昨日できた曲 札幌でのコンサートが無事に終わって本当に良かった。余韻に浸る間もなく打ち上げ会場へ移動して、挨拶やら記念撮影やらに駆り出され、少し疲れてしまったみたい。端っこの席に座って、会場をぼーっと眺めるのが楽しい。お皿に山盛りにした料理に舌鼓を打つ者、演奏について熱く語る者、何故か腕相撲をしている者たちなど、オケメンバーが思い思いに過ごしている。
あとまだ見かけてないのは、トラで参加してくれたあのひとだけかな。てっきりどこかの席でおなかを満たしているか、自分の世界に没頭しているんだと思っていたのに。
「朝日奈さん、もしかして笹塚のこと探してる? ごめん、先に帰らせた」
肩を叩かれて振り返ると、探していた笹塚さんの相方である仁科さんだった。
そっか、道理でどこにも見当たらないはずだ。
「ホントにごめんね。どうしても仕上げたい曲があるんだってさ」
「そうなんですね……お仕事じゃ仕方ないですね」
帰る前にもうちょっとお話がしたかったなあ、と言いかけてハッとする。いくらオケ加入を決めてくれたと言っても、ネオンフィッシュの活動や作曲の仕事に迷惑をかけるのは違うもんね。努めて笑顔で仁科さんにお礼を言うに留めておいた。
「こっちのスケジュール調整でき次第、なるべく早く横浜に顔出すけど……。朝日奈さんたちは明日帰るんだっけ?」
「はい。夕方の便で帰る予定です」
でもバスがあるから飛行機じゃなくてフェリーだと言うと、目を丸くされた。時間はかかるけど、見晴らしはいいし手足を伸ばして寝られるし結構楽しいのに。
「フェリーなら苫小牧かな。じゃあ昼間は時間ある? 一緒に笹塚んち行こうか」
「いいんですか? お邪魔じゃないです?」
思いがけないお誘いに思わず身を乗り出してしまった。今日明日会えなくたって横浜で待っていれば必ず会えるとわかっているのに。
「君なら大歓迎だよ。観光する時間なくなっちゃっても良ければ、だけど」
ぜひお願いします! と食い気味に返事してからの仁科さんの対応がすごかった。スマホで手早くフェリーの時間を調べたかと思うと、篠森先生と銀河くんにわたしの別行動の了解を取りつけ、待ち合わせの時間と場所をマインしてくれるまでわずか数分。普段もこんな風にネオンフィッシュの交渉事を行ってるんだろうな。
次の日、仁科さんと合流して、まずは食材の買い出しに行った。どうやら笹塚さんは徹夜明けらしいので、お昼ご飯を作っていればそのうち起きてくるだろうという計画だ。
笹塚さんのマンションへ到着すると、エントランス前で手を振っている人がいる。どうやら馴染みのバイク便らしい。
「いやあ、一応ベル鳴らしてみたけどやっぱり返事なくてさ。助かったよー。ハイこちらお届け物です」
バイク便のお兄さんが取り出したのはネオンフィッシュのロゴが印刷された紙袋が三つと、何やらもこもこしたものが入った大きめのビニール袋が一つ。なんだろうあれ。
「っと、なんだコレ? 朝日奈さんごめん、ちょっと頼めるかな」
何かわからない物を預かってしまった。ふわふわして軽い謎の物体。仁科さんも知らないってことは笹塚さんのなのかな。もしかしたら作曲のお仕事で使うのかも。
仁科さんに連れられて部屋へ入ると、リビングに笹塚さんの姿はなくて、どこからかコントラバスの音が聞こえてくるのに気付いた。何か曲を弾いているというよりは基礎練習のような音の往復。こんな風に練習しているのは初めて聴いたかも。
「まだ眠そうな音だね」
「え?」
「多分チャイムで起きたんじゃないかな。まだ十五分くらいって感じ。さっきのバイク便あんまり待たせてなかったみたいで安心したよ」
「……笹塚さんの起きた時間までわかるんですか?」
さすが仁科さん。あくまで経験上の推測だって謙遜するけど、笹塚さんのこと何でも把握してるのがすごい。言い方は変だけど同棲してる彼女みたい。
まだお昼の準備には早いということで、バイク便で届いた荷物を見せてもらえることになった。紙袋の中身は、ツアーグッズのサンプルなんだって。どうしよう、発売前どころか検討中の案を見られるなんて、ファンとしてはテンション上がりまくっちゃう。
ローテーブルに広げられていく色違いのTシャツやタオルなどのグッズは、どれもデザインが良くて目移りしてしまう。
「あっこれカワイイ! Tシャツなのに羽織りみたいなプリントなんですね」
「そうそう。胸ポケだけファスナー付きの本物なんだよ」
ファスナーを引いてポケットを開けてみると、本当に手が入る。深さも充分あるから思ったより機能性はあるみたいだけど。
「でも制服以外で使ったことないかも」
ポケットがあっても女子は何も入れない、特に胸ポケットだと服のシルエットが変わるから、と伝えるとすごく驚かれて逆にびっくりした。
「そうなの? 結構便利なのに」
それよりこの引き手のリボンが気になる。ネオンフィッシュのロゴが入ってるから、これだけカニカンか何かで取り外せるようにしたら、スマホとか鞄のファスナーとかに付けられて嬉しいな。
「へぇ、それいいね。聞いてみるよ」
仁科さんが細々とスマホのメモに書き込みしている。ただの一ファンの小娘の意見を貴重だと言って検討してくれようとするのが、社交辞令だとわかっていても嬉しいな。
「そしたら、こっちとこっち色味どう思う?」
「うーん、仁科さん髪色明るいからピンクよりはこっちの暗めの緑の方が似合うかなー?」
「でも買ってくれるのは女の子ばかりだよ? ピンク可愛くない?」
「可愛いけど、ファンなら同じの着たいですよー」
「そっか、そういう見方は新鮮だなぁ」
「……なにやってんの」
グッズの話で思いの外盛り上がっていると、いつの間にかリビングの入り口に笹塚さんが立っていた。まだ寝起きっぽい気だるげな感じがする。
「笹塚、おはよう。もう終わり?」
「ん…朝日奈の声聞こえたから」
お邪魔してます、と反射的に挨拶したけど。
確かコントラバスを弾いてたはずなのに、わたしの声が聞こえたって。そんなに騒いじゃってたかなあ。練習の邪魔になってたのなら申し訳ないな。
「ツアーグッズのサンプルが届いたから、朝日奈さんに意見貰ってたんだ」
「ふーん。なんか気になるのあった?」
笹塚さんが欠伸しながらわたしの隣にどっかりと腰を下ろした。どう見てもグッズには興味なさそうな感じなのに、一応話には乗ってくれるんだ。ホント仲いいねぇ。
そうだなあ、笹塚さんだったら。
「このTシャツ可愛いんですよ。笹塚さんは無地の方が似合いそう。こっちの黒だと間違いないですよね」
「確かに。今回は二色展開するらしいからバランスいいかも」
「なんでもいいよ。そういえば、あんた今日帰るんじゃなかった? なんでこんなとこで油売って……」
やっぱり興味ないんじゃん。と思ったところで隣からおなかがぐぅ~と鳴る音が聞こえた。笹塚さんてば徹夜明けなのに起き抜けに楽器の練習なんかするから。
「あっもうおなか減ってます? じゃあ先に下ごしらえしちゃいますね」
勝手知ったるキッチンへと向かい、お昼ご飯の支度を始めることにした。
***
「あいつ……何しに来たんだ?」
「ちょっと笹塚。そういう言い方はないんじゃない。お前が打ち上げ行かなかったからわざわざ会いに来てくれたんだよ」
「別に頼んでない。それに、オケの練習ですぐ会えるだろ」
まったく、余計なお世話だ。
俺に会いに来たんだと仁科は言うけど、別に用事があるわけじゃないんだろ。仁科とは楽しそうに話していたのに、俺とはひと言ふた言だけでどこかへ行ってしまったし。
「昨日の曲、できてるんだろ。早く彼女に聴かせたいんじゃないの」
「……余計なお世話だ」
ほらやっぱり。あれはまだ出来てるうちに入らない。まだ全然俺の音楽としては足りないものだらけだ。
でもそうだな、朝日奈の音があればまた違うかもしれないな。
「あのな。お前がまた朝日奈さんの手料理食べたいんじゃないかと思って、無理言って来てもらったんだけど? 帰ってもらおうか?」
朝日奈の手料理……。それは食べたいな。何を作ってくれるんだろう。
「仁科はメニュー知ってるのか」
「一緒に買い出し行ったからね。たぶんお前の好きなやつだと思うよ」
「なんだよそれ」
「気になるなら見に行けば?」
なんだよそれ。
朝日奈と一緒に演奏する、朝日奈と音楽の話をする、朝日奈が部屋にいる、朝日奈の笑い声がする、そんなことが日常になりかけていた。目覚めたら朝日奈がいた時は、夢と現実の区別が曖昧で不思議な感覚に陥ったが、意外と気持ちが落ち着いたのを覚えている。仁科とは違う種類の居心地の良さがどこから来るのか、考えてみたが答えは出なかった。曲はできた。
朝日奈がうちのキッチンで料理をしている。最近加わった光景。曲ができた。そんなことが日常になるなんて誰が予想した? これ以上俺にどうしろって言うんだ。
「朝日奈」
「はい?」
キッチンの入り口から覗いて声をかけるが、朝日奈は作業の手を止めない。包丁を使っているから当然だ。だがこっちを向かせくなった。
「腹減った」
やっと振り返って俺を見た朝日奈が突然吹き出す。なんで?
「んもー、学校帰りの小学生じゃないんですから。ちょっと待っててください」
何がツボにはまったのか朝日奈がケラケラ笑っている。面白い音階だ。
いや、今はそれより。
「今日は何作ってくれんの?」
「たぶん笹塚さんの好きなやつですよ」
「それ仁科にも言われた。勿体ぶらずに教えろよ」
しょうがないなぁ、と言いながら朝日奈の顔がニコニコと更に緩む。可愛い。
…ん? 今のは何だ? また曲ができそうな感じ。
「メインは唐揚げですよ。寮母さんに冷めてもおいしいレシピ送ってもらったので。いっぱい作っときますね」
「ああ、唐揚げは好きだな」
そうだ、好きだ。これはわかる。
「だと思いました。北海道だとザンギっていうんでしたっけ」
「そうも言うな。あんた、割と料理し慣れてるみたいだけど何で?」
なんとなく上の空で言葉を紡ぐ自分がいる。別に知りたい事でもないのに何を聞いてるんだか。
「そうですか? 寮母さんのご飯ない時にたまに作るくらいですよ?」
「寮?」
「菩提樹寮っていって」
朝日奈と九条に成宮が元々住んでいたのに加えて、何名かのスタオケメンバーが単位交換制度を利用して星奏に来ている間、滞在先として利用しているらしい。そういえば横浜での活動について仁科とまだ何も話してなかった。まあいいか。
「部屋まだある?」
「あー…たぶん? って、いいんですか?」
「何が?」
「結構古い……というかボロいですよ? こんな広くないし練習室以外防音でもないです」
「問題ない。あんたの顔いつでも見られるなら」
「へ⁈」
自分で何を言ってるのか分からなくなってきた。朝日奈もびっくりしてるじゃないか。建物が古い件は多少工夫すれば使えるようにはなるだろう。試してみたいこともあるし。面白くなってきた。
「あとで間取りと部屋の内寸教えて」
「はぁ……ないすん、ですか?」
要求した内容が伝わっていなさそうな顔。仁科相手じゃないんだ、具体的に、最小限で。
「壁と窓の大きさが分かればいい」
「んー、よくわかんないけど、帰ったら測ってみますね」
まだ首をひねって何か呟いていたが、朝日奈が作業に戻った。トントンと包丁の音が小気味いい。菜箸の擦れあう音、何かを洗う水の音。いいリズムだ。またサンプリングしようか、それを曲に。いや違う。
「朝日奈。このあと時間ある?」
「あ、はい。夕方の便なので大丈夫ですけど」
「タイムリミットは?」
「ええと、余裕もって十六時半には出るって仁科さんが言ってました」
仁科が送っていくのか。なら充分時間が取れそうだ。
「弾いてほしい曲できた」
「え? わたしですか? 仁科さんじゃなくて?」
「あんたの音で書いたから」
「書いた……って、もしかして昨日の?」
「ああ」
コンサートが始まる前、演奏中、終演後、所構わず溢れてくる音の洪水にいてもたってもいられなかった。世界一のオーケストラという夢に乗ると告げた途端、すとんと落ちてきたそれを夜通しかけて書き上げた。
はやく音が聴きたい。あんたの音で聴かせてくれ。目の前に本人が居ると気が急いてしまう。
「それ、あと何分くらい?」
「あ、お腹すいてるんでしたよね。でも唐揚げはまだですよ。三〇分くらい漬け込みます」
それなら丁度いい。待ち時間を利用しない手はない。朝日奈がちょうど手を洗い終えたタイミングで腕をつかむ。
「じゃあ来て」
「え? いやそれ弾きたいですけどまだ途中だし…って笹塚さん⁈ ちょっと待って、片付けますから!」
半ば強引に引き寄せかけたが、確かに食材をこのままにするのはマズい。仕方なく朝日奈の手を解放した。腹も減っているが優先順位は下だ。
「笹塚さん、ごはんの時間遅くなりますけどいいですか?」
「いい。先にあんたの音が欲しい」
朝日奈が、じゃあしょうがないですね、とまた笑う。手を伸ばせばそこにある。大丈夫。
調理台を手早く片付けエプロンを外した朝日奈の、その手を再び取る。水を触って冷たくなった手。そうか、最初に顔を見たときすぐに弾いて欲しいと言えば良かったんだ。手を握ったまま黙り込んでしまった俺を朝日奈がきょとんと見つめてくる。
「もう大丈夫ですよ?」
「ああ、頼む」
手を繋いだまま作業部屋へ向かう。なんか変な感じだ。ふたりとも無言で。
部屋に入ろうとしたところで朝日奈が急に立ち止まった。
「あ! 楽器取ってこなくちゃ」
「その必要ないみたいだけど」
「えっ、でも」
「ほらあれ」
指さした先、作業部屋のデスクの横に朝日奈のヴァイオリンケースがあった。
「あれ? なんで?」
「多分仁科だ」
「……やっぱり仁科さん、エスパーなのでは?」
「かもな」
アウトプットしておいた楽譜を譜読みしている朝日奈の様子がおかしい。妙にそわそわして俺の方をちらちら見てくる。もう何か気付いたか。
「どうした、そんな難しいフレーズでもないだろ」
「いえ、そうじゃなくて。あの。これ、なんですか?」
「何って、昨日できた曲」
「そうなんですけど。何ていうか、すごく、その、甘い感じがして」
「そうだな」
「は? えっと、自覚あるんですね。あの、これはどうしたら?」
「弾いて」
「でもこれって……。変なこと聞きますけど。笹塚さん、もしかして私のこと好きですか?」
「まだよくわからない。でも弾くのは朝日奈。あんただから」
「え、それってつまり…。ちょっとそれ、ずるくないですか⁈」
「いいだろ、作曲家の特権。あんたこそ、俺のこと好きなのか?」
「もう! 私だってわかりませんよそんなの!」
これは朝日奈に弾かせるために作った曲だから。あんたがどんな風に弾いてくれるか、じっくり聴かせてもらおうか。