保管される。きっとあとで谷ケ崎に相談された燐童がそう簡単には見つからない場所に隠してしまうのだ。あぁと大袈裟に嘆き悲しむ時空院を見やり、有馬は冷ややかに言う。
「買ってきてやっただけ有難いと思えや」
「有馬がカゴに入れたからな」
「は?今日くらいはって言い出したのてめぇだろ」
次の試合は謎の告げ口合戦。まったく、こうなると本当に兄弟のようだ。
今日一日で起こるすべてのやり取りが可笑しくて、糖分を没収された悲しみよりも愉快さが勝って笑えてしまった。
急にふふふと笑い出す時空院を、三人はギョッとして見やる。ついに狂ったかと驚くその視線に、時空院は穏やかに微笑む。
不思議なものだ。最初はただの利害の一致で組んだだけの集団。それがどうしてこんな気持ちにさせられるのだろう……。
「~…んだよ気色悪ぃな」
妙な温かさで三人を見つめる時空院に、有馬はむず痒く眉を寄せる。谷ケ崎と燐童も同じく不思議そうに首を傾げていた。
「いえ……なんだか、帰ってきたんだなぁと感じるもので」
困ったように笑ってそう応えた時空院の言葉に、有馬と燐童も少しだけ目をハッとさせる。誰かが待っている場所へ帰るという経験が、自分達にはあまりないのだ。
そんな足りない自分達に、今こうして「ただいま」と言える空間がこんなにも根付いている。それはまるで兄弟の背が伸びていることに気付かない日々のように。
「? 当たり前だろ、俺達の家なんだから」
どことなく歯がゆい空気の中で、谷ケ崎だけは何も疑わずにそう言える。その鈍感さがある意味最強だった。本人は全くもって気がついていないその強みに、三人はひっそりと目配せをして笑うだけだった。
深夜、焼き肉パーティーでの慰労会を終えた一軒家はしんと静まり返る。
闇が主戦場の脱獄犯達だが、クラブ遊びを覚えたばかりの子供と違って、暗闇に浮足立つほど幼稚ではない。夜になれば周囲の静寂に身を合わせ、それぞれが個々の時間を深々と過ごしている。
電気を落としたリビングの外の廊下から時空院は洗面に用があって脱衣所に足を踏み入れる。脱衣所のドアを開けると中は明るく、鏡前には先客がいた。
「おや失礼」
ちょうど風呂に入ろうとしていた谷ケ崎が上着を脱いでいたところだった。時空院が入ってきてもさして気にした様子はなく、上裸のままランドリーバスケットに服を放り入れる。互いのナイトルーティーンはすでに把握していて、手洗いだろうと予測した谷ケ崎は軽く身を引いて鏡前を時空院に譲った。
「失礼」と遠慮なく入室した時空院は、洗面で手を洗う。これは彼の寝入り前の習慣だ。人を初めて殺めたその日から繰り返してきた行為。
どこも汚れてはいなくとも、キンと冷えた水で手を洗い流さないと気持ちが悪かった。潔癖なわけでも、罪悪感があるわけでもないのだが、……言うなれば料理をしたあとに手を洗うようなものだった。
濡れた手をタオルで拭いてから、時空院の指は不意に谷ケ崎の腹を差す。苛烈な体術を繰り出す谷ケ崎の身体はその実、バキバキに筋肉質というわけではない。身軽さも兼ね備えた滑らかな質感で程よく育った腹筋。その一部には五センチほどの一文字の縫い痕。
「それ」
指を差された瞬間、その時空院の表情で谷ケ崎は察知する。
「腹を縫ったのは私だけではなかったようで」
「……まあな」
どうやら時空院は谷ケ崎があの時下した判断、その事の顛末を誰かから聞いていたらしい。
ああ見えて顔に出やすい燐童からかもしれないし、特に口止めはしていなかった医者からかもしれない。代わりに命を差し出したことなんて知らせる必要はないと思ってはいたが、こうして知られていた以上、谷ケ崎にとっては誰から話が漏れたかなんてどうでもいいことだ。たいしたことじゃなかった。
「まったく…。バカな真似をして」
呆れかえる時空院の視線を追って、自分も己の腹を見下ろして傷口を確認する。
改めて指先で沿るように痕に触れてみると、皮膚の繋がり方は歪つだがもう完全に塞がっていて、痛みはない。
「褒められたことではありませんよ」
まるで上官のような叱責に近い時空院の声色。けれど谷ケ崎は悪びれもせずに顔を上げて言い返す。
「自分だって人のこと言えねえだろ」
お前だって俺たちのことを庇ってその身に散弾を浴びたのだから。
「それに…、」これは本心。
「俺にとっては今まで生きてきた中で一番価値のある傷だ」
そう断言してこちらを見据える伊吹の表情はいつもと変わらず静かで、でもどこか誇らしげだった。
(……そういうところだ…)
当然のように言い切った白眼に射抜かれ、時空院は一瞬びくりと言葉を失う。
谷ケ崎伊吹の言葉は見えない力でこうして人の心根を掴んでしまう。攻撃されたわけでもないのに、喉の奥が絞られたようにきゅっと熱くなった。
「、…困りましたねぇ」
真摯さをまともに食らったことを誤魔化すように、すぐにふふと笑ってわざと嘆かわしい素振りで応えてみせた。
「伊吹がこんなことをすると知ってしまったら、私、もう死ねないじゃないですか」
どうしてくれるのかと責めるような口ぶりに、谷ケ崎も負けじと微かに勝ち誇って笑う。それはまるで年の離れた兄に勝てたことを喜ぶ幼い弟のように。純粋に、素直に。
「だったら生きろよ。どんなに強い奴と戦ってもな」
それはかつて強者から死を与えられることを望んだ自分への警鐘か。どうして……そうやって何もかも軌道修正させてくるのか…。
「……伊吹はわがままですねえ」
自分の命を人質に、こんな風に私を従えてしまうのだから……この青年はとんでもない王様だ。
向けられた言葉の数々に時空院がどんな心情なのかなんて気にも留めず、谷ケ崎の中では話が一段落がつく。いつまでも上裸でいるわけにもいかない。さて風呂だと下も脱ごうとして、はてと気付く。用が済んだはずの時空院に脱衣所を出ていく気配がない。むしろニコニコと奇妙な笑顔でこちらを見ている。じーーっと。
「…………おい丞武」
出ていけ。うっそりとした声で叱られて、変態はようやく「はぁい」と観念して両手を上げて脱衣所を出て行った。
明るかった洗面所から暗い廊下に戻ると、薄ら闇の中に有馬と燐童がいた。
「おや、お二人も夜更かしさんですねえ」
「…………」
リビングの向かい、自室のドア前に背を預けて立っていた有馬は、時空院と目が合うと何も言わずにするりと猫のように部屋の中に消えていく。けれど一瞬交わしたその視線で、彼が何を言いたいのか分かるような気がした。
(お前の負け)
リビングのドアから隠れるように覗いていた燐童は、有馬が何も言わずに自室に戻ったことを仕方がないなと見送ってから肩をすくめる。有馬が口にしなかった言葉を声にした。
「どうやら僕らはもう逃げられないみたいですよ」
あの怪物から離れるなんて、きっとどんな監獄から逃げ出すよりも難しい。けれど彼はどんな檻よりも頑丈で心強い芯を持っている。……頼ってみてもいいんじゃないかな、なんて思ってしまうのだ。
こうして時間を空間を人生を共にしていると、互いを死なせたくないと思わされてしまう。……もうこの心は孤独には戻れない。
「……えぇ、そうですね」
燐童の言葉を受けて、ようやくすべてを受け入れる。
「少しだけ惜しい気もしますが、ここは甘んじて受けましょう」
私はもう以前の私ではなくなってしまった。
ああして当然のように人を生かそうとする怪物がいる。あぁまったく、本当になんて厄介な怪物に出会ってしまったのか。
もう私は私の命を私の都合では捨てられない。こんなはずではなかったのに……。
「伊吹には敵いそうにありませんから…」
敗北を受け入れて、つい笑ってしまう。観念しましょう。
私が生きていくのは他のどこでもない。ここだけだ。