違和感の正体 笹塚さんとはどうも距離感がおかしい気がする。
札幌から戻った日、朔夜にそのことを相談したら「君がそれを言うのか」って呆れた顔で言われてしまった。
確かに朔夜とだって銀河くん、じゃないや、一ノ瀬先生とだって他のひとより断然近いのは自覚してる。朔夜とは学年もクラスも同じだしお互い寮生だしおまけに楽器も一緒だから、自然と一緒にいることが多くなる。一ノ瀬先生とはブランクあったとはいえ子供の頃からの長いつきあいだから、ふたりとも当然と言えば当然だと思う。
でも笹塚さんはそういうのじゃない。
いま思えば、初対面であんな厳しいことを言われて近寄り難いはずなのに。何故だか気になって放っておけなくて、ついアジトへ顔を出すようになって。何でも録音しようとするのには少し困ったけど、見たこともない楽しそうな顔をするのがだんだん面白くなってきて。それがいつの間にか居心地が良くなってた。
音楽の話をするときの笹塚さんはいつも真っ直ぐで、射抜かれたみたいに緊張することもある。曲の解釈だけじゃなくて、ボウイングや姿勢も含めて指摘は的確だし隙がない。でもそれに従うと格段に演奏が良くなるのがわかったから、悔しいけど、すごく嬉しい。
だから自然と距離が近くなるのも気にならなかった。わたしの楽譜を覗き込んでは勝手に書き込みするし、姿勢を直すのに肩とか腕とか遠慮なしに触ってくるのにも慣れた。並んで一緒に録音を聞いたり参考動画を見て話し込んだりしていて、途中でふたりともウトウトしちゃって仁科さんに起こされたこともあったっけ。あれはびっくりしたなあ。
ああダメダメ、余計な考えごとなんてしてる場合じゃない。この課題をはやくやっつけないといけないのに。
合奏練習を終えて、部屋に戻ってひと息ついて思い出したのは、まだ終わってない数学の課題のこと。スタオケの遠征で授業を抜けると補講があるわけだけど、足りなければこんな風に課題も出る。提出期限は緩めとはいえ、流石にそろそろ出さないとヤバい。
でも、昨日の笹塚さんのあれは何だったんだろう。わたしは曲の解釈を深めたくていつもみたいに質問しただけなのに。匂いがどうとか意味のわからないことを言われて、それから──。ああもう、思い出しただけでまたドキドキしてしまう。
仁科さんの機転? のおかげでどうにか平静を装うことができたけど、もしあのままふたりきりだったら、と思うとまた顔が熱くなってくる。
あーやっぱりだめ。これはわたしの悪い癖だって自覚はあるけど、一番苦手なのを最後に残したりするからだよ。集中してやればそんなに時間はかからないはずなのに、部屋にひとりで居たらすぐあの事に頭を取られてしまいそうになる。こんな調子ではいつまでたっても課題が終わらないので、オケのみんながいるところ、ラウンジで取り組むことに決めた。
夕食後、端っこの席を陣取って課題のプリントを広げていると、飲み物を取りに来たらしい朔夜が通りかかった。まだ何も言ってないのに、これ見ただけで途端に嫌な顔するのどうかと思う。
「朝日奈……。まだそれ提出してなかったのか。言っておくけど俺は手伝わないからな」
「わかってますよぉ。なるべく自力で頑張るけど、でも今回の範囲って数列でしょう。ここ一番苦手なんだもん。ねえ、どうしてもダメそうだったらマインしてもいい?」
「はあ、仕方ないな。一問だけなら」
「やった! 神様仏様朔夜様!」
おでこの前で両手を合わせて拝むみたいにすると、盛大なため息とともにゲンコツが降ってきた。軽く、あくまで軽くコツンとされただけだけど。
「調子に乗るな。無駄口叩いてる暇があったらさっさとやる」
「はーい、がんばりまーす」
嫌な顔をしつつも、本当に困ったら最終的には面倒を見てくれる朔夜が大好きだ。最後の砦は確保したので、何とか出来るところまでは頑張ろう。
問題文を読んで数式を書いて答えを導き出す、それを繰り返すこと数十分。当初の予定より順調に進んでいると思っていたのに、どうしても数式の解がそれらしい数字にならない問題にぶち当たった。計算は間違ってないはずなのに、出てきた答えに違和感しかない。首をかしげてみても斜めに読んでみても逆さまにしても間違ってる気しかしない。
どうしよう。諦めて朔夜にマインするかどうか迷うところだ。でも一問だけって言ってたしな。もっと難しいのが出てきたら困るな。
「あんた、この時間に宿題やるんだ」
急に頭の上から低い声が降ってきてびっくりして見上げると、至近距離に笹塚さんの顔があってまたびっくりして、喉の奥がキュって閉まる感じがした。
すっかり失念していたけど、笹塚さんが、菩提樹寮にいる。ラウンジにいたら顔を合わせる可能性があるのは当たり前なのに、なんでここで課題しようと思ったんだろう。
「…暇なんだな。つきあって」
ちょうど手が止まってたからかもしれないけど、宿題ってヒマだからやるものじゃないよね。笹塚さんてたまに変なこと言う。というより、予想もしない明後日の方向から、っていう表現が的を射ているのかもしれない。やっぱり変なひとかも。そう思ったらちょっと可笑しくなって、ふうっと小さく息を吐いたらちゃんと声が出た。
「ヒマだからやってるんじゃないです。これ、そろそろ片付けとかないと練習に集中出来ないので」
「ふうん。じゃ、それ終わったら暇になる? ていうか間違ってるな」
「えっ、どこですか」
やっぱり間違ってるのは間違いないらしい。あれ、わたしってばなに言ってるんだろう。日本語までおかしくなってきた。
「二つ目の数式、要素が足りないんじゃないか」
後ろからぬっと伸びてきた手にペンを掠め取られてしまった。そのまま背もたれに体重をかけるみたいにして肩越しに腕を伸ばしてくる。うわわ近い近い近いですって。広げてあったノートにすらすらと数式を書き連ねていくのが視界の隅に見えるけど、見上げた時より更に顔が近くてそっちを向けない。
「ほら、この値はここに代入しないと意味がない」
「あ、えーと、そう……ですね」
「あんたさ、答えを出すための計算しかしてないから間違うんだ。過程を飛ばさず順番になぞっていけば自動的に解が出る。数学ってそういうもんだろ……おい、聞いてるか?」
聞いてるけど理解できるほど余裕がないのは、笹塚さんがそんな至近距離で顔を覗き込んでくるからですよ!
そう言いたいけど言えない。こくこくと壊れた人形みたいに頷くことしかできない。
「あとは設問をよく読んで。譜読みするみたいにじっくり読めば、何が必要なのかどう組み立てればいいか、全部書いてある。ヴァイオリン弾くときも同じじゃないの」
「……それ、同じっていうの笹塚さんだけだと思う」
「そうか? 数式と旋律ってどっちも整然として美しくて生きてる感じがするところとか、似てると思うけどな」
笹塚さんはいつの間にか隣に座っていて、テーブルに肘をついてわたしの方を見ながら、また常人には理解しがたいことを口にしている。やっぱり変なひとだ。この人の頭の中がどうなっているのか見てみたいけど知るのが怖い気もする。
「まあ、あんたの場合は小難しいこと考えるんじゃなく、感じたまま気持ち良く弾ければそれが一番あんたらしくていいんじゃないか」
「わたしのこと、能天気でバカだと思ってませんか」
「どうだろうな」
否定しないんだ。でも全然悪口を言われている感じがしないのは、音楽の話をしているときの笹塚さんは嘘を言わないってもう知ってるから。彼の中では全部繋がっていて全部本当で、その中にオケのことはもちろん、わたしのヴァイオリンも入っているのが何だか嬉しい。
つい口元が緩みそうになるのを我慢して、残りの問題を片付けるのに集中する。
「できたー!」
「課題、片付いたか。お疲れ」
「笹塚さんが見てくれたおかげです。ありがとうございました」
「礼を言われるようなことはしてない。あんたが暇になるの待ってただけ。終わったんならつきあって」
そういえば、さっき来た時も何か言いかけてた気がする。付き合うって、なにか約束してたっけ。
「あ、はい、なんですか?」
「塔の使用許可とってある。五分後でいいか」
楽器持って練習室に来いってことなのかな。笹塚さんのおかげで課題早く終わったし、まだ時間もそんなに遅くない。また音を合わせてもらえるなら願ったり叶ったりだ。
「わかりました、部屋戻って楽器取ってきますね」