手負いの獣七歳の一人娘を警護すること。
それが今回D4が請け負った仕事だった。
どんなに悪どい闇の商人にだって家族はいる。そしてその家族は何よりも弱点になる。
商人は一つ大きな仕事を抱えていた。様々な思惑がうごめく中、うまく事が運ぶと思った矢先に商売敵の怪しげな動きを察知する。
『娘が狙われている』
世話になっている商人からの依頼。報酬は大したことはなかったが、家族を守るという依頼は、熟せば後々こちらの優位に効いてくる。
期間は二週間。その二週間で商売敵はどうやら壊滅させられるらしい。闇の戦争は常に水面下で起こり、消えていくものだ。その戦火から子供をたった一人守りきるだけ。D4にとってはなんてことはない仕事…になるはずだった。
親がどんな仕事をしていようとも、子供には関係なく”日常”が必要だ。
学校への送迎も立派な仕事のひとつ。
商人から手配されたガタイの良いジープに娘を乗せて、D4は街を移動していた。
運転席は有馬。助手席は燐童。
後部座席は谷ケ崎と時空院が娘を挟んで乗っていた。
もうあと二日でこの任務も完遂される。
娘は金持ちの子供とは思えないほど素直な女の子だった。ボディーガードが代わったことにもすぐに慣れ、特に何故か谷ケ崎にはよく懐いていた。
「あげる」
ふいに谷ケ崎の手首に巻かれたのはおもちゃのブレスレット。ビーズを繋ぎ合わせて好きなモチーフをお好みで連結できるお手製品。カラフルなビーズに繋がれて色んな動物のモチーフが連なっていた。
「ゾウの鼻は刺さるから気をつけてね」
そう言って娘はいたずらに笑ってゾウのモチーフでつんつんと谷ケ崎の手首に小突く。……それなりにちゃんと痛かった。
突かれる皮膚をそっと手の平で庇うと、娘はクスクスと笑う。
「ママには危ないからこれは使っちゃダメって言われたの。でもかわいいから、お兄ちゃんにはあげる」
そう言って谷ケ崎に自分の手首も掲げて見せた。同じように手作りされたブレスレットが巻かれている。男兄弟だった自分にはこんな愛らしいものは無縁だった。女の子はこんなものを作るのだなと感心する。
「……器用だな」
「お気に入りなの。お兄ちゃんも、失くさないでね」
手首をそっと寄せてくる娘に素直に「分かった」と答えると、隣の時空院が意味深ににんまり笑む。声を潜めて娘に耳打ちした。ひそひそ。
「伊吹の場合は失くす…よりも壊さないでとお願いしたほうがいいですよ」
「そんなに雑に扱わない」
聞えてるぞ。むぅと反論してくるが、つい先日買ってあげたブレスレットを壊した男が言うことじゃない。両サイドの二人を見上げる娘はケラケラと笑う。その話題に、前方席の二人も軽く笑って乗っかった。
「お前そういや俺のジッポ壊したこともあったな」
「スマホなんてしょっちゅうですよ?」
「〜それは悪かったと思ってる」そう言い終わる直前、交差点に進入していた車は横から激しい衝撃を受ける。
ノーブレーキで目掛けてきたのは一台の貨物トラック。ジープがトラックに敵うわけがない。
横から追突された車体は何度も横転し、交差点の先、渡ろうとしていた大きな橋の欄干に激突してようやく止まった。
欄干のコンクリートが衝撃に耐えられなかったら、そのまま海に転落していたかもしれない。ベコベコに潰れた車内、凹んだドアとエアバッグ、道路と下になった座席に挟まれたまま燐童が叫ぶ。
これは偶発的な事故ではない!
「生きてますか」
「今のところな…!」
隣の運転席、横転しているせいで燐童の頭上にいたのが有馬だ。シートベルトを外して潰れた空間の中でなんとか銃を構える。追突してきたトラックから武装した男が数名降りてきているのが見える。
割れたフロントガラスから見える敵勢に何発か反撃したが、こんなのはただの悪あがきだ。身動きはとれない。
「なんつーバカな手段だよ」
とんでもなく乱暴な誘拐作戦だ。
一歩間違えれば娘もただじゃ済まなかった。谷ケ崎と時空院がカバーしていなかったら、七歳の子供の身体なんて簡単に投げ出されてしまう。
……なるほど。それを分かっての強攻策。どうやら相手はただの商売敵じゃない。なりふり構わない手口。相当焦っているようだ。
「――大丈夫か」
後部座席も前方と同じ状況だ。ただ、娘は谷ケ崎と時空院が両サイドから覆っていたのが幸いし無傷だった。怯えた声。
「どうしたの」
「どこも痛くありませんね?」
横転した並びで時空院が上にいる。ひしゃげた車体に邪魔されながらも何とか娘を抱えて下敷きになっている谷ケ崎にも向けた問いかけだ。
「出られそうか」
「無理でしょう」
短いやり取り。ここからできる最善策は。
完全に動かなくなった車。人が動き出せる状況ではない。更に追い打ちの追撃。割れた窓の隙間から、車内にガス缶が投げ込まれる。
「クソがっ」
まるで虫を室外に追い出す殺虫剤だ。有馬はそれを蹴り飛ばそうとしたが、シューと勢いよく噴出される白いガスは一気に車内に広がっていく。
それぞれに吸い込まないように顔を腕で覆うが、煙の刺激で目が沁みる。息が苦しい。谷ケ崎は着ているダウンの中に娘の体ごと包むが、この状態では庇いきれない。
ゲホゲホと喉の痛みに耐えながら燐童は後部座席へ言う。
「目的は子供です! このガスで殺すことはありません…!」
その通りだった。横転した車の上にガスマスクで武装した男が飛び乗ってきた。割れた窓から同じガスマスクを一つ、無言で差し入れてくる。
「……、」
これを娘につけさせて、こちらに渡せという意図だ。一瞬、谷ケ崎はそれを差し出す男を強く睨む。この手の主を、覚えておいてやる。乱暴に、引ったくるように受け取った。
「つけろ」
胸の中で苦しげに咳き込んでいた娘の顔を上げさせて、マスクのベルトのサイズを合わせる。娘は泣いていた。
「みんなは」
「一つしかない」
ヤダと抗おうとする娘に無理やりマスクを装着する。グッと強くその頬を包んで言い聞かせる。
「これから悪い奴らに連れて行かれる」
「痛いことされる?」
「大丈夫だ。そいつらの言うことをよく聞いて、暴れずにいろ。必ず迎えに行く」
車外の男は娘を渡せと手を差し出してくる。谷ケ崎からでは届かない。動けるかと何とか狭い空間の中で時空院に娘を渡す。何とか…と応えた時空院は娘を頭上へ押し上げた。持ち上げられる娘は車内に落ちるように倒れている谷ケ崎を最後まで見ていた。マスク越しに訴えるくぐもった声。
「絶対だよ…!」
「俺は約束は破らない」
強くしがみついていた子供の手が諦めきれずに抗いながら、けれど無情に谷ケ崎の手から引き離される。スローモーションに見えた。だが現実はたった数分の出来事だ。
握るものを失って空っぽになった白い指先だけが空間に残る。手首にあったはずのおもちゃのブレスレットは失くなっていた。
ビーズが千切れて身体の上に散らばっていることに気がついた。
奪われる時は、壊れてしまう時は、いつだって一瞬だ……。
娘は車外にいた犯行グループが受け取り、速やかに誘拐された。
ガスに巻かれる車内。噎せて苦悶する四人は次々に意識を失う。
目を覚ました時にはガスが風に乗って消え、辺りには何も残っていなかった。
D4からターゲットが奪われるまで、十分もないあっという間の出来事だった。
廃れた廃屋の中央。男が椅子に縛りつけられている。緊迫した空気。
男の前に低く屈んだ有馬は銃身を手のひらでタップさせてパシリ、パシリと緩かなリズムを刻む。
「あと二発ある」
一発は男を拉致した際にその太ももを撃ち抜いた。もう一発はここに連れてきてからその肩をゼロ距離で弾き飛ばした。
致命傷には至らない。だが銃痕から大量に血が流れて、椅子の下は血溜まりになっていた。
「てめぇらは俺達の仕事の邪魔をした。どんな社会でもマナーは必要だろ?」
悪党が悪党にマナーを語るなんてどうかしてる。男は泣きながら首を横に振るだけだ。
「無理だ……言ったら殺される…!」
「そりゃ大変だ」
鼻で笑った有馬は銃口を太ももの傷口に捻り込む。男はうぐっと唇を噛み締めて痛みに耐える。深々と捻ってやっても、男は辛抱強く耐えてふーふーと肩で息をしている。
「……俺にはあと二人仲間がいる」
それまで黙って見ていた谷ケ崎が、そっと話し始める。
「一人は言の葉党の掃除屋をしていた男、もう一人は旧時代に軍で志願して前線に出ていた男だ。どっちも敵から情報を引き出すのが得意だ」
交代。有馬は男から銃を外し、谷ケ崎に尋問を引継ぐ。ぽてり、ぽてり。谷ケ崎は不気味な緩やかさで有馬の横に立つ。エアフォームポジットワンが血溜まりを踏んだ。
「あと五分経ったら俺たちはその二人と持ち場を交代する。お前の尋問はそいつらに任せる」
「四分二十八秒」
気怠げに屈んだままの有馬が死のカウントダウンを開始する。
谷ケ崎はのったりしていた歩みから一変、男の肩を瞬発的にガバッと思いきり握り込む。撃たれて折れて飛び出ていた肩の骨がゴリと軋んだ。遠吠えのような悲鳴。
「これくらいはかわいいもんだ。あいつ等に代わればこんなもんじゃ済まない」
「四分三秒」
「特に軍人だったほうは、俺がいないと手がつけられない」
男の肩を握りつぶしたまま、空いている手でスマホを取り出す。コールした。
「交代だ、あとは頼む」
短く告げて通話は切り、男を見る。肩を握力から解放してやると、苦悶していた男は窒息寸前だったかのように激しく息をして項垂れた。勘弁してくれと泣いている。
「俺がどうして仲間の情報をお前に話したか分かるか」
うっそりと顔を上げた男に静かに告げる。
「どうせお前はこのあと死ぬからだ」
ここにくるのは死神だ。
「三分二十七秒」
言いながら立ち上がった有馬は予備動作無しに銃身で男の頭を殴る。飛び散った血が壁を汚した。
「じゃあな」
二人は何の名残惜しさもなく部屋を出ようと踵を返す。男は死にかけていた表情を更に青ざめて叫んだ。
「待ってくれ!」
「……なんだ」
ゆっくり振り返ってやれば、男は堰を切ったように口を割った。
雇い主。実行グループ。逃走経路。潜伏場所。
「娘は無事か」
谷ケ崎の問いに、男はガクガクと頷く。
「動機は復讐だ。娘を巻き込んでこの街を爆破する。爆弾を運ばせるために誘拐したんだ、その仕事をさせるまで傷一つつけやしないさ」
一拍、有馬も谷ケ崎も男に何も応えずにただしんと静まり返る。胸糞悪い筋書きだ。互いが持ったであろう感情を、二人は無言で共有していた。
「もう話せることは全部話した。俺はただの下っ端だ、解放してくれるだろ」
頼むよと縋ってくる男の視線に、有馬はさてなと首を軽く傾げる。谷ケ崎と一瞬だけ目配せをして、銃のロックを外す。
「さっきコイツが言っただろ」
不穏な手さばきで横に回り込んできた有馬を視線で追った男は、この末路を察して絶望に満ちた表情で谷ケ崎を見る。
「頼むよ」
「俺がどうして仲間の情報を話したと思う?」
「ゼロ」
タイムアップ。銃声。震えていた男の足は脱力し、喉があり得ない方向に曲がる。頭を銃弾で弾き飛ばされた勢いで、首まで折れていた。
「お前はここで死ぬからだ」
谷ケ崎のアンサーは、男には聞こえない。
燐童と時空院は廃屋の外に待機していた。
「お疲れ様でした」
「あぁ」
出てきた谷ケ崎は足を止めずに男が白状した場所を告げる。次いで脇を歩く燐童はすぐにその住所をスマホで特定し、車のナビへ転送する。
「割と近いですね」
「娘に自爆させて街を破壊するんだとよ」
背後では有馬がライターに火をつけ、振り返らずに廃屋へと投げ捨てる。事前に壁に設置していた可燃材が着火し、廃屋は忽ち炎に包まれた。
「七歳ですよ。そんな作戦、よく思いつきますね」
やれやれと呆れ返る燐童に有馬は鼻で笑う。どうせ自分達だって立場が違えばどんな卑劣な作戦も思いつく。ただ思いついても、やるかやらないかの違いだろう。
「あいつ等が何をしたいかなんてどうでもいい……」
谷ケ崎の声はいつも通り静かだが、激しく怒っている。その感情の動きが分かるのはきっとこの三人だけだろう。
「約束した。それを果たしに行くだけだ」
真っ直ぐな目的をもって歩く谷ケ崎に、時空院は満足げに笑む。一番手がつけられないのはキミのほうだ。
「ではお迎えにあがりましょう。我々のお姫様を」