月影は獣の輪郭をくっきりと象り、古びた木目に濃紺を焼きつけていた。獣の色めいた気息が四辺に吸い込まれていくあお白い部屋。そこに足を踏み入れた時点で、この勝負は半助の負けだった。
今宵は満月だったから。獣にまた一歩と近づく男は、その身に今ふたたびの呪いを受けたのかもしれなかった。
そもそもは愛らしい弟だったはずだ。それこそ珠のような。土井半助は一度は失った大切なもの──家族を得る幸運に恵まれた。美しく強かで愛情深い母、不器用ながらもほんとうの息子のように気に掛けてくれる父、そして自分を無条件で慕ってくれる弟。彼と共に過ごす時間は実に甘美なものだった。心地好かった。気を張ることも計略を巡らす必要もなく、相手の言葉の裏を読まなくていい。ただ肩の力を抜き、他愛のない話をする。失くしたはずの心のかたちを、彼がその小さな手のひらで優しく撫ぜ、包み込んで、「たしかにここにある」と見つけてくれた。
彼の半助に向けられる真っ直ぐで美しいまなざしに変化の兆しが見えたのはいつ頃だっただろう。熱の篭った視線が横顔に刺さった。不自然な会話の間隙が増えた。常にそうという訳ではない、ふとしたときに垣間見えるのだ。かつての家族に対する気のおけなさはなりを潜め、どうにもすわりの悪くなるその時間を半助はただ受け流す。どうしてこうなったのだろう? どこかで間違えた? いずれ消えゆく、若さと無経験ゆえの過ちならば、何も知らぬ兄としての振る舞いを続けるほうが互いに傷つかないはずだ。
彼もまた、隠しきれない思慕を覗かせつつも、仲の良い兄弟という関係を変える心算はないようだった。互いに暗黙のままにその枠組におさまり、ぬるま湯のようなつくりものの心地好さに漫然と体を揺蕩えた。そのつづまやかな幸福がずっと続くと思っていた。思い込もうとしていた。
万物流転。永久不変のものなどこの世には存在しえない。
互いに侵さなかったその線を、大事に守っていた境界を先に踏み躙ったのは、他でもない半助だった。
山田利吉が忍術学園に転がり込んできたのは数日前の夜半のこと。
なぜか寝付けなかった半助は布団から抜け出し、厠に向かう道すがら昇りゆく盈月をぼうっと眺めていた。そんな折だった。殺しきれぬ忍びの気配に半助は反射的に一歩退き、中庭をぐるりと見渡した。だが、その気配の主にはすぐに思い当たった。警戒を解き、その姿を探す。──居た。
草間の陰から足を引き摺り現れた青年は、脇腹に矢を受けたらしい。彼がそんな怪我を負って学園に訪れるなどというのは珍しいことであったが、ともかく半助は彼に肩を貸して医務室へと向かった。深夜の来訪客は弱々しく謝罪の意を述べたが、半助は聞き流した。肌に触れる彼の体温の熱さに、矢に毒が塗り込められていた可能性も見えてきた。頬に一筋、冷や汗が光った。
それから三日三晩、利吉は高い熱に魘されていた。新野先生や保健委員会の善法寺伊作の介抱の甲斐もあり、四日目にしてようやく熱が下がったらしい。その間、半助はといえば、とっぷりと日の暮れた頃にやっと仕事を終えて彼の枕元に立つことができるという具合だった。額の温い手拭いを取り替え、汗を拭く。自分にできる数少ないことであったが、利吉の顔に血色が戻っていくのを見ると少しばかりは安心できた。命にかかわる毒ではなかったようだ。朦朧としていた彼の意識も、三日目にはもう会話のやりとりができるようになっていた。
先ほど熱が下がった『らしい』と述べたのは、四日目に半助が保健室を訪うと山田利吉の横たわっていたはずの布団が空になっていて、半助自身にその真偽を確かめる術が無かったからだ。新野先生によると、解熱後に新たな症状が発露して、現在は学園内の離れの小屋で独り療養しているという。曰く、誰にも会いたくないのだと。ここまで手厚く介抱してもらっておいて申し訳ないが、あとは日にち薬であるからそっとしておいてほしいと。
遠慮不要の間柄である半助ならばと、少しは腹に溜まるものを運ぶように頼まれて件の小屋を目指していた。夜中だというのに、道には影が伸びていた。雲ひとつない夜空には大きな月──まるで大きな瞳に見られているかと錯覚するような。生温かい夜風がぬるりと頬を撫で、其処此処で刹那の生を謳歌する虫たちの声が谺していた。
ここに人が近づくことは滅多にない。元は物品倉庫のために建てたもので、結局そこに収まる家主が見つからないまま蜘蛛たちの絶好の棲家となっていた。時折こうして予定外の来客が利用するほかは、その部屋の灯明は無用のものであった。
小屋の近くまで来た時に、ふと違和感に気づいた。虫の声に混じって微かに耳に触れるそれは、人間の荒い呼吸に他ならない。だがその音の主の心当たりは一人しかいない。
「利吉君、大丈夫? 具合が悪いんじゃないか」
誰にも会いたくないという言葉を聞いていた手前、戸を開けることに若干の躊躇いが生じた。半助は引き戸の前に立ち、中の客人に問いかけた。
「……土井先生、ですか」
ややあって、弱々しく震えた声が返ってくる。予想以上に事態は深刻なのかもしれない。
「入ってもいいかな。食事を持ってきたんだ、何か食べないといけないよ」
「駄目です、来ないでください」
ぴしゃりと拒絶する言葉に半助は目を瞠った。しかしこれは。半助の頭の中で、色々な可能性が巡っていった。
「違うんです、……すみません、折角来てくださったのに。今の私は、貴方には会えません。……後生ですから、どうか、」
来ないでください。その潤んだ語尾は次第に小さくなり、虫の声に掻き消えて最後まで聞き取ることができなかった。
髪が頬を擽った。思考の外で松虫が絶えず己を主張していたが、にも拘わらず頭の中に響くのは姿の見えない男が抑えきれずに漏れ出した呼気、耳殻を打つ脈拍、ひとつ上下した喉仏。現実から切りとられた奇妙なしじまの中、半助は立てつけの悪い引き戸をただ見つめていた。
利吉と半助の間を隔てるもの。
彼によっていじらしくも辛うじて設けられたそれが、狡い大人の形をなした藍に侵されている。つまりは、半助にとってその壁こそが心地好かった──結局のところ、都合がよかったのだと思う。彼のためだとか、自分などがとか、そんな綺麗ごとの詭弁に包まれた飴玉は、その実ごく利己的な味の毒だった。
ならば、その出来合いの壁に甘えていればよいではないかと囁く声がある。大切な弟として、家族としてという純粋で清らかな心持ちで彼を想っているのであれば。だがはたしてそうだろうか。長年にわたって熱いまなざしと、隠しきれない切なげな言葉を投げかけられ続け──ただの弟とするには、懐に深く踏み込まれすぎて。年月は人を変え、半助も手本の兄のままでは居られなかった。
ずいぶん長い間、立ち尽くしていた気がした。満ちた月は南天高くに留まり、黙って半助を見下ろしている。
嗤われていると思った。
「こういう時こそ頼ってくれてもいいんじゃない」
あるいは独り言のように受け取られかねない声音で半助は呟いた。小屋の中で蠢く気配がする。見えないそれは、ちゃんと半助のよく見知った弟の姿をしているだろうか?
「わかっていらっしゃるんでしょう。きっと何もかもわかっていて、貴方はそうおっしゃるんです。もう私などのことは捨て置いてください。どういうおつもりなのか私にはわかりません。これ以上、私を惑わさないでください」
奔流の如く溢れた想いの欠片は半助の体を攫っていく。溺れる。涙に濡れた声には言葉ほどの怒気は感じられなかった。困惑、自棄。そして、その奥に秘められたほんの少しの甘やかな期待。それに気づかない半助ではなかったが、その手を払い除けてきた。
今まで、ずっと。
その扉の向こうを覗きたくなってしまったのだ。見るなの禁忌を犯した者たちの末路を知っていたはずなのに。