坂道の母 劉備が昔住んでいたアパートは高台に建っていて、駅から家までの間にそれなりの勾配がある坂を登らなければならなかった。
大学が近く若い人間の多い街だったため特別不便ということもなかったのだが、稀に老人が難儀していることがあり、人のいい劉備は荷物を持つなどの手助けをすることがままあった。
ある日劉備が自宅を目指してその坂を登っていると、上の方から若い女の声が聞こえてきた。
「たすけてくださーい」
顔を上げると、坂の上から引く人のいないベビーカーがガラガラと滑り落ちてくる。劉備は慌てて坂を駆け上がりベビーカーを受け止めた。
坂の上には女が立っていた。いかにも日除け目的の黒いキャペリンを被り、落ち着いたキャメルのシャツワンピースがふくらはぎの半ばまでを覆い隠している。
ベビーカーからは生き物の気配がしていたが、眠っているのか泣き声を上げることはなかった。シェードが降りているため中の様子は伺えない。母親らしき人の前で勝手にあちこち触るのも不躾に思えたので、劉備はシェードには触れぬまま、ベビーカーを押し上げて母親の元まで登って行った。
「ありがとーございます」
「いえ、無事で何よりです」
答えながら違和感を覚える。女の声がやけに冷淡に聞こえたのだ。
思い返せば助けを求める声も嫌に平坦で間伸びしていた。まるで台詞を読み上げているような。
──もしや、わざと手を離したのでは?
劉備の頭の片隅にいつか見た陰惨な事件の記事がよぎる。育児ノイローゼ、虐待、ネグレクト。帽子を目深に被った女の表情は伺えず、しかし茶色く染めた髪にも、ゆったりしたシルエットのワンピースにも不審な様子は見当たらない。
「……あの、すみませんが」迷ったが劉備は口を開いた。「お子さんを見せて頂いても?」
子供好きなんです、と付け加える。不自然だったかと心配したが、女は「いーですよ」と抑揚のない声で承諾した。劉備はそっとベビーカーのシェードに手をかけた。
寝かされていたのは首のない人形だった。
理解して、ドッと全身から汗が噴き出した。顔を上げられない劉備の頭上から、読み上げたような女の声が降ってくる。
「ほんものだった時もあったんですけどねぇ」
以来、引っ越しをするまで劉備はその道を避けて帰宅するようになったという。