「雲居の空」第3章~蛍3.
「蛍…… 綺麗だね」
常世の国から帰るころには夏の夜とはいえ、すっかり暗くなっていた。帰り道はずっと言葉を交わさないでいたが、宮殿が近づいたころ、あえて千尋は風早とふたりっきりになることにした。さすがにここまで来れば安全だろう、そう思って。
短い命を輝かせるかのように光を放つ蛍が自分たちの周りを飛び交っている。明かりが灯ったり消えたりするのを見ながら、千尋はアシュヴィンとの会話を風早に話した。
「そんなことを言ったのですか、アシュヴィンは」
半分は穏やかな瞳で受け止めているが、半分は苦笑しているようだ。
苦笑いの理由がわからず、千尋は風早の顔を見つめる。
「『昔』、あなたが嫁いだとき、全然相手にしてもらえず、あなたはアシュヴィンに文句を言ったのですけどね」
昔。そして、嫁ぐ。
今ではない、昔の自分。
記憶にないとはいえ、彼と、アシュヴィンとそのような関係になっていたことが意外だった。風早はおそらくそのときのことをすべて覚えているのだろう。自分はアシュヴィンのことをどう思っていたのか、そしてアシュヴィンも自分のことをどう思っていたのか。さらには、風早はどんな気持ちで過去の自分たちふたりを見つめていたのか。気にならないと言えば嘘になる。しかし、それは生産性のある質問ではない。聞いたところで過去の傷をえぐり、後悔と憎しみしか生み出さないことが目に見えていた。
だから、聞かないことにした。それが一番だと判断したから。
「まあ、同じ人と言えば同じ人だけど、私が昔の記憶を持っていないように、アシュヴィンも昔と今は別人だから」
そう。昔の私と今の私は違う。もちろん、昔のアシュヴィンと今のアシュヴィンも。変わらないのは風早だけ。
昔は恋に発展した関係かもしれないけど、今は違う。たとえアシュヴィンがどんなに自信過剰になっても。自分が好きなのは風早だから。長い時間を掛けてようやく巡り合えた人なのだから。
ふと、さきほどから視界の端にチラチラ映る蛍を見て、千尋はひとつのことに気がつく。
「なんか、毎年風早とはこうして蛍を見ている気がする」
「そうですね」
去年もその前の年も、さらにその前も、風早とは毎年夏にこうして蛍を見ていた。
すると千尋はひとつのことを思い出す。心の中で蛍のように光っている大切な、そして小さな思い出を。
「そういえば幼い頃、蛍を見たとき、おかしなことをいったよね」
「おかしなこと? ああ、俺と結婚したいと話したことですか」
風早は迷いもなく口にする。
「もう、はっきりと言わないで」
千尋は照れながら風早の胸をポカポカ叩く。
蛍の光がまるで流れ星の光のように見え、一筋通っては消え、また一筋通っては消えていく。
そんな仕草とは対照的に瞳から涙が零れ落ちているのを感じた。
「あの頃は、結婚に夢を見られて幸せだったな……」
周りの采女たちは好きな男性に見初められて結婚することが多かった。そして、自分もそうなるのではないかと夢見てきた。しかし、現実は違う。確かに王族たるもの、自分だけのことを考えていては国は傾くのであろう。わかっていても、心がついていかない。
そんな千尋の頭を優しく撫でながら、風早は優しい声で衝撃的なことを口にした。
「きっと俺はこれ以上一緒にいてはいけないでしょう」