「雲居の空」第2章 常世の国の皇子・アシュヴィン2.常世の国の皇子・アシュヴィン
「オレが常世の国の皇子・アシュヴィンだ」
風早に案内され千尋が向かった先は常世の国であった。
千尋の目の前に現れたのは赤毛の髪に、肌に密着した服とはいえ着ていても一目で筋肉質だとわかる体躯を持つ皇子アシュヴィンだった。
隣にいる風早とは色合いも雰囲気も真逆なため、千尋は戸惑いを隠しきれない。
しかし、そんな千尋の様子を気にする様子もなく、アシュヴィンは口を開く。
「常世の国と豊葦原の和平。悪くないな」
そう言いながらアシュヴィンは千尋の頭のてっぺんから爪先まで観察するかのように視線を動かし、そして千尋の後ろにいる風早も一瞥する。
「ふーん、なるほどな……」
千尋と風早の間を流れている空気感、それに気づいたのだろうか。しかし、アシュヴィンは不快さではなく面白がる様子を見せた。
それは彼の本心なのか策略なのか千尋には判断つきかね恐怖に近い何かを感じてしまう。
しかし、そんな千尋とは対照的にアシュヴィンはひとつの提案をしてくる。
「ちょっとふたりっきりで話したいが、いいか」
提案というより命令に近い口調。
『ふたりきり』という言葉に抵抗を感じ、千尋は風早の様子をうかがう。案の定、風早も警戒の色を強めており、目で「行くな」と伝えてきている。
躊躇する千尋だが、言葉にはならない。すると風早が彼女の代わりとして口を開く。
「この方は我が中つ国の大切な二ノ姫。やがて婚姻関係になる予定がある方とはいえ、初対面で他国の皇子とふたりっきりにすることはできません」
風早の言葉は想定内だったのだろうか。
アシュヴィンは嫌悪の様子を見せずに風早を真っ直ぐに見据えている。
「では、目の届くところで話すことにしよう。いいな」
威圧的な態度を崩さないことから察するとすると、どのみち、千尋とふたりっきりで話したいらしい。
不安な気持ちが心の中で大きくなるが、ここで妥協しなければ『和平』のために婚姻関係になりたいという言葉が偽りであると疑われるであろう。同じことを考えていたのであろう。風早が頷く。ただしそれはすんなりと了承したものではなく、しぶしぶ応じたというのが表情からも明らかなのだが。
「アシュヴィン、私とふたりっきりで話したいことって何?」
先に口を開いたのは千尋の方だった。
そんな千尋に対し、アシュヴィンは不遜な眼差しで千尋を見つめる
「ひとつ聞こう。今回の結婚、おまえ自身はどう思っている?」
どう、と言われても、答えはひとつしかない。「王族として生まれたものの責務」、それだけだ。
決して愛情を求めるわけでなければ、暖かい家庭を築き上げる必要もない。ただ、両国の魂を引き継ぐものを産む。それが自分に課せられた使命。
そう思い込むしかない。
そうでなければ風早への想いを抱えた状態でアシュヴィンとの婚姻を受け入れることはできない。さもなければ、自分はおそらく裏切り者として国から処罰を受けるであろう。
そんな千尋に対し、アシュヴィンは予想外のことを言い放つ。
「俺自身は歓迎さ。常世の国でも中つ国の二ノ姫の器量の良さは評判だった。そんな女と結婚できるのだからな」
不敵にすら見える表情は千尋とは対照的だった。そして、彼自身、先ほどの千尋と風早の雰囲気から、ふたりの関係を察したであろう。それにも関わらずこの態度をとるということは、相当自信があるに違いない。
「そんな! 私は戦利品でもなければ褒美の品でもないのよ」
思わずそう反論してしまう。
しかし、アシュヴィンはそれにひるまない。
「ああ、それはわかっている。しかし、俺もお前も互いに好きには結婚できない。なら、少しでも望みに近い相手と結ばれたいと思わないか。その瞳、悪くはない」
アシュヴィンはこの結婚を受け入れようとしている。
それどころか千尋が相手で問題がないらしい。ひとりの男性が心に占めていると認識しているにも関わらず。
「そんな…… 私の気持ちはどうなるの?」
それは目の前のアシュヴィンに向けたものではなく、ひとり言のような呟きだった。
「おまえの気持ちか。そうだな…… 今はおまえの気持ちまで縛るつもりはない」
つまり、心の中で誰を想っていても気にしない。
そう言いたいのだろうか。
余裕すら感じるアシュヴィンの物言いが千尋にはどこかこわく感じる。
「あくまでもおままごとのような恋だろ? ここに嫁いで三日もすれば、俺のことが欲しくて欲しくてたまらなくなるぜ」
千尋を見つめるアシュヴィンの瞳はまるで獣を射ようとしているように、冷静でありながらどこかたぎっているのが見えた。
その瞳にドキリとし、そしてそんな自分がいることにも驚く。
私は風早のことが好きなのに。
そして、彼以外の男性を好きになりたくないのに!
だけど、ここに来るとアシュヴィンの色に染まってしまうのだろうか。
そして、風早への想いは消し去られてしまうのだろうか。
常世の国の乾ききった風が千尋の頬を掠めていった。