「変わりゆく朝、変わらない君と」瞼の隙間から柔らかな光が滲んだ。夢と現をさまよう意識を微睡から連れ出したのは聞きなれない電子音。ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ、延々と繰り返されるけたたましい音色は寝起きの頭に優しくない。初期設定のままにせずせめて小鳥の鳴き声か何かに変えておけば良かったか。結局、人工的な調子には変わりないのだろうけれど。
「う、」
無機質なさえずりを止めるべくシーツの海から手探りで音源を辿る。自室のベッドならとうに腕がはみ出している距離を漕げども漕げども、かき分ける手はやけに手触りの良い布地を掴むばかりだ。シルクだかサテンだか知らないが、いかにも質が良さそうな繊維の上に所々かさつく感触がある。粘度を持った液体が染み込みそのまま乾いたような指触りの正体については、考えないのが無難だろう。
「っるせぇ……」
ふと聞こえた声の方に視線をやれば、男が俺の携帯電話らしき物を手にしている姿がぼんやり見えた。電子の鳴き声を止めたのは飼い主ではない人間の指先だったらしい、寝返りを繰り返すうちにあちらの方に潜り込んでいたのだろう。
そういえば一緒に枕元に置いた眼鏡も見当たらない。大きな窓から差し込む光と鳴り響くアラームの音だけで朝の訪れを感じていたが、いったい今は何時なのだろう。
「何時だ」
「あぁ?六時十二分」
「……寝坊だ」
「寝坊って、お前な」
ため息交じりに吐き出された声は濁音を帯びている。寝起きの気怠さや睡眠時の乾燥だけがその濁りの原因でないことは誰よりも知っていた。歌うように流れる賑やかな響きはなりを潜め、布擦れの音と水分を含んだ音に時折混ざる押し潰したような声。苦痛に耐える呻きにも聞こえるその声に明らかな艶が含まれていたことは、ひと眠りした後でもやけに鮮明に覚えている。
「ありえねぇだろ、人の家泊まって五時半にアラームとか。昨日何も予定ねぇって言ってただろうが」
「俺は休日でも同じ時間に起きる」
「そーかよ……そもそも寝坊って言わねーだろ、これは」
普段より遅く起きたのならそれは寝坊だろう。お前がどうかは知らないが、俺はこれまで一度たりとも寝坊をしたことがなかったんだぞ。試合の高揚感が尾を引いて寝付けなかったときでさえ翌朝はいつも通りに起きることができた。本当なら目覚ましなどなくても五時半丁度に起きられる程度には体内時計は仕上がっている。それが一定の間隔で四十分近くも繰り返される音に気付かず寝入っていたのだから、自分でも少し驚いているんだが。俺にとってこの人生初の寝坊はそれなりに大ごとだ。
「別に後朝の歌なんざ求めちゃいねぇがな、」
「帰ってほしかったのか」
「帰らなかっただけ偉いだろ、てめえの場合」
「……」
さすがに俺も、抱くだけ抱いて夜のうちにそそくさと帰るほど時代錯誤ではないんだが。
「女相手にはもうちょっと気つかってやれよ」
「その発言は情緒を欠いていると思うが」
「はっ、鏡見て言えよ。ついでに顔も洗ってこい」
肩を小突くように差し出されたのは行方知らずになっていた眼鏡だった。やはり跡部の方に潜り込んでいたらしい。
「朝食を用意させておく」
「ああ、」
二枚のレンズを与えられてやっと視界がクリアになった。立ち上がりざまに見た跡部の顔には心なしか疲れが浮かんでいるようにも見えたが、その表情から嫌悪の情は見受けられなかった。嫌味のような言葉を投げてきた割に元から機嫌は悪くないのだろう。まさか本当に俺が帰らなかっただけで幸福を感じているわけではあるまい。
部屋に備え付けられた洗面所には昨夜も足を踏み入れた。もちろん、その奥に続くシャワールームにも。部屋の主がシャワールームと言うのでそれに倣ってはいるが、浴槽もしっかり設置されているしなんなら俺の家の風呂場より一回りは大きい。行為に及ぶ前と後、二度手をかけたその扉を見つめているとなぜか妙に落ち着かない気分になった。
こめかみのあたりがむず痒い。その痒さを払うようにがしがしと顔を強めに洗ったが、なんだかまだ痒いような気がする。
「何もついてはいない、な」
髪をかき上げ鏡に近寄ってみても異常は見られない。強く擦ったせいで僅かに赤みを帯びた肌と、見慣れた自分の顔がそこにあるだけだ。浮つきも疲れも見えない普段通りの自分の顔は、初めてできた恋人と初めて体を繋げた翌朝のものとは到底思えなかった。
昨夜のことはやけに鮮明に覚えている。他愛もないやり取りも触れた場所の感触もすべて、やけに生々しく詳細に。その上で何も感じなかったわけでも、何も感じていないわけでもない。確かに情は存在していたし、存在している。
そもそも俺は、自分で言うのもどうかと思うがテニス一辺倒の人間だ。テニスをするために、テニスのために生きている。そんな俺の歩む道には本来、こんな戯れも実を結ばない行為も必要がないはずだった。
一球でも多くのボールを追えたはずの時間を、一振りでも多くラケットを振れたはずの時間を、それでなくとも使い道はいくらでもあったはずの時間を一秒でも誰かに割くこと。それがどれほどの意味を持つのか、そこにどれほどの意味があるのかを、俺もあいつも十分に理解している。少なくとも俺は、どれほど見目麗しい女性を宛がわれたところでこんな行為に浸ることよりも自己の鍛錬を選ぶはずだ。
そういうことなのだろう。だからこそあいつは本気で俺を咎めることをしないし、その必要も感じていないのだと思う。
一つの境界線を越えた俺たちに特別な変化は起こらなかった。それは好ましいことではあっても、決して悲観することではない。『普通は』という名の尺度はすべてを測れるものではないのだ。
この先俺たちの何かが変わるようなことがあるとすれば、それは俺かあいつに、はたまた二人のテニスに何かがあったときなのだと思う。それでいい、それでよかったと思う。至上の喜びを共通とする相手だったからこそ、限りある時間を割くことを互いに許したのだ。
「おいいつまで顔洗ってんだ、もう朝食の準……」
「跡部」
「んだよ」
「食事をとったらコートを使ってもいいか」
いつの間にかそれなりの時間が過ぎていたらしい。痺れを切らして乗り込んできた男の顔を真正面から見たのは、今日起きてから初めてかもしれない。なんの変わりもない、昨日までも散々見てきた顔がバランスよく鍛えられた体の上に乗っている。
「……テメエと違って俺様は満身創痍なんだが」
「ならお前は休んでいるといい」
「あーん?やらねえとは言ってねぇだろ」
俺は一人で打ってくる、そんな言葉を吐く必要がないことはわかっていた。あれは体の造りに反した行為だ。受け手に回ったこいつにかかった負担がどれほどのものかは想像の域を出ないが、並みの苦痛ではないことくらいわかっている。マナーとして、常識として気遣ってやる必要があることも。だがそれも「普通は」という話だ、本人が求めていないのなら俺が必要以上の気を回す必要はないのだろう。
「ハンデが必要なら考えてやっても構わないが」
「寝言は寝て言いやがれ、それともお前だけもうひと眠りするか?」
ことそれが、ただ一球を追いかけ合う勝負の話なら尚更だ。疲れの色を薄く浮かべたおもてが不敵な笑みをつくり、こちらを射貫かんとばかりに向けられた瞳には闘志が滲んでいた。敵意さえ感じるこの視線を真正面から受けるのは、なかなかどうして悪くない。
「結構だ」
「ふん、ならとっとと代われよ」
「跡部、」
すれ違いかけた肩を掴む、自然と振り向いた跡部と視線が交わり再び向き合う形になった。少し変わった朝の、変わらないふたりの始まりに告げる言葉があるのを思い出したのだ。
「おはよう」
「……ああ。おはよう、手塚」