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    NANO

    @bunnysmileplan1

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    NANO

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    D4長編(二度目の脱獄後)
    ■元ネタ:石田衣良著 池袋ウエストゲートパーク『骨音』収録 『西一番街テイクアウト』より

    西一番街テイクアウト誰か助けて。
    闇の中で必死に叫ぶあの悲鳴が、あんたの耳には聞こえるか?


    都会の片隅で起こっている小さな戦争。
    紛争地は隣り合う二本の裏路地。
    片方はギラギラと目に痛いネオンがひしめき合う遊女の楽園。
    もう片方は街灯すらまばらな薄暗いどん詰まり。
    どちらの路地でも性を売る女達が手をこまねいて男達を惑わせる。
    若くてスレンダーな美貌と手練れたグラマラスな魅惑が、互いに目を光らせて客を奪い合いぶつかり合う。
    欲望巻く煌びやかな世界のその影で、流れる涙なんて誰も気に留めない。
    争いはいつだって権利と自由を唄ってるのに、誰も救いはしないのだ。

    D4。二度も脱獄を成功させた懲りない犯罪者達が今宵語るのは、煌びやかな娼婦達のしがらみではなく、小さなリュックサックに文庫本を一冊入れた、物静かな十一歳の少女の物語だ。



    金の在りかを聞き出すには、女を頼るのが一番だ。
    「ねえねえお兄さん達、遊んでいかない?」
    所持金が底をついてきたD4は通り掛かった街で手頃な儲け話を拾おうとたまたまその裏路地を歩いていた。
    「ん~どうしようかな?」
    声を掛けてきた一人の女に狙いを定めて、有馬はにこりと笑いかける。他の三人は少し離れた位置から その様子を眺めていた。
    尻が見えそうなくらい短いホットパンツに 胸がはち切れそうなキャミソール。年は三十プラスマイナス二歳といったところだ。
    女は後ろに待機した面々も連れだと把握していて、時折こちらにも手を振ったり舌を見せたりと忙しなかった。とんでもなく仕事熱心だ。
    (重そうだ)
    客を引っ掛けられると踏んだのか、女が有馬と陽気に話しながらキャッキャッと跳び跳ねる度にバスケットボールみたいに胸が揺れる。
    話が終わるのを待つ間、女の胸を見る谷ケ崎の眼差しは動くものに視線を奪われる習性がある猫みたいで、摩訶不思議な生き物を見ているようだった。

    「おい、そこで何してる」
    不意に叩きつけるように飛んできた怒号に、話していた売春婦は身体を凍らせた。恐怖で開いた瞳。ヒッと引き攣る赤い口許。
    「あ?」
    彼女を震え上がらせる者の正体に向けて、有馬達は路地の入り口をゆっくりと振り返る。
    四人組。最近流行りの着崩したストリートカジュアルで肩をいからせた青年達だった。
    路地の入り口に静観する数名を残して、一人の男が近寄ってくる。有馬達の存在など無視して女に向かって吠える。恫喝。
    「お前まだ懲りないのか、いい加減にしねえと本気で沈めるぞ」
    ずんずんと詰め寄ってくる男の前に、有馬は「はいはいストップ」と軽やかな調子で立ち塞がった。
    「何、お兄さん、先にこっちがお話してたんだけど?」
    「あぁ悪いな、女を買うなら向かいの路地でやってくれ。こっちは違反者の巣窟だ」
    「女買うのにルールもクソもねえだろ」
    「あるさ。少なくともこの界隈じゃある。向こうならその女の半値でもっと若いのが買える。とっととあっち行け、俺達はその女にお灸を据えなきゃなんねえんだ」
    「へぇ、そう…」
    にやと口許を笑わせた有馬は彼女の肩に手を置いて 自分の後ろに隠すように身を引かせる。
    「だったら俺らはこのお姉さんを買うよ、ケチなケツモチに半額にされたオンナじゃ満足出来ないんでね」
    「…んだと?」
    対峙する二人の空気が一気にピンと張り詰める。有馬は自分よりもふた回りはデカイだらしない体躯の男に対して、斜に構えて鼻で笑った。
    「金を出すのはこっちだ、文句を言われる筋合いはねえな」
    「調子に乗るなよ余所者が」
    入り口から静観していた仲間達が、その空気に触発されてじりじりと躙り寄ってくる。
    有馬は全員に向かって嘲笑ってベッと舌を出し、両手を上げた。降参じゃない。嘲笑だ。
    「舐めてんのかてめえ」
    「いえいえ、ご忠告どうも。覚えておくよ、アンタのこと」
    そうして男達に「BYE」と指先で手を振って その場を離れる。こいつらは確実に良い獲物の匂いがする。すぐに手を出したら取りこぼしがあるだろう。そんなもったいないことはしたくない。一旦退却だ。
    すかさず、「行きましょう」と時空院が怯えていた女の背を支え押して路地の奥へと導く。さすがにあの男達の前に残してはいけない。
    「谷ケ崎さん」
    最後までその場に残っていた谷ケ崎は 後ろからの燐童の呼び掛けに「あぁ」と背中で応える。
    氷のように冷えきった白眼は男達の顔を一通り眺め、踵を返しながらゆっくりと剥がれていった。不気味な余韻を残す白い視線に、男達は微かに眉を潜める。
    入り口の向こうに見えるネオンの明かりを背に、谷ケ崎達は路地の闇へと姿を消していった。


    「さっきの奴らは?」
    「この辺を仕切ってるチームの奴らだよ」
    路地の奥には 潰れた雑居ビルの跡地だろうか、ぽっかりとコの字に切り取られたような何もない空き地があった。
    「向こうの路地の女達はみんなそのチームに属していて、守ってもらう代わりに収入の半分をアイツらに渡さなきゃならないんだ」
    女は苦い顔でそう話し、うんざりと髪を耳に掛けて整える。
    「お姉さんはアイツらのチームに所属してないんだ」
    「どうして私が手に入れた金をあんな奴らに渡さなきゃいけないの。守るって言ったってたいしたことしてない。使えなくなったら切り捨てるだけのくせに」
    問い掛けた有馬を見ずに早口で答えた彼女の伏せられた睫毛は、まだ少し震えていた。
    緊張が解けない女を見やり、時空院は穏やかな笑みを崩さずに問いを重ねる。
    「しかし実際に彼らから嫌がらせを受けているのでは?」
    途端、怯えていた女の空気が変わった。譲れない意思を持った人間の放つ、真っ直ぐな覇気。
    「だから何?私は好きでこの仕事やってる。あんな奴らに媚びて生きるために身体張ってるわけじゃない」
    静かに凛と上がった視線は、目の前の男達を見据えていた。
    「私は男の駒じゃない。人間なんだよ」
    けれどすぐに愛嬌のある笑顔でぺろりと妖しく舌を見せる。
    「でもバカな女だからね、一晩でとことん恋愛出来ちゃうの。ねえお兄さん達、ほんとに今夜私を買ってくれない?」

    燐童は淡々と話の流れを断ち切った。
    この女の人生観に引っ張られたくて彼女を連れ出したわけじゃない。
    「彼らの収入源が何なのかは理解しました。向こうの路地の女性達は全員彼らに金を渡しているんですね?」
    「そうだよ、金は全部アイツらに集まるようになってる」
    「なるほど。ありがとうございます、とても為になるお話でした」
    そうして先日強奪した他人の財布から数万の札を出し、彼女の手に恭しく握らせる。にっこりと優しく笑ってやった。
    「また何処かでお会いしましょう」

    獲物は決まりだ。獰猛な猛獣こそ闇に息を潜めて目を光らせる。じっくりと爪を研ぐ。
    空き地を出た四人のハンターは、定めた狙いを言葉なく共有していた。


    隠してある盗難車に戻るまでの道のり。雑多な駅の裏には人気のないロータリーがある。
    「いい話が聞けましたね」
    「アジトが割れたら速攻かまそうぜ」
    全員が有馬に同意する。
    「そろそろ車中泊も限界ですしねえ」
    話しながら、時空院はふと振り返る。一番後ろをぽてぽてと歩いていたはずの谷ケ崎が、なぜか足を止めていたからだ。視線は反対車線の通りに向いたまま、不思議そうな目でぽつんと立っている。
    「伊吹?どうかしましたか?」
    声を掛けても動かない。有馬も燐童もそれに気付き、目を見合わせて首を傾げる。
    「谷ケ崎さん?」
    「おい、谷ケ崎どうした」
    そう谷ケ崎の視線の先を追って見やり、全員がぎょっとする。目の前を行き交う車の流れの先、ロータリーの片隅に、ころんと転がった小さなスニーカーの底が見えていた。

    垣根の間に落ちるように、子供が倒れているのだ。

    「マジかよ、そんなことあるか?」
    四人は車道を渡って子供のもとに駆け寄る。十歳前後の、小枝のように細い女の子だった。時空院が子供を抱え起こすと、微かに唸る反応がある。ぐったりした少女を冷ややかに見下ろし、燐童はやれやれと頭を振るう。
    「H歴も終わりですね、こんな子供が行き倒れるなんて」
    「これ行き倒れてんのか?親はどこにいんだよ」
    親、という言葉で子供は薄く意識を取り戻した。自分を囲う男達に目を見開いたが、叫んだり暴れたりはしない。そんな体力もないのかもしれない。衰弱した少女の額に手を当てて、時空院は息をつく。
    「熱が高いですね、無理しないでください」
    「塾か何かの帰りでしょうか?」
    「伊吹、そこのリュックサックを取ってもらえますか」
    通りに植えられた草木を低く囲う石垣の上。そこにある子供用のリュックサックは、落ちたというよりは元からそこに置かれていたようだ。
    谷ケ崎がそれを取り上げて時空院に渡す。中を確認すると、子供向けスマートフォンと文房具、ハンカチやポケットティッシュなどの小物が丁寧に詰められていた。

    「荷物が少ないですね、塾帰りではなさそうです」
    「救急車呼びます?」
    燐童の提案に、有馬は眉を上げる。
    「俺らがか?」
    「だって警察ってわけにもいかないでしょ」
    「親御さんの番号が分かれば連絡して差し上げるのは…」
    時空院の提案に、燐童が眉を上げる。
    「僕らがですか?怪しすぎません?」
    「だからってこのまま倒しておけねえだろうが」
    やいやいとやり取りを交わす三人の後ろから傍観するしかない谷ケ崎は、ふと横目に気付く。少女が倒れていた場所の脇に、文庫本が一冊落ちていた。
    どうするかを話し合う有馬達を尻目に、谷ケ崎は腕を伸ばしてその本を取り上げた。表紙は地が灰色で、真ん中におとぎ話に出てくるようなドレッサーが大きく描かれている。その鏡の中には白い塔へと続く一本道の風景が写し出されていた。

    「モモ…?」
    声に振り返った四人は静かに息を飲む。ついさっき話した娼婦だった。驚いたのは早い再会にではない。
    色気を放っていた愛嬌のある目元や口許が、たった今殴られたように赤く腫れ上がっていたからだ。さっきまではなんともなかったはずだ。思わず有馬は苦く眉を寄せる。
    「あんた大丈夫か」
    「その子私の娘なの」
    女には質問に答える余裕はなく、駆け寄って時空院が抱える子供の顔を覗き込む。子供も視界に母親を捉えると「だいじょうぶだよ」とよろよろと立ち上がった。

    「熱があるようです。子供の熱なのでそう心配はないかもしれませんが、明日も続くようなら病院へ連れていってあげてください」
    時空院の言葉に、母親はピントが合わない目で頷くだけだ。あの路地にいた強い女の陰はまるでない。殴られた時にそういう大事なものが全部吹っ飛んでしまったのかもしれない。
    「ごめんねモモ…」
    子供は母親の腹に抱きついてようやく立っていた。けど、しきりに「だいじょうぶ」と繰り返している。
    大切に大切に少女の柔い髪を撫でながら、母親は谷ケ崎達に会釈する。潰れた目蓋の奥は何か言いたげに潤んでいた。

    「………。」
    誰にやられたのか。あの男達が追ってきていたのか。
    なぜ子供がこんなところにいたのか。病院に行ける金はあるのか。
    こちらも言いたいことは募っていたが、ただの脱獄犯には踏み込めない。そこに触れていいのかどうか…躊躇してしまっていた。向き合った二組に、微妙な沈黙が流れる。

    「明日のこの時間も、我々はここを通り掛かりますよ」

    そう切り出したのは時空院だった。
    そっと息を詰める彼女に柔く笑んで頷き、「ね?」と他の三人を見やる。誰も何も言い返せず、それぞれが罰悪く目を反らす。
    素直じゃない年少組にやれやれと笑う時空院だけが、帰っていく母子の背中に手を振っていた。

    「なに勝手なこと抜かしてんだよ」
    「通報されたらどうするんですか」
    彼女達の姿が見えなくなってから、有馬と燐童は悪態をつく。
    「でも約束してしまったら破れないでしょう?」
    口先だけの冷たさを撥ね退けて、最後、時空院は谷ケ崎を覗き込んだ。
    「『明日もここに来る』でいいですよね?伊吹」
    「……分かった」
    手にした文庫本も返さなくては。
    車に戻ってから、谷ケ崎はその渡しそびれた文庫本を少しだけ読んだ。

    『これだけきてしまったものを、今さら戻るわけにはいかないじゃないか』

    作中作に登場する主人公と自分を重ね合わせた少年が 冒険の先へ進む勇気をもらう場面。
    こんな前向きな空想の世界を、あの子供はどう受け止めているのだろう。


    翌日、夜八時。
    表通りではないロータリーはすっかり人気がなく、昨日倒れていた少女は石垣に座って一人で本を読んでいた。
    「おいおいお前大丈夫か?家で寝てたほうがいいんじゃねえのか?」
    有馬が前に屈んでそう覗き込んでも、本から顔を上げない。
    「家にいたら借金取りがくるから、ここでいいの」
    顔色は悪くないが、やけに抑揚のない声だった。
    「凄い大声で怖い声なんだ。ドアだっていつか壊されちゃいそう。あんなの寝てられないよ」
    「借金を返すために、お母様はこんな時間までお仕事していらっしゃるんですね」
    少女は時空院には少しだけ顔を上げた。どうやら子供なりに目を合わせていいラインがあるらしい。有馬は不合格。見た目がおっかないからな。
    「でもママの借金じゃない。少し前に一緒に暮らしてた男の人の借金」
    「父親か?」
    不合格者の言葉に、むっと口を尖らせる。
    「知らない。ママはその話をしたら怒るから、私は何も言わないし何も聞かない」
    そう早口で答えた少女は、それがいずれ後悔になると気付いているように見えた。
    谷ケ崎はポケットにしまっていた文庫本を取り出して、子供の顔の前に差し出す。
    「…昨日ここに落ちてた。お前のか?」
    子供はぱあっと明るく目を見開き、それから恐る恐る両手で本を受け取った。上目に窺いながら谷ケ崎を見て、ペコリと会釈する。谷ケ崎からは何故か一度も目を反らさなかった。
    「失くしたと思ってた。ママにも言えなかったの…。どうもありがとう」
    素直な子供の様子を見て、有馬は舌を打つ。
    「バカな女だな」
    「ちょっと、」
    さすがに燐童が諌めるのを押し通して、有馬は続ける。
    「んな金はお前らが背負わなくてもいいんだよ、真っ当な手順を踏めば踏み倒せる。相手がヤクザだろうがなんだろうが、逃げようと思えばいくらでも逃げられんだよ」
    「知らねえんだろ」
    目を丸くしている子供の代わりに、遮って答えたのは谷ケ崎だった。
    「そんなこと、誰も教えちゃくれない」
    「……まぁ…そうだろうな」
    有馬の話は意図せずとは言え、谷ケ崎のバックボーンに触れている。気づいた有馬は後ろ首を掻いて、口をもどかしく噤んだ。

    微妙な空気が流れる中で、時空院は少女の前に屈んで柔く笑いかける。
    「お母様が来るまで私達と一緒にいましょうか。甘いものはお好きですか?」
    「おいガムシロ飲ませんなよ」
    「違いますよ、そこのコンビニで何か買ってきます。モモさんは何か食べたいものはありますか?」
    その一言で、少女は目に生気を取り戻す。唇の中でもごもごとリクエストを口にする。
    「いちごのアイス…」
    「良いチョイスですねえ!一緒に見に行きましょう」
    ふふと首を傾げて笑う時空院は さぁと少女を促して立ち上がる。すかさず有馬が軽く手を上げた。
    「俺煙草な」
    「キミは自分で買いなさい、行きますよ」
    「~んだよ、ベビーシッターか?」

    姫を警護する騎士のように子供を間に挟んでコンビニに向かう有馬達の背中を見送りながら、燐童は谷ケ崎へ静かに言う。
    「とりあえずあの母親から奴らのことをもう少し聞き取りましょう。アジトと金の集まるタイミングさえ分かれば直ぐにでも強襲を」
    「あぁ、分かった…」


    2時間を過ぎた頃、母親は昨日と変わらずメロンみたいな胸をキャミソールに無理やり詰め込んだ服で現れた。腫れていた目元が嘘みたいに綺麗になっている。
    「アイテープだよ、女は何だって隠せちゃうんだから」
    昨日失ったものを無理な笑顔で埋めてみせる母親は、小さなハンドバッグから封筒を取り出した。
    「これ、私の貯金ぜんぶ」
    「………は?」
    ぐいと胸に押し付けられた封筒に、有馬は両手を上げて触れないようにする。ハンズアップ。それでも僕はやってない。
    「私のすべてをお兄さん達に賭ける。昨日の奴らを、あの路地から追い出してほしいの」
    「いやいや、何の話?」
    「私だって色んな男を見てきてるから分かるよ、お兄さん達きっと凄く強いんでしょ。ヒプノシスマイクも持ってる」
    そうして有馬のつなぎのポケットや、谷ケ崎のズボンのポケットの膨らみを指差す。
    「このお金で依頼する。私たちがあの路地で身体を売る自由を、取り戻してほしいの」
    「依頼って言われても…いや俺ら別にそういうのやってねえんだけど……」
    急展開がすぎる。唖然とする四人は目を見合わせるしかない。
    「貯金全部って…僕達がトンズラしたらどうするんですか」
    「チンピラに騙されるのには慣れてるから平気」
    「チンピラとは失礼ですねえ」
    むうと時空院は目を据わらせるが、大事なのはそこじゃない。
    「もし…俺達がその依頼を受けたとして、金を全部俺達に渡したらあんた達はどう暮らすつもりだ」
    冗談ではなく真摯な眼差しで現実を突きつける谷ケ崎の声に、女はふんと自信満々に鼻を鳴らした。首の付け根から谷間が出来るほど立派な胸を突き出して言ってみせる。

    「大丈夫。お兄さん達があいつらに勝ったら 私はあの路地でこの金以上に稼いでみせる。この身体一本でね」


    金を受け取るまで帰らないと豪語され、渋々と封筒を受け取ってしまったのが昨日の夜の話。
    また翌日の同じ時間、やはり金は返そうと話し合い、谷ケ崎達はロータリーに向かった。子供は同じ場所で昨日谷ケ崎が返した文庫本を読んでた。

    母親を待つ時間、谷ケ崎は子供の横に座っていた。モモは大人しくて静かな子供で、あまり話をしてこない。居心地は悪くなかった。
    「いぶきは本は読む?」
    突然、思い出したようにそう問われた。不意打ちで投げ掛けられた名前に、さすがに身体が固まった。どうやら時空院が頻繁に呼ぶせいで覚えたらしい。
    じとと据わった目で 少女を挟んで逆隣の時空院を見やるが、当人は我関せずと練乳を啜って完全スルーを決め込んでいる。

    そう名指しされては、無視は出来ない。
    読まないと静かに首を横に振ると「そうなんだ」とだけ返してくる。次の質問。
    「なんの仕事してるの?」
    それはおそらく大学入試レベルの超難題だ。
    時空院が微かに吹き出すのを視線で黙らせ、しかしどう答えるべきか分からずにいると、モモは気にせず次の質問をしてくる。
    「海は見たことある?」
    「……あぁ…車で移動してるから、海も通りかかることはあるな」
    「そうなんだ、いいなあ」
    驚いた。人に羨ましく思われる生き方はしていない。
    でも、自分もこのぐらいの年の頃に海なんて見たことはなかったかもしれない。
    何も持っていなかった。何も知らなかった。
    家族だけが唯一で、それ以外の世界を知らなかった。

    「これ、ママがくれたの。昔付き合ってた人と海に行った時に買ってもらったんだって」
    そう言って、トレーナーの中からチェーンを引き出して小さなイルカのネックレスを見せてくれた。寂しそうに笑う。
    「たぶんその人が、私のパパなんだよ」
    「………そうか」
    なぜだろう、この子供を見ていると…重なる影は濃くなっていく。



    その後、谷ケ崎達は母親に「会わせたい人達がいるから」と例の路地に連れ出された。
    「お兄さん達。こっちで遊んでいかない?」
    母親の後ろを歩いていたら、向かいの路地から谷ケ崎達にそう声が掛かる。細くて長い手足をマーメイドのようなドレスから生やした、顔が小さい女達だった。若くて張りのある甘い声。未成年にすら見える。
    「いっぱいサービスしてあげるよ~」
    「もうこっちが手をつけてんだよ、失せなクソガキ」
    言い放つ母親の声はもはや全くの別人だった。キャミソールからはみ出そうなスイカみたいな胸を張って見せつける。
    「はあ?何?ババアのくせに偉そうなんだけど」
    カーン。ゴングの音が聞こえた気がする。
    「…………。」
    隣り合った路地の入り口で始まった女同士の熾烈な口戦。D4は蛇とマングースに挟まれた小ネズミのように身を小さくしてやり過ごす。
    「いいか谷ケ崎、絶対どっちも見るなよ」
    「どちらの肩を持っても殺されますからね」
    有馬と燐童の矢継ぎ早な囁き声の忠告に、谷ケ崎はただ黙ってこくりと頷く。
    静かな谷ケ崎の大人しさに付け入って、母親はぐい!と強く谷ケ崎の腕に腕を掛けて 胸に引き寄せる。強烈な勢いで、肩を引っこ抜かれるかと思った。
    「お兄さんは、私と遊んでくれるんだものね??」
    向けられるのは完璧に仕立てられたにっこり笑顔。女は怖い生き物だ……。


    母親が四人に紹介したのは、この路地で生きる他の娼婦達だった。
    あのコの字の空き地には、母親と同じような身なりの女達が集まっている。本来ならライバルであるはずの彼女達は、谷ケ崎達の登場に色めきだって出迎えた。
    「私からもお願いする」
    「あんな奴らぶっ飛ばして」
    次から次へとそう声を掛けながら、順番に封筒を渡そうとしてくる。まさかここにいる全員が、金を出すつもりなのか。
    「待て待て待て!?あんた達どうしてここまで俺達に賭けてくるんだよ」
    ついに有馬はお手上げだと女達を落ち着かせ、距離を取る。

    集った娼婦達の輪から一歩前に躍り出た母親は、強い眼差しでD4を見ていた。

    「今までだってこうやって色んな男に賭けてきたんだよ、次は絶対に幸せになれるって信じて賭けるの。私達はバカで弱くてセックスしか取り柄がないから、男を信じることしか出来ないんだよ」
    「暴力で裏切られてもですか」
    燐童は褪めきった声色で冷ややかに言う。
    そう何度も人を信じようとするなんて、むしろこちらが信じられない気持ちだった。
    女達はまるで谷ケ崎達に挑むように睨み、芯を込めて言う。
    「私たちを殴るのも愛すのも"男"でしょ」
    越えられない性別の壁が、彼女達を追い込んでいる。

    彼女達は真剣だった。その意志の強さに、D4はただ打ちのめされてしまう。
    (危険だ)
    どんどん後戻り出来なくなってきている。
    この狭い世界に深く関わりすぎている。
    本当は少女を見つけた時から、それぞれの頭の中で警鐘は鳴っていた。
    本当は今にでも姿を消してしまうべきなのに、誰も何も言えないまま、金が入った封筒だけが積み重なっていく。

    「…どうします?この金……」
    「元から我々の獲物は彼らですから、彼女達の依頼を受けるまでもないのでは?」
    「っつっても突き返せる雰囲気じゃなかっただろうがよ」
    「とっとと潰してフケればいいだろ」
    すっかり疲れてしまったD4は、女達に明確な答えは出さずに路地を抜け出した。
    「面倒はごめんだ」
    谷ケ崎はもううんざりだと溜め息を吐き出して言う。全員がその『失踪』の一手に賛同するところだった。が、事態は急変する。


    「……あ?」
    ロータリーに戻ると、モモはガードレールの影で蹲っていた。
    リュックサックがアスファルトに投げ出され、本や文具が散乱している。それが何を意味するのか、心臓が嫌な音を立てて騒ぎだす。
    「どうした」
    集まった谷ケ崎達の気配でようやく顔をあげたモモの目は、真っ暗で何も見えていないビー玉のようだった。
    「男の人が何人か来て、ママはどこだって聞かれたの。ここにはいないって言ったら…」
    そこで言葉に詰まり、モモの瞳から涙がぼろぼろと溢れてくる。飲み込んだ言葉が喉を塞き止めて、うぅと苦しそうに唸る。
    その小さな背中を、隣に屈んだ時空院があやすようにゆっくりさすった。

    「誰にも言いませんから、正直に話して大丈夫ですよ」
    寄り添う声色に堪えきれずにぎゅっと目蓋を閉じて涙を落とす少女は、胸の前でまるで懺悔するかのように手を握りしめていた。
    「お前のママは男にいやらしいことをしてるんだって。その金で育った私もいつか同じようないやらしい女になるって言うんだ」
    後ろで有馬が舌を打ったのが聞こえる。谷ケ崎は唇を噛んでモモの言葉の続きを待った。
    今、最後まで吐き出さないと、後でその苦しみはじわじわと己の心を壊してしまう。最後まで聞くと瞳で告げてやるとモモは深呼吸をして、勇気を振り絞って一気に言った。
    「胸を掴まれた。この胸を揉んだ最初の男はオレ達だって。ハジメテの男は忘れられないぞって言ってゲラゲラ笑ってた。嫌だ、本当にそうなっちゃいそうで嫌だよ」

    そうして、モモは思いきり振りかぶって谷ケ崎の腹を拳で叩く。顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。叫んでいた。
    「ねえ、いぶき達は強いんでしょ、だったら戦ってよ。私だって強くなりたいよ、でも私には戦う力がないんだ。悔しい、悔しい……悔しいよ…私悔しいよっ」
    叫ぶ声は弱々しく萎んでいく。悔しい悔しいと繰り返しながら、谷ケ崎の腹を何度も殴る。

    何度も。何度も。何度も。何度も。

    一度だけ、谷ケ崎は目を閉じて深呼吸をした。こんなに身体が震えたことはない。冷めろ、冷めろ、そう頭の中で唱えても込み上げる想いは治まりそうになかった。
    金に絡んで弱い者が落とされていく世界を見るのは、もうたくさんだ。
    必死に腹を殴り続ける子供の拳を手の平で受け止めて、強く握った。
    モモは震えた身体で谷ケ崎を見上げる。
    真っ暗で何も見えないと嘆くその瞳に、俺がしてやれることなんて限られてる。
    世界を変えてやれる力は、俺にはない。
    でも、それでもお前の気持ちを真正面から受け取ることは出来る。逃げない。背負ってやる。

    「やってやる」

    俺は初めて知った。この胸の炎は、誰かの為にだって着火する。


    しばらくして、迎えに来た母親の気配にモモは慌てて涙で濡れた顔を袖で何度も拭った。
    有馬はただ黙って散らばった文具を拾い集め、リュックサックをモモに渡す。
    「ありがとう…」
    初めて有馬の顔を見上げたモモは受け取ったそれを胸に抱えて小さく頭を下げる。子供らしい素直さに言い返せる言葉はなく、有馬はそっぽを向いているだけだった。
    「モモ、遅くなってごめんね」
    「だいじょうぶだよ」
    そうして、モモは母親の前では何事もなかったと装った。女は何歳であっても悲しみや痛みを隠すのが上手な生き物らしい。それを特技と言ってしまうのはあまりにも哀しい。
    娘の泣き腫らした目を母親は心配したが、谷ケ崎達は彼女の秘密を誰にも言わないと約束したのだ。たとえ胸が痛んでも、その約束を破る者は一人もいなかった。

    「あんた達の依頼を受ける」
    谷ケ崎の言葉に、母親は信じられないと息を飲んで目を見開いた。
    「…本当に?」
    「ただしやり方は僕らに一任して頂きます」
    すかさず燐童が続けた。妙な期待は持たせられない。
    「彼らをあの路地から追い出す。僕らがやるのはそれだけで、その後のことは責任を負いませんよ」
    母親はそれでも構わないと強い眼差しで頷いた。
    「好きにやってくれて構わない。私だってお兄さん達に賭けるって決めた時から全部覚悟してる」
    そう言って、ぎゅっと強くモモの手を握る彼女の手もまた震えていた。心細さをなんとか追いやっている。自分より圧倒的に強い男に反撃の狼煙を上げると決めたのだ。怖くないわけがないだろう。


    帰っていく母娘の背を、四人はロータリーから遠くに見送る。
    「胸糞悪ぃ」
    煙草を踏みつけた有馬はついに苛立って唸る。その苛立ちを引き継いで、燐童も顔を歪ませた。
    まざまざと見せつけられた現実。"子供"が大人に嘘をついている様子をざまあみろと嘲られるわけがない。さすがに心が疲弊していた。重い溜め息が胸の奥から込み上げる。
    「せめてここに誰か残るべきでしたね…」
    「これは俺たちの失態だ」
    沸々とした低い声で静かに告げた谷ケ崎を、時空院は瞳孔を開いた笑顔で覗き込む。
    「どうします?殺しにいきますか?」
    「それは止めておきましょう」
    やれやれと割って入るのは燐童だ。
    「僕達はここを離れる人間ですが、彼女達はそうはいきません。そんな方法では必ず彼女達が報復を受けますよ」
    「ならどうする」
    「こういう商売はメンツと建前で出来ているものです。女性達の上に立つ彼らの鼻っ柱を折ってしまえばいい」
    「あくまでも支配者の称号を剥奪する、というわけですね?」
    「じゃあお前の出番だな」
    パシリ。有馬は当然のように燐童の手にスマートフォンを渡す。
    「…なんですか?」
    「うまくやれよ、ネゴシエイター?」
    D4の交渉人、阿久根燐童のお手並み拝見だ。

    ー……

    夜、明かりのない寂れた廃倉庫。
    交渉にはあれから二日ほど時間がかかった。
    盗難車の中、運転席で一仕事終えた燐童は有馬から渡されたスマートフォンの通話を切った。
    一息つくと、後部座席から にゅるりと時空院が現れる。軽く身を乗り出して 燐童の横顔を笑った。
    「さすがですねえ」
    燐童の交渉は絶妙な言葉遣いで相手を転がしていた。その会話を、時空院は黙って後ろで聞いていたのだ。
    車内には燐童と時空院の二人だけ。
    あとの二人は通話に音が入るからと車に乗らず、ボンネットに軽く寄り掛かって何か話している様子だった。

    まったく、人が大事な交渉をしている時に暢気なものだ。肩を竦める。
    「大したことありませんよ。最終的には有馬さんが知ってる名前を出したらうまくいきました。明日の二十二時に全員であの路地奥の空き地に来いとのことです」
    「戦争の始まりですね!?」
    途端にキラキラと笑顔を輝かせる時空院に、さすがにじとりと目が据わる。
    「…いやただのタイマン勝負ですよ」
    表向きは こちらもあの路地の収入にあやかりたいという陣取り合戦の挑戦状を叩きつけた形だ。
    「警察や中王区が引っ掛かってしまうのでマイクは使わずに、素手での決闘をご所望でした」
    「それは好都合ですね」
    「僕たちのこと、バレてはいないようです」
    電話口に出たのはおそらく最初に対峙した青年達のうちの一人だろう。
    こちらが四人組だということは知られていたが、どうやら脱獄犯だとは思っていないらしい。有馬の入り知恵で出した名前から、おそらくどこぞの組の下っ端だと勘違いしているはずだ。
    …こちらはそんな組織に甘える生易しい人種ではないのだけれど。

    「滾ってきましたねえ」
    クフフと不気味に笑う時空院に、燐童はうんざりと息をつく。
    「そんな単純に楽しめるのは時空院さんぐらいです」
    「おや、何か気になることでも?」
    「………、」
    少しだけ、燐童はハンドルに手を掛けて俯いた。ずっと胸の奥に取れないしこりがある。こんな話をしたところで意味はないと分かっているのに、言わずにはいられなかった。

    「……これってただの女の代理戦争ですよね…」
    それは有馬や谷ケ崎には言い出しにくい胸の内だった。
    「僕たちが介入したところで、あんな路地が生活の基盤になってるようじゃあの子供も母親も真っ当に生きられるわけないですよ」
    酷いことを言っている自覚はある。でもそれが真実だ。現実だ。
    「こんなの、僕らはただ女の駒になっているだけだ」
    本当に……物事を斜めに捉えてしまう、天邪鬼な自分が嫌になる。

    何かを恨んでいるような燐童の声色に、けれど時空院は批判も肯定もせず、ふむと興味深く話を聞いていた。
    「確かにそうですね。結局のところ戦争とは"駒"と"駒"の潰し合いですからね。だとしても、我々は既に報酬を前払いされています。仕事だと割り切ることもできますよ」
    「はした金ですよ」
    あの路地の娼婦達から渡された金は、全部数えても二十万にも満たなかった。
    必死に金を手に握らせてきた女達の顔が脳裏に過る。
    「あんな額で僕らを雇えると思ってるなら舐められたものです」
    人は変わらない。他人に助けてくれと縋ったところで何の意味もない。
    なのに、どうして彼女達はあんなに必死になって賭けてくるのだろう…。
    どうして、……

    「だからあの金はすべて彼女達に返しました」

    「……んん?」
    思わず、素直に驚いた時空院はまじまじと阿久根の顔を見やる。
    前を見たまま告げた阿久根の横顔は、鼻に皺を寄せた苦々しい表情をしている。まるで自分自身の甘さに反吐が出るとでも言うように…。
    「有馬さんにも谷ケ崎さんにも言ってないですけど、どうせあの二人、こういう時の思考似通ってるんで承諾してくれますよ」
    清々しいほどの悪態を言い放つ。
    「それってつまり我々はタダ働きってことですか」
    「えぇそうですよ、何か異論がありますか?」
    そう早口で言い切った。それで自分の甘さを誤魔化しているつもりか…。
    「……異論はありませんが、」
    ふと小さく吹き出して笑ってしまった。
    あぁまったく素直じゃない。本当にキミはとんでもない嘘つきだ。
    答えが分かっている問いを、時空院はそっと穏やかに阿久根に投げ掛ける。

    「では、明日の阿久根くんは何の為に戦うのでしょうか?」
    「……そんなの、僕だって知りませんよ」
    燐童はもどかしく唇を噛む。悔しくて、答えを出したくなかった。
    傷ついた女性の為に戦う自分を、まだ認めたくない自分がいる。
    でももう引き返せない。
    苦しむ誰かに見て見ぬふりをして、嘘をついて見捨てることはもう出来ない。

    あぁ…自分を偽る嘘は得意だったはずなのにな…。

    「…でももうやるしかないでしょ」
    溜め息混じりにそう答えた燐童は、さっきから背後でリズミカルに続いていた音についにツッコむ。シャッ、シャッ、シャッ。
    「ところでなんでさっきからナイフ研いでるんですか、明日はそれ使えませんよ」
    言われても時空院はナイフを研いで、にたりにたりと満足げに笑っていた。


    ー……

    「てめえが言い出したんだ、辛気臭え面してんじゃねえよ」
    ボンネットに腰を据え、有馬は煙草に火をつける。隣に座る谷ケ崎は、モモの拳を受け止めてからここ何日かずっと何か考えている様子だった。自分の手の平を握ったり開いたりを繰り返している。まるで初めて動く自分の尻尾を見た猫のようだ。自分の意志で動かしているのに、なんだこれと静かに驚いている。
    「なに。何が気になんだよ」
    「…考えてるだけだ」
    要領を得ない返答に苛立ちながらも、肺から煙を吐き出して続ける。
    「だから、何をだよ」
    「理由」
    「……あ?」
    「有馬は誰かの為に戦ったことがあるか」
    谷ケ崎の一言はいつも有馬の見えない部分に深く刺さる。思わぬ言葉に、一瞬、胸がつかえて言葉を飲み込んでしまった。
    ゆっくりと煙草を吸う仕草でテンポの悪さを誤魔化す。
    「…さぁな」
    濁した返答に、谷ケ崎は有馬の横顔を見やる。しかし有馬は細く煙を吐き出すだけでそれ以上何も言わなかったし、谷ケ崎もそれ以上は何も聞かなかった。

    しばらくの沈黙。歯痒い静寂に有馬が先に根を上げた。「」と苛立った声をあげ、吸ったばかりの煙草を落として乱暴に踏みつける。
    「理由なんてなんだっていいんだよ、勝ちゃいんだ勝ちゃ」
    パシッと谷ケ崎の腕を叩く。その単純明快さに、谷ケ崎は一拍きょとんと呆れて目を丸くする。
    こうやって足を止めてしまう谷ケ崎を、せっかちな有馬が追いたてるのは、出会ってから一体何度目だろう。もう互いにルーティンになっているような気がする。

    あーあと伸びをしてボンネットを降りた有馬は、谷ケ崎に片頬を上げた笑みで振り返る。
    「まぁすぐにキレるてめえにひとつアドバイスをくれてやるとしたら、頭にキテる時こそ冷静にイけってことだな」
    「それお前もだろ」
    「……マジでなんでお前ってそう一言余計なんだよ」
    ぁあん?と柄悪く詰め寄る有馬に対し、谷ケ崎はわざとそっぽを向いて小さく舌を出していた。


    ―……


    翌日、決戦の地は思っていた以上に人が集まっていた。
    まるで土俵のように地面に大きな円が描かれていて、対戦者と観戦者との境界線まで作られている。
    「おいおい興業事業じゃねえんだぞ」
    「わたあめの屋台とか出てませんかね?」
    谷ケ崎達が到着した時には モモを連れた母親の他にも、金を渡してきた娼婦達が全員勢揃いだった。
    彼女達は谷ケ崎達を囲って、もうほとんど下着が見えているような勝負服で「あんな奴らぶっ殺して!」などと物騒なことを言う。おっかない会場だ。
    小さなモモは女達の勢いに押されて萎縮していた。やいやいと囲う輪の一歩後ろでぎゅっと祈るように手を組んで静かに谷ケ崎達を見つめている。
    「………」
    その視線に気がついて、谷ケ崎はただ黙って頷いた。

    二十二時ぴったり。向こうの路地から安いヤクザ映画のように肩をいからせて青年達が登場する。
    そのあとに続いて若い娼婦達がぞろぞろとついてきた。みな一様にキラキラとメイクアップをしていて、これ見よがしに若さを輝かせていた。
    集まった軍勢をモーゼのように割って空き地に入ってくる男達は立ち止まり、円の中でD4と対峙した。

    「逃げずに来たか、褒めてやる」
    開口一番舐めきった口調で煽ってきたのは、最初に母親を恫喝していた大柄な男だった。その視線が有馬を捉えて嘲笑する。
    「俺達からこの辺一帯を奪うつもりなんだろ?せいぜい楽しませてくれよ」
    「悪ぃが男を喜ばせる趣味はねえんだ、三下は黙ってろ」
    そう返した有馬も、相手を鼻で笑っていた。

    二本の路地から女達が続々と集まってきて、小さなコの字の空き地は立派なバトルフィールドになっていた。


    初戦。開始にまごついたのはD4のほう。
    「では私から」と挙手した時空院の手に、当然のようにナイフが握られていたのだ。
    「はいはいストップ」
    るんるんと出ていこうとする時空院の両脇を燐童と有馬がガシリと捉え、一旦 自陣へと連行する
    「え僕昨日ダメって言いましたよね…?」
    「てめえいい加減にしろ、ナイフ離せバカが」
    引摺り戻された時空院はわざとらしく頭上にハテナマークを出してとぼけている。
    「っ!?コイツ力強ぇな!?」
    有馬がナイフの柄から一本ずつ指を剥がそうとするのだが、びくともしない。むしろ平然と笑っていた。
    「何故ですか?殺してしまったほうが手っ取り早いでしょう?」
    「だから、これはそういう勝負じゃないんですよ。あくまでも陣取り合戦、どちらが強い男か分かればそれでいいんです」
    「それは戦争と同じではないかな?」
    ダメだ、ラチがあかない。有馬はこの騒動に入ってこない谷ケ崎を振り返る。
    「~おい谷ケ崎てめえ何とかしろ…!」
    こういう時はコイツの言葉が一番効く。
    時空院は谷ケ崎の言い分にはそれなりに寛容だ。それが癪に障る時もあるが、今はそうも言っていられない。

    「………、」
    谷ケ崎も、目の前のやり取りを聞いてなかったわけじゃない。
    ナイフを離さない時空院に思うところはあったのだが、有馬と燐童が騒いでいたから自分の出る幕はないと一歩後ろから眺めていた。
    が、どうやら2人は時空院の頑固さに根を上げたらしい。
    ふと一呼吸置いてから、キンと張り詰めた白眼は時空院を真っ直ぐに見据える。
    「…丞武、見学するか?」
    ぐっと低く入った声色に、谷ケ崎の本気を感じる。これでも強行するなら容赦しないぞとその身体が放つオーラが言っている。
    「………。」
    まったく…山田一郎に敗してからの谷ケ崎は時折こうして芯の強いリーダーの顔をする。時空院はその言葉と空気の重さを受け取って、ぐぬぬと口を尖らせた。
    ……さすがに戦いの場にすら出してもらえないのは面白くない。
    「~…分かりました、従いましょう」
    はぁあと大きな溜め息で肩を落として、時空院はようやくナイフを握った手を開いた。
    有馬がそのナイフを懐に回収し、今度は燐童がすぐさま時空院のコートに手をかける。
    「コートも脱いでください仕込みあったら困るので」
    「え私信頼なさすぎでは?」
    有馬と燐童の声が重なる。
    「「あるわけねえだろ」」
    追い剥ぎの如く上着を奪われた時空院はついにむうと頬を膨らませている。そんなわがままな子供に向かって、谷ケ崎は言う。
    「勝ってこい、丞武」
    「…仰せのままに」
    恭しく胸に手を当てた時空院はその顔を"怪物"へと変えていた。

    審判員はいない。誰の目から見ても勝ちだと思わせる状況に持ち込めばそれでオーケー。分かりやすいタイマン勝負だ。
    「お待たせ致しました」
    「ビビってんなら別の奴を寄越しな」
    向こうのチームから出てきた男は大きく首を回して唇をぶるると震わせる。
    自陣の士気に関わる一番手を任されるのだから、それなりに腕に自慢のある奴なのだろう。けれどD4からすれば、その辺の小石と変わらない。時空院は口元だけ笑わせる。
    「マッチ開始の合図はないのですか?」
    「そんなお行儀良いもんがあるわけねえだろ、お前は」
    「では失礼」
    時空院は相手の言葉を最後まで聞かず、次の瞬間には一気に目の前まで距離を詰める。
    相手の腰ほどまでに低く身構えた姿勢。そのまま飛び出すように踏み込んで頭から突っ込み、腕はあとからフルスイングでついてくる。拳は男の心臓の辺りに直撃した。観戦している谷ケ崎達にさえドンと重い音が聞こえるほどの威力。男は心筋梗塞でも起こしたかのように胸を押さえて唇をはくはくと震わせる。声すら出ない。
    がくんと地面に膝をついた男の頭目掛けて、トドメの一撃を振り落とす。突き出した二本指が、まるでピッケルのように男の目を抉り潰そうとしていた。その狂気を狙いすましていた、弾丸のような警告。
    「丞武!」
    突然叫んだ谷ケ崎の声に、隣にいた燐童と有馬のほうが肩を驚かせる。
    谷ケ崎の叱責が届いた一瞬だけ、時空院は恐ろしく顔を歪めて舌を打った。おもちゃを取り上げられた殺人鬼。計画を台無しにされた犯罪者。
    しかし男の眼前まで迫っていた指はインパクトの時にはしっかりと手の平に収められていて、その鼻っ柱は正当な拳で殴りつけられていた。
    ピンに乗ったゴルフボールのように頭を叩きのめされた男は後ろに倒れ、そのまま動かなくなった。
    「退屈ですねえ」
    時空院は涼しい顔で自陣に戻ってきた。きっともう相手の顔すら覚えてはいないだろう。燐童からコートを受け取って身なりを整える時空院が、チラと谷ケ崎を見て悪戯に笑う。
    「バレてましたか」
    「当たり前だろ」
    何が「仰せのままに」だ。お前みたいな怪物、手懐けられるなんてハナっから思っちゃいない。

    まずは一勝。フィールドを囲む女達からは敵味方で落胆と歓喜の声が同時に上がっている。戦闘不能になった男が仲間にずるずると回収されていくのを見送りながら、今度は燐童が前に進み出た。
    「とっとと終わらせましょう」
    軽やかな笑顔と爽やかな口調。でもどこか苛立っているようにも聞こえた。
    向こうから出てきたのは燐童とよく似た小柄な体躯の男だった。
    「どうしてこの路地に首を突っ込んだ?」
    対峙した男は静かな声で問いかける。燐童は片頬だけで笑う。
    「成り行きですよ。そちらこそ、なぜこの路地を拠点に?」
    男は両腕を広げて笑った。指先で操り人形でもするように野次馬の女達を指差す。
    「使い勝手がいいからさ。周りを見ろ、俺たちには使える女がいくらでもいる」
    「……なるほど」
    あぁそうか…。その瞬間、燐童は自分の心の中に燻っていた重さを納得した。
    これは自己嫌悪。同族嫌悪だ。この場にあるすべてが『自分』と重なるのだ。
    社会の縮図。人生の縮図。誰かの手駒にされて、いずれ裏切られるだけの小さな世界。…こんなところで終わってたまるかと檻を破ったのは、他でもない自分だ。

    男は優越感に浸って笑っていた。
    「お前たちがここを支配しても俺たちと同じようにはやれないさ」
    たった二本の路地を仕切っているだけでまるで世界でも牛耳っているかのようだ。
    「教えてやるよ、世の中の厳しさを」
    唱える男を、燐童はハハッと笑った。いつかの自分みたいに思い上がっている。
    「あーあ。再現VTRでも見ているみたいですよ」
    この路地のすべてに心を殺して接しようとしていた燐童の目が、ついに色を変えた。心が決まった。もう下手な遠回りはやめだ。誰が上か思い知るのはお前のほうだ。
    声が別人のように低く落ちる。
    「ガキが調子に乗るなよ、俺とお前じゃ格が違う」
    決着つけようか…。いつかの自分に。

    二番手は出だしからフルスロットルでアタックをかけてきた。足を取ろうと低く飛びかかってくる。燐童はその飛び込みを最小限の動きでするりと躱し、目標を見失った相手の背中を借りて反対側へ着地した。
    次から次へと立ち位置を変える燐童に翻弄された男はキョロキョロしてばかりで隙だらけ。あまりにも差がありすぎる試合に、観戦している有馬が「とっとと終わらせるんじゃねえのかよ」とうんざり呟いたくらいだった。
    男の動きが悪くなったところで、燐童は身体を寄せてその後頭部に手首を振り落とす。脳への回路を断ち切る一刀。ぶつりと糸を切られた人形のように、男は途端に脱力して倒れていた。

    谷ケ崎達のもとに戻ってきた燐童はいつものように「やれやれ」と肩を竦めていた。
    「遅えんだよ」
    「良い一手だったな」
    有馬と谷ケ崎は自然と燐童に片手を掲げた。
    「え……」
    柔く向けられたその手の意図に、燐童はほんの少し狼狽える。遅れてきた青春を楽しむような晴れやかな挙動。さすがに恥ずかしさを感じてしまう。しどろもどろになる燐童に二人は「ん」と手を促してくる。順番に二度ハイタッチを交わして、まったくと渋々を装って溜息を一つ。
    (まあ…悪くないかな)
    にやけてしまいそうになったところで、その視界に入ってきた時空院にじとりと目を据わった。物凄くいやらしい笑顔でにやにや見つめられているのだ。
    「~…なんですか」
    「ようやく本性を現しましたね」
    ツンと誤魔化そうとしていたのに、言われた言葉はあまりにも燐童を見抜いたものだった。……やっぱり敵わない。思い通りにはいかないな。


    D4が二勝勝ち取っている。
    4対4、これで向こうに「勝利」の可能性はなくなった。
    がっくりと肩を落として戻った小柄な男に、向こうのリーダー格の男が立ちはだかる。燐童にあれだけ優勢を解いていた男の背中が、チワワみたいに震えているのが分かった。萎んだ肩を掴まれて、こちらにまで音か聞こえるような鋭い平手打ちが張られる。
    とんでもない勢いで男は吹っ飛ばされた。周囲の女達は文字通り飛び上がり、慄いた瞳で悲鳴を上げまいと口を押さえている。咄嗟に、モモは耳を塞いで、その目を母親が腹に隠すように覆った。
    続いて足元で蹲っていた時空院に負けた男も無理やり立ち上がらせられて、同じような張り手を食らう。怒号はなく、ただ暴力での制裁が下っていた。

    場内は嫌な空気でしんと静まり返る。
    身内への暴力は支配している女達にも精神的圧力をかけるものだ。負けるのではないかとざわつく軍勢を恐怖で押さえつけるやり口。やくざものの手だった。
    「え何?俺も負けたら谷ケ崎にあれやられんの?」
    「お望みなら食らわせてやるよ」
    軽口に乗ってきた谷ケ崎へ、有馬は笑って舌を出していた。最近、こいつはこういうのも結構言い返してくる。
    さてと進み出ようとした有馬を、燐童が「待ってください」と止める。
    「あ?んだよ」
    「銃、渡してください」
    「はぁあ?使わねえよ」
    すかさず時空院は有馬の顔を値踏みして言う。
    「嘘おっしゃい。キミはカッとなったら撃つでしょ」
    「~撃たねえーつの!信用ねぇな!?」
    燐童と時空院の声が重なる。
    「「ありませんね」」
    「………てめえらマジで覚えとけよ」
    返されるやり取りに負けて、有馬は押しつけるように燐童に銃を渡した。
    「丸腰が不安なら俺が代わりにやってやろうか?」
    「ぁあ?誰に言ってんだ首締めるぞ」
    確信犯的な谷ケ崎に背中で中指を立てながら、有馬はフィールドへ出ていく。

    三戦目の始まりだ。

    フィールドに立った有馬は気怠く斜に構え、ポケットから煙草を取り出した。
    トントンとパッケージの頭を人差し指で叩く。最後の一本だった。一服を吐き出し、対戦相手を待つ。
    ファーストコンタクトから有馬とヒリついていた男は、リーダーに張り倒された二人に一瞥もくれずにフィールドに出てきた。表情は硬い。
    2メートルほど離れて対峙した有馬は空になった箱をぐしゃりと握りつぶして男をせせら笑う。
    「下っ端は大変だなあ?」
    男は黙って有馬を睨むだけだ。威勢の良さはすっかり消えてなくなっている。
    この試合で勝敗が決まる。そのタイミングを見計らっていたかのように、空き地の入り口にメルセデスが滑るように横付けされた。のっそりと現れたその車はまるで大海原を支配するくじらのようで、音もなく現れたにもかかわらず圧倒的な存在感を放っていた。女達は自然と車からの視界を妨げないように人垣に合間を開ける。男達もそれぞれが横目に車を確認した。
    「どちら様でしょう?」
    「あの人達が上がりを納めている組織の者でしょうね」
    顔を向けずに車の正体に予測を立てていると、後部座席のウインドが降りる。車内は暗くて確認できなかったが、こちらをじっと見据える人影から冷えきったオーラが漂ってくる。やくざだ。見ているのは"どっち"かは分からない。
    「表向きはこのまま勝ったほうがここを仕切ることになりますからね。僕らの顔も見に来たのかもしれません」
    実際はこの勝負に勝ったとしてもD4は姿を消すつもりだ。どこも支配するつもりがない。谷ケ崎は溜息をつく。
    「覚えられても厄介だな」
    どこの組織とも関わるつもりはない。しかしヒエラルキーのトップが出てきたことで 場の空気はぐっと引き締まっていた。

    上の人間に見られているとなると、向こうも勝利の可能性はなくてもこれ以上負け越す訳にはいかない。
    有馬と対峙する男は有馬よりふたまわりはデカい体つきをしている。体格差で負けはないと踏んでいるのか、男はメルセデスに向かって頷いていた。
    「お前らにこのシノギが回せんのか?」
    どうやらこのチームはよほど自分達の仕事っぷりに自信があったようだ。二敗してもまだ劣勢を認めようとしない。引き際を見極められない人間に勝負事は向いていない。
    「無駄話はいいからさっさと始めようぜ」
    有馬は意識して車のほうを見なかった。誰が来ているのかなんて知りたくもない。やくざ、ギャング、闇に蔓延る数百の組織。改めて話し合ったことはないが、暗黙の了解でD4はそのどこにも属さない。誰にも従わないのがモットー。だからこそ持てる自分勝手な強さが、今の俺の強みだ。

    男はいきり立って上着を脱ぎ捨てる。見もせずに放り投げたトレーナーは観戦している女達にべしゃりと乱暴にぶつかった。反射で受け取った女は渋々といった様子で腕にそれを抱える。母親の言うとおり、こいつらはどうやら女に好かれてはいないらしい。
    上半身裸になった嫌われ者は有馬に指を差す。
    「てめえは最初から気に入らなかったんだよ」
    「あっそ、別に好かれたくもねえけどな」
    ガキの挑発は軽く流して、地面に落とした煙草を踏み消す。
    「その舐めた口、利けなくしてやるよ」
    怒号を飛ばしながら突っ込んできた男の顔面に向かって、有馬はしれっと握ったままだった煙草の箱を手首のスナップだけで投げつけた。セブンスターのソフトパッケージがその手を離れるのと、有馬が駆け出すのは同じ速さだ。前動作なしの気怠さから一気にトップスピードが出せる有馬と違って、男の反射速度はバカみたいにのろまだった。
    「!?」
    顔のぶつかってくる箱を腕で振り払った次の瞬間にはその鼻先に鋭い一撃が入る。体重を乗せたストレートではなく、肘を軸にして跳ね上げるような軽やかなジャブだ。
    頭を振られた男は慌ててやり返そうと殴るモーションに入る。けれど男の動きは何もかもが後手で、有馬を追い越せない。大振りでガラ空きになった胸に今度はブレザーミッド77の靴底がクリティカルヒット。ドアを蹴り破るような勢いの良い片足キックだった。
    体重だけは人一倍だった男は倒れることはなかったが、どふと息を詰めて後ろによろめいた。分厚い身体を踏み抜く前蹴りに気管を潰され、ぜいはあと息を切らせている。
    降参するなら今のうちだと有馬は首を傾げてそっと笑った。嫌味ではなく、同情を含ませて。
    「まだやる?」
    男は一瞬メルセデスを見た。楽勝だと思っていた分、まったく反撃できないことに動揺しているのだろう。
    「お前程度じゃ勝ち目ねえっての」
    でもここで引き下がれば、上からのどんな仕打ちが待っているのかはバカでも分かる。さっき張り倒された奴らはまだ可愛いもんだ。階級が上になればなるほど、下手を打てば重い罰が下る。組織に巻き付かれている者の定めだ。
    後ろから観戦しているチームの男達が、男の名前を怒鳴るように叫ぶ。下がっても痛い目を見るなら、特攻するしかない。愚かな末端構成員。不甲斐ない自分に苛立って、やけくそに無茶をする若者。ギリギリと歯を食いしばって有馬を睨む男の目は、どこかで見たことがある目をしていた。
    後戻り出来なくなった男はがむしゃらになって有馬に突進してきたが、到底敵うわけもない。闘牛みたいにただ低く突っ込んでくるだけの頭を狙うのは、射的で的を撃ち抜くよりも単純だ。
    宙に斜線を引くように回された踵に思いきりこめかみを蹴り飛ばされて、男は横に吹っ飛んだ。
    三戦目も、たった数分の呆気ない試合だった。勝負はついたと判断されたのだろう、空き地の入り口を塞いでいたメルセデスは静かに発進する。去りながら後部座席の窓もぴっちり閉められ、それはまるでどんな弁解も聞き入れないと宣言しているようでもあった。見限られたと察し、チームの男達はひっそりと唇を噛んで俯いていた。

    フィールドの真ん中で蹴れた勢いのままどっさりと倒れていた男を、有馬は呆れた溜息で見下ろす。
    「真面目かてめえ」
    これがガチのドッグファイトだったら、こいつの人生は終わってる。こんな狭い世界のために犬死になんてして何になる。
    「逃げれる時は逃げていいんだよ」
    メンツのために死ねる人間が英雄だっていうなら、そんな称号、俺は糞食らえだ。
    汗だくの男は裸の身体に砂利をつけて起き上がる。すっかり意気消沈していて、今頃になって垂れてきた鼻血を拭うこともしない。落ち込んだ男に投げかけられる言葉は非情だった。
    「立てるなら殺すまで戻ってくるな」
    まるでタガが外れた独裁者だ。叫んだ向こうのリーダー格の男に、有馬はゆっくりと冷ややかな目を向ける。有馬だけでなく、D4の陣営はもれなく全員が鋭い目でそちらを睨んでいた。
    高まる怒りの空気を背に感じ、有馬はリーダーの男を鼻で笑って嘲笑する。
    「だったらてめえが出てこい。人を従える器もねえ奴が、やくざの真似事なんざしてんじゃねえよ」

    言い放って自陣に戻った有馬に、燐童は「お疲れ様です」と手を掲げる。
    きっとやるぞやるぞと決めていたのだろう、ずいぶん前のめりなお返しのハイタッチに「楽勝だわ」と軽く笑って応えてやる。そうしてチラと谷ケ崎を見た。
    言葉はなく、ただ互いに目で頷く。バトンは渡した。最後を決めるのはお前だ。
    三敗している向こうにもう勝ちの目はないが、このままでは終われない。フィールドにはもう最後の一人、リーダーの男が進み出ていた。その目はしっかりと谷ケ崎を射抜き、目が合うと出てこいと指先で呼び出した。男の様子を見たまま燐童は言う。
    「谷ケ崎さん、殺しちゃだめですからね」
    「分かってる」
    燐童の忠告を受け入れ、谷ケ崎は前を見据えて歩き出した。
    時空院が「いってらっしゃい」と声を掛ければ、肩越しに振り返って頷いて返す。
    静かに自陣を出ていくその背中へ、女達が次から次へと声援を飛ばして信頼を込めた瞳で谷ケ崎を送り出す。
    いつもは世話の焼ける子供みたいなその後姿に、たくさんの想いが懸けられていた。


    ここまでのすべてを、受け取っている。

    "誰かのために戦う"
    それは谷ケ崎にとって生まれて初めてのことだ。
    背中に掛けられる言葉の数々に、なぜか胸がしゃんとする。
    応援されるということ。信頼されるということはこんなにも身体を硬くするのか。妙な気分だった。
    いつも通りの呼吸をしろ。暴力の前にそんなことを意識したのは初めてだった。

    「おいおいアイツ大丈夫か」
    有馬は谷ケ崎の背中を見て 首を傾げた。
    谷ケ崎の背中は何か気負っているように見える。いつものぽてっとした気怠さがない。
    "誰かのために戦ったことはあるか"
    あのやけに神妙な問いの真意に、有馬は今になって気がつく。
    (……あのバカ、緊張してんのか…)
    いつも通りにいけば谷ケ崎に負けはない。
    この辺でくすぶってる輩じゃ谷ケ崎には敵わないのは分かりきっていること。
    でも……それは平常心だったらの話だ。
    サシの喧嘩ってやつは、案外メンタルに左右されるものなのだ。

    空き地の真ん中、谷ケ崎は男と対峙する。これはもう陣取り合戦の大将戦ではない。
    シノギやメンツを台無しにされた屈辱の腹いせと、たった一人の少女の涙の為に誓った本気の怒り。ここに立っている理由が違う。
    男の声は身内を糾弾していた時とは打って変わって落ち着いていた。
    「お前を倒したらかなりの金になるんだろうな」
    「?なんの話だ」
    「そう何度も脱獄できるものなんだな」
    「…あぁ」
    なるほど、懸賞金狙いか。正体を知ってもなおD4の挑戦を受けたのは、勝って警察に突き出そうという魂胆があったからなのだろう。
    「お前みたいなガキが脱獄してこれるなら、捕まっても大したことねえな。希望が持てたよ」
    「お前なんかじゃ出てこられやしねえよ」
    まっすぐに言い返す谷ケ崎の目を、男は笑った。
    「なんだ、仲間が全勝して良い気になってるのか?」
    「いや? まだお前が残ってる」
    谷ケ崎は当然のようにそう答えて、前準備に手首を回している男を見据えた。
    「どうしてお前らはここの人間達を支配するんだ」
    谷ケ崎の質問に、男は何を言われているのか分からないとでもいうように眉を上げる。
    「弱肉強食だからさ。弱いやつは強いやつに従って食われるのが社会の掟だ。強い側で居続ける為に弱い奴を食い殺す。お前もそうやって生きてきただろう?」
    「……あぁ、そうだな」
    肯定した。この生き様を今更懺悔するつもりはない。
    罪も失望も喪失も、そう簡単に割り切って清算は出来ない。
    何も取り戻せない。償うなんて詭弁もない。
    こんな俺には人の人生に口を出す権利なんてない。そう分かっていても、目を閉じるとモモに「悔しい」と殴られた腹がきゅっと熱く締めつけられるように痛んだ。
    (許せない)
    闇の中で見えるのはほんの少しの狭い世界だ。
    自分のことで精一杯の生き方をしてきたから、この腕に抱えられるものだって多くはない。でも、だからこそ全部まとめてここまで持ってきた。
    俺は俺の生き方でいく。この男達を許さない。

    闇を突きつける男に、谷ケ崎も真っ直ぐに言い放った。
    「なら、お前を支配するのは俺だ」
    男は一瞬きょとんと目を丸め、それから悪魔のように高笑い、叫んだ。同時に思いきり突っ込んでくる。
    「言ってろクソガキ!」


    一番長引いた試合だった。
    男のほうが手数は多かった。まずは相手に好きなように攻撃させ、ワンツーで返して沈めるのが谷ケ崎のやり方だ。男のラッシュは鋭いが谷ケ崎にはあと一歩のところで当たらない。
    しかし男の防戦も手練れていて、谷ケ崎の反撃も思い通りには当たらないのだ。的確に谷ケ崎の間合いとスピードをはかって躱し、当たっても急所は外している。有馬はへえと軽く笑っていた。
    「何、あのおっさん、結構やるじゃん」
    「谷ケ崎さんとタイマンはれる奴がこんな界隈でくすぶってるなんて」
    素直に驚いている燐童の横で、時空院もふむと対戦を興味深く見つめる。
    「動きが戦闘慣れしていますね、他の者とは経験が違うようです」
    それに、と続ける。
    「伊吹も動きが硬いですね。らしくない」
    有馬と同じ懸念を抱いているようだ。あまり良い兆候ではない。

    防御している手を惜しみ、ほとんど同時に殴り合う。先手を打ったのは男のほうだ。
    脇にフルスイングのフックを食らった瞬間、谷ケ崎は反射でガッと相手の喉に手を伸ばす。そのまま鷲掴みにして男の身体を持ち上げ、地面に押しつけるように叩きつけた。背中から落ちた男は「がは!」と息を破裂させる。重いダメージに追い打ちをかけて、全体重をかけて肺の辺りを上から踏み潰した。
    男の身体が足の裏で軋む。

    このまま肋骨を踏み砕いても構わなかった。


    「まずいですね」
    谷ケ崎の緊張は変な方向に傾いて、破壊者のスイッチが入りかけているように見えた。
    「スイッチが入ってしまったら三人で飛び掛かりましょう。三人がかりならなんとか止められるはずです」
    ここで谷ケ崎に殺しをさせるわけにはいかない。燐童の呼びかけに、時空院は冗談ではなく真摯に首を傾げた。
    「止める必要あります?」
    「……時空院さん、もしかして彼らのこと、結構怒ってます?」
    「さぁ? どうでしょうね」
    読めない笑みだった。このまま谷ケ崎があの男を殺してしまったとしても、時空院だけは拍手を送って讃えるだろう。善悪の境界線が、きっと自分でもよく分かっていない男なのだ。

    燐童と時空院のやり取りを聞きつつ、有馬はふと横目に子供を見下ろした。
    有馬の隣、大人の列に埋もれながらも、モモは固唾を飲んで谷ケ崎の試合を見守っている。
    (…さて…どうするか)
    こんなにも必死に純粋な想いで応援されている。谷ケ崎は分かっているのだろうか。
    男を殴りつける谷ケ崎の目は静かに轟々と燃えていて、もう目の前の獲物以外が見えなくなっているように見えた。
    (世話の焼ける奴)
    有馬は隣の子供に聞こえるようにわざと身体を傾けて、独り言のように言った。
    「おいおい最後の最後で大将が負けたら笑い者だなあ~?」
    「えっ!?」
    頭上から降ってきた悪魔の囁きに、モモの表情は真っ青になる。お願いと祈る手を更に強く握り締めて谷ケ崎を見た。


    男の左ジャブが軽く顎に当たった。脳を揺らすほどの衝撃はないが、痛みがないわけじゃない。
    痛みは怒りに火をくべる。炎は強くなればなるほど残酷な感情を焚きつけ、冷静さを焼ききってしまう。
    さっきまで背中を押してくれていた娼婦達の声援は、もう谷ケ崎の耳には聞こえない。
    真っ黒な世界でただただ目の前の相手を暴力で叩きのめす。
    自分と同じ顔をした怪物は、男の身体を持ち上げて満足げに悦笑っていた。
    弱肉強食。確かにそうだ。殺してしまえばいい。俺には簡単なことだ。
    やってしまえ。ほら、もうすぐだ。

    殺せ。殺せ。殺せ!!

    頭が痛くなってきた。真っ黒い炎にぐちゃぐちゃに飲み込まれそうになった、その寸前。

    「いぶき頑張って!!」
    燃え盛る炎の中で唯一ハッキリと谷ケ崎に届いた声。ハッと我に返る。
    悪意に沸騰していた頭が、一気にクリアになった。
    殺意で狭くなっていた視界は開けて、目の前の男だけじゃなくフィールドを囲っている外野にまで意識が通った。
    大人達に埋もれないように、モモは必死になって叫んでいた。
    「負けないで!!」
    勝利を願うその言葉の意味が、谷ケ崎には別の意味でぐっと胸に染み入った。
    そうだ、殺意に埋め尽くされるな。ここに立った理由を忘れるな。

    それは有馬が仕掛けた、モモの最強の掩護射撃だった。

    自然と谷ケ崎の口許が笑う。
    それは暴力性からくる笑みではない。
    任せろ。そう確かに返す、アンサーの笑みだ。

    芯に入った谷ケ崎の動きには誰も追いつけない。
    男が繰り出した連続ジャブストレートを軽々と腕で受け止めて振り払う。弾かれてガードが遅れる隙に踏み込んで、鳩尾に拳を撃ち込んだ。肩の力は気怠く抜けているのに、インパクトの瞬間の威力は絶大。男は堪らず呻き声を上げ、両手で内蔵を庇った。
    無防備に晒された顎目掛けて、谷ケ崎の身体は刃を振り回すバタフライナイフのように華麗に宙を舞う。
    なめらかな回転をかけた飛び蹴りを頭に食らい、男はぐるんと首を回して二メートル近く吹っ飛んだ。倒れこむ勢いに巻き込まれた砂利がズザザと悲鳴を鳴らす。

    着地した谷ケ崎は静かに顔を上げる。殺意とは違う覇気を放っていた。
    男は立ち上がろうと踠いたが、脳が揺れてまともに動くことは出来なかった。目が回って口から胃液を吐き出し、ついに力尽きて諦める。自陣の女達の前でみっともなく倒れたまま、起き上がってはこなかった。

    勝利の瞬間、あまりにもアクロバットな体術にフィールドは唖然と静まり返っていた。初めて見る人間には歓喜よりも驚きのほうが強いだろう。誰にも真似できない、これが紛れもなく谷ケ崎伊吹らしい戦い方だ。

    「人の人生を支配できると思うな」
    上がった呼吸を整えた谷ケ崎は、すーと落ち着いた細い息を吐き出してから、この勝負に決着をつけた。全敗の男達を静かに睨みつけてから、その瞳は後方で見守ることしか出来なかった女達に向けられる。お前が次の支配者かと怯えを潜ませる彼女達に、谷ケ崎は言う。氷がじんわりと溶けるような声だった。

    「俺たちは誰も支配しない」

    そうしてゆっくりと両腕を頭上に掲げる。
    右手は人差し指を立て、左手は横に倒したピースサイン。
    前から見るとDの文字、反対から見れば数字の4。

    『D4』

    谷ケ崎がそれを掲げた瞬間、自分を取り戻して勝利を掴んだリーダーの後ろ姿に、有馬達は並んでぐっと笑みを強くする。自然と胸が熱くなっていた。
    三人は同時に、谷ケ崎に続いてハンドサインを高く掲げる。
    燐童が堪らず前に飛び出し、大きな声で観衆にハンドサインを見せつけて煽り立てた。

    「皆さん! これが僕達D4のハンドサインです、僕達を応援してくれる方は掲げてください!」

    その声に応えて、D4に懸けていた女達は一斉にハンドサインを掲げる。
    モモも大人達の背丈に負けじと何度も飛び上がって両手を空に突き上げていた。
    自由を誇る人の熱は伝染していく。
    向こうの陣営の中で、一人の若い娼婦がD4のハンドサインを小さく掲げた。それに続いて 周りの女達も恐る恐るながらに手を掲げていく。
    チームに属してきた彼女達だって、暴力的な男に性を搾取される日々を歓迎していたわけじゃない。精一杯の勇気を振り絞った行動だ。
    制裁への怯えを振り切れずハンドサインを顔の前までで遠慮している女達へ、有馬は悪戯めいたしたり顔で言う。
    「おいおいそんなもんかよ?もっとイケんだろ!」
    大丈夫、ついてこい。そう目で言って頷いてやる。

    気がつけばフィールドをぐるりと囲って、D4のハンドサインが大勢の手で掲げられていた。
    私達は自由だ。誰かに心を踏みつけれられるのはもうたくさん。余計な支配は受け付けない!
    強い意思を持って手を挙げる彼女達を見渡し、谷ケ崎もハンドサインを返しながら何度も頷いて笑った。

    デスペラードの意味を知っている。
    絶望から無敵になった人。
    でもそれは決して人生への諦めや自暴自棄を差す言葉じゃない。
    未来への希望を捨てないと決めた。自分の未来を信じた言葉だと俺は思っている。

    みんなが見せてくれたこの景色を、俺は絶対に忘れない。

    最後、谷ケ崎は暴虐を尽くしていた男達へ吼えた。モモと娼婦達が懸けてくれた想いを背負って、約束を果たす。
    「ここを出ていくのはお前達だ!」
    ビリビリと稲妻が走ったように空気が震え、男達は気圧される。有無を言わせない、自由を宣言する者の声だった。

    それはあの日 日の目を見ずに散ったデスペラード達が、小さな世界で革命を起こした夜だった。



    「いぶき!」
    観戦の輪を飛び出して駆けてきたモモは、そのまま谷ケ崎の腹に激突するように抱きついた。
    全力でぶつかってきた子供の突撃をびくともせず受け止めた谷ケ崎は、けれどぎこちなく手の行き場を迷わせる。
    力加減が未だに分からないのだ。自分の手では壊してしまわないか不安になる。
    どうしたら…と心底困ってしまっている様子を、有馬と燐童はによによと面白がって笑うだけだ。
    視線で助けを求めてくる谷ケ崎に、時空院は微笑む。こうすればいいのだと 腹の前の空間を柔く抱き返す仕草を見せてやる。
    「……~」
    それでも谷ケ崎は慎重に、水の表面にだけ触れるような細やかさで子供の背に手を添えた。
    「ありがとう」
    泣きながらそう繰り返して必死に抱き締めてくる小さな手。
    良かった。深呼吸すると、頭の中はスッキリとしていた。頭痛は感じない。誰かを殴ってこんなに胸がすいたのは、生まれて始めてだった。



    ここからは後日談。
    二つの路地からは威張っていた男達が消えたと同時に娼婦達もすっかりいなくなってしまった。時代は移ろうものだ。彼女達は蝶のように舞い、またどこかで新たな花園を作っているだろう。
    D4が去った跡地には、いつだって何も残らない。

    そしてモモと母親のこと。
    言の葉党にはシングルマザーや貧しい子供達を援助するプロジェクトがある。
    誰かがモモ達をそのプロジェクトに通報し、モモも母親も言の葉党が運営する保護シェルターに入れることになった。
    母親には新しい仕事が紹介され、借金も正当な手順を踏んで返済義務は免除された。
    言の葉党が間に入ってしまえば、男達には手出しできない。
    これで、彼女達が借金に苦しむことはないだろう。

    「声を上げたら助けてくれる人がこんなにいるなんて、私知らなかったよ」
    通報してくれたのは匿名の誰かで、母親にも心当たりはないと言う。
    そんなことが出来る人物は俺は一人しか知らないが、容疑者は「まぁ女子供には寛容な政党ですからね」とツンと話すだけだったから、俺も何も聞いてはいない。そこを詰めたら、きっと可愛くない嘘を並べて拗ねることになるからな。
    とにかく、モモはようやくゆっくり眠れる布団と本が読める場所を手に入れたのだ。


    この街を離れる時、母親は谷ケ崎達を路地の入り口で見送った。服装は変わらず、スイカみたいな胸をたっぷり詰め込んだキャミソールと下着が見えそうなミニスカート。
    彼女にとってこのスタイルは男に媚びる為ではなく、彼女らしさを貫くためのプライドなのだろう。それでいいと思う。
    「これ、モモからの手紙。あとで読んでね」
    そう言って、谷ケ崎に封筒を差し出した。
    「私はもう娼婦じゃないから買ってもらえないけど、お金なんてなくても皆とならいくらでも恋愛出来ちゃうな」
    別れ際、母親は愛嬌のあるウインクで谷ケ崎達に舌を見せる。胸を張った彼女の姿は希望と自信に溢れていた。きっとどこでだって強く生きていけるだろう。
    「私、四人一緒に相手できるテクニックくらいはあるんだからね?」
    「あ僕は結構です」
    「俺もいい」
    「どうせなら俺一人にしてよ、こいつらと一緒とかマジ勘弁」
    次々に早口で辞退を申し出る面々に対し、一番後方にいた時空院は はて?と不思議そうに言う。
    「そうですか?私は興味ありますよ」
    「「「…………。」」」
    何も聞かなかったことにしよう。
    三人は一斉に黙ってそっぽを向く。
    「あはは!ホントに、お兄さん達ならいつでも大歓迎だよ」
    ケラケラと笑う彼女は明るくて気前の良い、最高の母親で、最高の女だった。



    盗難車に乗り込む前に、谷ケ崎は受け取った手紙を開けた。中には二枚の便箋が入っていた。
    他の三人も自然と谷ケ崎の肩に集まって、それぞれがそこに綴られた幼い文字を目で追っていった。

    みんなへ。
    本当はお見送りをしたかったんだけど、学校に行けるようになったので 今日は手紙を書きます。
    戦ってくれて本当にありがとう。
    わたしのママはだれかにとってはクズでどうしようもない人と言われるかもしれないけど、私にとっては世界にたったひとりだけの最高のママです。そんなママを悪く言われたことが、わたしは一番悲しかった。
    だから、いぶき達に出会わなかったらわたしはきっとずっと誰かを恨んで、誰かのせいにして生きていたと思います。
    今のわたしの夢は、たくさん勉強をして、誰にも悪く言われない仕事をして、ママを支えていくことです。
    いつかまた会えたらその時は、王子様みたいにカッコ良い車で迎えに来てください。
    私を初めて海に連れていってくれる男の人は、いぶきだと嬉しいです。


    最高のラブレターだった。
    谷ケ崎の脇に集っていた三人はじっとりにやにやと谷ケ崎を見やる。
    「やりますね谷ケ崎さん」
    「伊吹はこう見えてモテるんですよねえ」
    「つかこいつ免許持ってねえだろ、運転してんの俺なんだわ」
    冷やかす三人を視線で黙らせて、谷ケ崎は二枚目をめくる。二枚目の便箋は、母親からのものだった。


    絶対に見るなと言われたから、モモの手紙は読んでいません。
    今回のことは、本当にどうもありがとう。私もモモも感謝してる。
    モモは私には出来すぎたいい子なんだ。友達になってくれてありがとね。
    脱獄犯がオンナからの手紙を持ち歩くなんてカッコ悪いだろうから、この手紙は読んだら燃やしてしまってください。モモにもそう話してある。あの子も、みんなが悪い人だって分かっていたみたい。男を見る目があるのは、私の娘だからかな♡
    身体に気をつけて、どうか逃げきってね。応援しています。


    思わず笑ってしまった。
    逃走を応援される脱獄犯なんて今だかつていたのだろうか。
    「僕達のこと、分かってたんですね」
    「だから懸けてきたのか」
    勝利を期待させるくらいには、D4の悪名はネットの裏でまことしやかに囁かれている。

    懸賞金のかかった犯罪者達に、この先何があるかは分からない。
    自分達が後生大事にこの手紙を持っていて、いつか彼女達に何か迷惑をかけたら本末転倒だ。
    谷ケ崎はそっと指先で手紙を遠くに差し出す。その紙の端に、有馬は言葉なくライターの火を点けた。
    手紙を包む火は今まで見たどんな炎よりも美しくて、優しい色をしていた。
    誰も話さずに燃えていく手紙を見つめている。その静寂の温かさを感じながら、谷ケ崎は考えていた。

    この拳で、誰かを助けたと思っていた。
    でも本当はいつかの自分を助けたのかもしれない。
    ……あんたもたまには暗闇に耳を澄ませてみるといい。
    助けてと叫んでいるのは他でもない自分自身なのかもしれないからな…。


    優しい灰はひらりと蝶のように風に舞い、谷ケ崎の指先から離れていった。


    深呼吸した燐童は「さぁ!」と空気を変えて、パンと手を鳴らす。号令。イエス、Sweeper-A。
    「さて皆さん!次はどこに行きましょうか!」
    支配を受けつけないD4の行進は止まらない。次の獲物を探しに行く。強欲なハンター達だ。

    「とりあえずどっかまともな寝、床……」
    しかし、運転席のドアを開けた有馬はそこまで言いかけて、はてと動作が止まった。
    「おいちょっと待て」
    有馬の緊迫した呼び掛けに、全員が乗り込む動きを止める。
    車の屋根に腕を掛けた有馬は、なんだと怪訝に集中する視線を見渡してから、静かに言った。


    「俺ら結局金なくね?」

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