はじめての……東都に入ってすぐに宿泊したホテル。
脱獄からもうすぐ二週間が経とうとしているが、どうやら中王区や警察は難攻不落を謳う刑務所から囚人を四名も脱獄させてしまった失態を世間に公表することが出来ないようで、変装もせずに街中を歩いていても四人にはさほど危機を感じることがなかった。
明日からどう動くのか。ミーティングと腹ごしらえを兼ねて、脱獄者達は一部屋に集まっていた。燐童と有馬が宿泊する部屋だ。
「大丈夫ですか、谷ケ崎さん」
「どっかでゴミでも入ったんじゃねえの」
谷ケ崎はホテルに入る前からしきりに瞼を擦っていた。ここに辿り着くまでも、谷ケ崎には酷い頭痛があったり、「落とすなよ」と言われた瞬間にソフトクリームを車内でひっくり返す所業があったりと、何かと手を焼くことが多かった。
子供のようにゴシゴシと遠慮なく瞼を擦る様子がさすがに気にかかり、「あまり擦ってはいけませんよ」と時空院が声をかけ、燐童も買い出しついでに洗眼薬を購入していた。
「話をする前に、先にこれ使ってください谷ケ崎さん。目、真っ赤ですよ」
そうして渡されたその洗眼薬のボトルに、谷ケ崎ははてと小首を傾げる。
「どうやって使うんだ?」
嘘だろ。三人は一拍揃って唖然と谷ケ崎を見やる。
「お前目薬も使ったことねえのかよ……」
「こんなデカい目薬注したことない」
谷ケ崎の発言に思わず燐童は渡したボトルをそっと回収する。こんなデカいボトルを上から注して使うわけないだろうが。そんなツッコミは心の中でして、顔は心優しく教授する。
「これは点眼薬ではなくて、目を洗うものなんですよ」
世間知らずもここまでくるともはや絶滅危惧種だ。終始頭の上にはてなマークを飛ばしている谷ケ崎を、時空院だけはふふと笑って許していた。
「そのカップの内側の線まで注いでください」
「わかった」
洗面所、洗眼薬を準備する谷ケ崎の周りには三人が集っている。
ツインルームの洗面所に男が四人も入れば、そこはぎゅうぎゅう詰め。身を乗り出してまで参加するのは気が引けるが、谷ケ崎のやらかしが気になってしまう有馬は一歩引いて壁際から面倒くさげに言った。
「お前こぼすなよ」
「あ」
有馬の語尾に重なる声。注ぐ手の力が強すぎて、薬液がカップから溢れ出ていた。同時に、三人は吹き出して顔を俯いてしまう。谷ケ崎伊吹のフラグ回収は早業すぎる。
「おいてめえマジでふざけんなよ!」
もうほとんどキレた調子で言う有馬も、笑いを堪えて怒りに変えているようだった。
気を取り直し、薬液を正しくセットしなおす。さぁいざ初めての洗眼だ。
「こぼさないように強く瞼に押し当てて、顔を上げるんですよ」
「わかった」
頭を後ろにそらして上を向いた谷ケ崎に、燐童は指示を続ける。
「それで目をパチパチしてみてください。こぼさないように気を付けて」
パチパチ。カップの中で瞬く谷ケ崎の白い瞳を、出来たか? 大丈夫か? と三人がそれぞれに気が気じゃなく見守ってしまう。
「おいおいいつまでやってんだよ」
「大丈夫ですか? 痛くないですか?」
「伊吹、ゆっくり頭を戻して、液は捨ててしまいなさい」
あぁと言われた通りに姿勢を直した谷ケ崎は、時空院から渡されたタオルで目元を拭き取る。これでどうだとどこか誇らしげに鏡からこちらを振り返った。
「っ!?」
当然の顔で振り返った谷ケ崎の顔を見た三人は、途端に我慢できずに膝から崩れ落ちて笑い出す。
おそらく(こぼしてはいけない)と思い切り押し付けていたのだろう。カップのあとが瞼の周りにくっきりと丸く残っていた。なんとかクールにいなそうとするが漏れ出てしまう、三人分のクツクツとした笑い声。
「いやもうパンダじゃないですか…!?」
「~マジでお前わざとだろ!? ふざけんじゃねえぞ!?」
こんなの、笑わない人間いないだろう。ああもう勘弁してくれ。降参だ。
陥落したまま珍しく一緒になって笑っている面々を見て、谷ケ崎だけは首を傾げている。その無自覚さも、面白さに拍車をかけていた。
「本当に伊吹は期待を裏切らない人ですねえ」
まだ少し濡れている目元を横からタオルで拭ってやりながら、時空院もふふふと笑っていた。
こんなところがあるから、阿久根も有馬も「勝手にやれ」とは言わずにこうして洗面所まで付き添ってしまうのだ。まったく、敵わない。
例えば人を惹きつけてやまない人間を一つの物語の中で主人公と呼ぶのならば……。
もう暗闇を後戻り出来ない伊吹は、過去にも未来にも真っ当な明るい物語など決して紡げないだろう。けれど、我々のような闇の中でしか生きられない者にとって、この子は何故か放っておけない不思議な力を持っている。本当に、珍しく見ていて飽きない興味深い人間だった。
「目はもう平気ですか? 痛くない?」
「? あぁ、痛くない」
それは良かった。そう微笑んで笑いを誤魔化していると、燐童たちもやれやれと気持ちを入れ替えて立て直す。
「もう悪ふざけはこのくらいにして、ミーティングしますよミーティング!」
「谷ケ崎てめえもうマジで余計なことすんなよ」
「何もしてねえだろ」
むっと反論する谷ケ崎の肩を持って、時空院は笑う。
「気にしてはいけませんよ伊吹、有馬くんのお小言は心配の裏返しです」
「ぶっ殺すぞ」
指で作られた銃口がこめかみに当たるのさえも笑い飛ばして、四人揃ってメインルームへと移動する。
それは人を暴力で捩じ伏せてきたとは思えないほど普通の青年達が過ごした、つかの間の緩んだ一時だった。