まぶしい音『それでね、今日────』
電話の向こうの朝日奈の声が耳に心地いい。
札幌と横浜、離れて過ごす日があると、小一時間ほど通話するのが日課になっている。最初はどちらからともなくかけ合っていたのが、最近は、もうあとは寝るだけの状態になった朝日奈がかけてくる、というのが定番になってきた。
通話の途中で寝落ちて風邪でもひかれたら困るというのが当初の理由だったが、何より布団の中で話している時の、眠気に負けそうなふんわりした声のトーンが堪らない。
『────。で、どっちがいいと思います?』
「ん……なに?」
『もう、また聞いてなかったでしょ』
俺にとっては話の内容はどうでもよかった。朝日奈の声を聞いているだけで気分が晴れるし、何故か曲の構想もまとまってくる。雑音も雑念もいつの間にかシャットアウトされ、朝日奈の声しか感じられなくなっているのに、断片的な言葉しか意味を成して聞こえないのが不思議だ。
俺があまりに生返事を返すものだから、何度も前に言いましたよね、と詰られたことがあった。ほとんど話の内容が耳に入っていないことを正直に言ったら、私はBGMでもASMRでもないんだけどなと呆れられた。
朝日奈の方は何か話せばストレス解消になるらしいし、俺はただ声が聞ければ満足なので、ちょうど利害は一致してると思うんだが。それではダメらしい。女ってのは難しいな。
でも毎回いつも何もかも右から左という訳でもない。今日のは確か、連休中に入れていた短期バイトがひとつキャンセルになったとか何とか。
「連休の後半、ヒマになったんならこっち来れば。ちょうど桜も満開だし」
『えっ⁈ まだ咲いてるんですか?』
「ああ、いつも今頃。花見の計画が雨で流れたってあんた騒いでたろ。今年はここで見ればいい」
『あーっそれいいですね、行きたいなぁ。桜も見たいけど、』
何かを言い淀んだあと、ごそごそと衣擦れの音がしたと思ったら、声の温度が変わった。
『……笹塚さんに逢いたいな』
「俺も」
朝日奈に逢いたい。触れたい。キスしたい。ほんの数日前に、ふたりきりで誕生日を祝ってもらったばかりなのに。逢いたい、と口に出せばもう電話の声だけじゃ物足りない。
『……いま、やらしいこと考えたでしょ』
「考えた。そう言うあんたもじゃないの? ああこれ、もう最終便でいいよな」
『わたしはそんなのっ、……あっ、え? 最終って? ちょっと待って』
慌てる朝日奈の声の後ろで、ピコンと着信音が鳴った。
「じゃあ待ってる。おやすみ」
ゴールデンウィーク期間も残りあとわずかとなった日の早朝。
ゆうべは深夜に到着する朝日奈を迎えに出て、そのまま空港内の温泉施設に泊まった。立地と手ごろな価格で結構人気の施設らしいのに、祝日としては最終日だからか、たまたま予約が取れた。移動の必要がない分、ふたりの時間をたっぷり過ごすことができた。
早起きして電車に乗り、農試公園に向かう。早朝のしんと張りつめた空気が気持ちいい。少し肌寒く感じるが、最寄り駅からは少し距離があるので動いていれば体も温まってくるだろうし、他愛もないことを話しながら歩くのもなかなか楽しいものだ。
こういう時は電話と違って、声を聞くよりくるくる変わる表情を見ているのがいい。どれも魅力的だが、何かに夢中になっている朝日奈を眺めていると、自然と新しい音が生まれて勝手に頭の中で響き始める。まあどちらにしても話の内容が入ってこないのに変わりはないんだけど。
緩やかなカーブの先に桜並木が見えてくると、絡めた指をすり抜けて朝日奈が駆け出した。
「笹塚さん。こっちこっち、はやく来て」
ぴょんぴょん跳ねてぶんぶん手を振って。朝日奈の動きに合わせて頭の中で音の粒が弾けて飛び回る。そんなに慌てなくても桜も俺も逃げないのに。
「ほら見て、桜のトンネルみたい! すごく綺麗、ふふっ」
一面の薄紅色の景色の中、両手を広げてくるりと回ってみせる。ふわりとした生地のスカートが風に揺れて軽やかに踊る。さっき生まれたばかりの音は、今度は転調を始め新しい響きを纏って楽しげに広がっていく。
満開の桜も美しいとは思うけど、いまは目の前のキラキラした笑顔が一層眩しくて目が離せない。鳴っている音からもそれを感じるほどに。
「……あんたの方がよっぽど」
ぽつりと出た言葉は、さあっと吹き抜けた風にかき消された。
突然の風にスカートを押さえている朝日奈の姿が一瞬、桜吹雪に呑まれたように見えなくなり、何故か同時に音が……消えた。
ダメだ、それは俺のものだ。連れて行かないでくれ。
「えっ? いま何か言いました?」
思わず伸ばした手の先には、すぐ目の前できょとんと見上げてくる朝日奈がいる。いまのは何だ。幻でも見たのだろうか。
「いや、なんでもない。ここ、花びら引っかかってる」
差し伸べた手を誤魔化すように髪からひとひらを摘みとり、そっと風に流すと、さっき消えてしまった音があぶくのように浮かび上がってきた。ああ、取り戻せた。
「笹塚さんこそ、花びらまみれになってますよ」
くすくす笑いながら、取ってあげますからしゃがんで、と言われ頭を差し出すと数枚がひらひら舞い落ちるのが見えた。試しにふるふると頭を振ってみるとまたひらり。
「やだちょっと、髪に埋もれちゃうから動かないで」
「別にいいよ。あんたにくっついてなきゃ、それでいい」
顔をあげて愛しい女にそっと口づけを贈る。誰もいない早朝の公園で、こんなにまぶしい音を奏でられるのはあんたとだけだ。
この手の中からいなくならないように、キュッと指を絡めると、朝日奈の頬がほんのりさくら色に染まった。