夏の呼び声 今日は正しくうだるような暑さであった。容赦なく照り付ける太陽に加え、昨日の夕立の所為か此処のところでも一段と湿気がきつい。
室生はしゃがんだ体勢で鎌を持ったまま、腕で額から流れる汗を拭った。紺の作務衣に軍手、農作業用の長靴、つばの広い麦わら帽子、首にかけた手ぬぐいが今の装備だった。この身を造った錬金術師から勧められた日焼け止めは既に流れ落ちてしまっているだろう。
太陽と土の恵みを受けて、室生が作庭した図書館の庭の一画も雑草がぐいぐいと伸びていた。なるべく小まめに手を入れてはいるが、それでも彼らの生命力は目を瞠るものがあった。久しぶりで潜書の任務が無いのをいいことに朝食後から草取りを始めてみたが、この分では明日に持ち越しだった。日はずいぶん高く上がってしまった。じきに昼餉の声がかかるだろう。一度立ち上がって疲弊した腰を拳で軽く叩いた。それでも綺麗になった辺りを見ると、なかなか達成感がある。
一息吐いたその時ようやく、室生は大音声の蝉の声に周りを囲まれていることに気が付いた。いんいんと響く余韻すら許さずに、彼らは声を上げ続けていた。このエネルギーを体の内に回せば七日といわれる短い命も延びるのではないかと思わせるほど、強く。
ふらふらと室生は木陰に歩いて行った。
耳が痛くなるような生命を燃やす声。
鮮やかな青空と白い入道雲の美しいコントラスト。
季節を象徴する、丈高い大輪の黄色の花。
強い日差しを受け止める木々の濃い緑。
その光とは裏表の黒い影が、洋館に付きまとっている。
際限なく降る夏の音。
そうだ、もうすぐ誕生日だ。
辿り着いた木に寄りかかりながら脈絡もなく室生は思った。
此処では誰かの誕生日には、たっぷりの生クリームに苺の乗ったケーキが振舞われる。赤飯でないのは時代だろうか。
きっとたぶん、朔が贈り物をくれる。もしかしたら白さんやシゲも。そんな風景を先の秋から見てきたし、参加してきた。
それが過ぎたら、迎えて、そして送って。
何度も何度も踏み越えてきた、年に一度の決まり事を行うのだ。
蝉の声、蝉の声。
「さい」
やっと、違う音が鼓膜に響いた。
見ると白いポロシャツに膝丈のズボン、それから黒いリボンを巻いた洒落た麦わら帽子をかぶった萩原が、サンダル履きの軽快な様子で近付いてくる。
「犀、そろそろお昼だよ」
休んでいる室生に近付くなり彼は顔を顰めた。
「酷い顔色だよ、犀。歩ける?」
萩原の問いかけに大丈夫、と答えて一歩踏み出した。
結局、室生は萩原の肩を借りて館内に戻り、そのまま医務室送りになった。何とも言えない味の水を飲まされ、ベッドに寝かされた。おまけに額に冷却シートを張り付けられる。軽い熱中症だそうだった。
「庭仕事はいいが、今日のような日は特に体調に気をつけなさい」
林太郎先生からいただいたお小言をありがたく頂戴して目を閉じる。この部屋の冷房はよく効いているが、まだ頭にはあの響きが揺蕩っていた。
充分に休んで森の太鼓判を貰って、室生は礼を言って医務室を出た。
「今は皆食堂にいるようだ。先日館長が出張先から送ってくれた西瓜を出しているそうでな、君も食べてくるといい」
「先生は」と問うと、「ここが空になったから私も後から行こう」と白衣の人は微笑んだ。
言われた通りに食堂に向かうと、確かに図書館のあらかたの面々が揃っているようだった。北原は若山と高村、石川とテーブルを囲んでいた。汁気たっぷりのスイカに機嫌が良さそうに談笑している。中野と小林、徳永のテーブルには中心にちょっとした山が作られていた。ワイワイと騒がしいテーブルは無頼派と中原だ。塩だの例の調味料だの騒いでいるのを織田がまあまあと場を収めようとしている。
目当ての萩原は、シミを作らないようナプキンを首に巻いて三好や堀と同席していた。彼らの四人掛けのテーブルを目指す。「此処いいか」と言わずと知れた了解を貰って、もうすっかり良い旨を話した。「びっくりしたよ」と萩原に言われ、「自己管理がなってないッス」と遠慮なく指摘する三好に「森先生にも言われたから勘弁してくれ」と些かムッとして返す。
「室生さん、お腹空いていませんか」
やり取りに苦笑いしていた堀に聞かれ、改めて腹具合を考える。なんとなくしっかりした食事は喉を通る気がしない。
「今は西瓜でいいや。ありがとう、たっちゃんこ」
大皿に切り分けられたスイカに手を伸ばして取り皿に乗せる。萩原がスプーンで慎重に種を取り除いているのを横目に、かぶり付いた赤い果肉は爽やかに甘かった。
間食の時間を終えて室生は住居棟に足を向けた。
食堂で姿を見かけなかった者が気になったのだ。もしや彼は自分の部屋で塞いでいるのではないだろうか。知らず急いた足で辿り着いたドアをノックしても返事はなかった。逡巡した末、そっとノブを回してみると鍵は掛かっていなかった。
部屋はもぬけの殻だった。
文机の上には書きかけの原稿の束に文鎮が載せて置かれており、その周りには図書室から持ち出したのだろう本が峰を作っている。窓は開けっぱなしで、衣文掛けにはいつもの着流しと季節外れの外套があった。司書おすすめの簀の子ベッドには帯やらベルトやらが散散乱している。
冷房を止めて久しい部屋の気温は高いのだろう、じわじわと汗が染み出てきた。風などちっとも入らないのに、鳴く虫の気配ばかり遠慮なく侵入してくる。
「室生?」
振り返ると廊下には半袖のシャツに細身のズボンを履いた菊池が立っていた。
「龍なら漱石先生と出かけているぞ。評判のかき氷を食べにいくんだと。昼前に、雑誌を見ていた先生が急に思い立ってな」
その口から芥川の動向を聞いて、膨らんでいた不安が萎んでいくのを感じた。
「なら、いいんだ。ただ顔が見たかっただけだから」
「そうか」
と菊池は頷き、窓開けっ放しじゃねえかとずかずかと部屋に入る。
「ありがたいことだよな。こんな日は特に」
ぴしゃりと窓を閉めて横髪を掻き上げながら、菊池は主がいない部屋のカレンダーに目をやった。
日が傾く頃には武者小路の畑の収穫の手伝いに入った。夕餉の副菜になるだろう、トウモロコシやトマトやキュウリを籠いっぱいに収穫して厨房へ運んだ。それから食事までの短い時間を自室で休む。何とはなしに手に入れたばかりの金魚鉢を見た。朱い金魚が一匹、ぴちぴちと尾を振り泳いでいる。飽かず眺めていると、ドアをノックされた。「どうぞ」と上の空で返事をする。
「今戻ったよ」
顔を覗かせたのは芥川だった。夏の単衣に灰青色の袴をつけ、髪もいつもより丁寧に梳き纏めていた。
「犀星、庭いじり中に倒れたんだって?」
何処からか聞いてきたらしい。
「倒れてない。ちょっと気分が悪くなって医務室で休んだだけだ」
お邪魔するよとスリッパを脱いで上がってきた彼に、自分が座っているのと同じ円座を勧める。
「まあまあ。お土産があるよ、水羊羹」
正座でそこに収まった彼の傍らには小さめの紙手提げがあった。
「いいのか?」
「もちろん。寛には牛肉の佃煮、それからみんなに鈴カステラもあるし」
気前よく差し出された和菓子屋の包みを礼を言って受け取った。
「今日は先生と鰻を食べて、それから寄席を見るのを挟んで、かき氷を食べに行ったんだ。フワフワしていて雪みたいだったよ。練乳で味がついていて、果物がたくさん乗っていてね」
かき氷と言っても図書館内で手回しのかき氷器で作る、色鮮やかなシロップを雑にかけたものとはまったくの別物らしい。それでも少年姿の者たちが貴重な涼味に群がっているのは微笑ましい光景であることに変わりはないが。
「美味かったみたいで何よりだけど、鰻に氷ってソレ、腹は大丈夫なのか」
油の強いものに冷たいものは如何にも食い合わせが悪そうだ。食の摂取に関してはいまいち信用ならない師弟である。
「平気平気。君こそ、もういいのかい」
「蝉の声がうるさくて気が滅入っただけだから。こうなると全部志賀さんが食べてくれればいいのにな」
「それはちょっとどうかな。いくら志賀さんでも流石に食べきれそうにないよ」
雑な提案に苦笑する、よそ行き姿の彼は実に清々しい男ぶりだった。
「お前と夏目先生が一緒なら、さぞ街の人の目を集めたんだろうな」
見目良い壮年の紳士と長身の美男子が連れ立って歩いている光景を思い浮かべる。
「自慢の弟子だって言われたよ」
室生の軽口に芥川は意味深長な笑みを浮かべていた。
目で存在を確かめて、声を聞いた。今度は触って確かめたくなった。
「芥川、ちょっといいか」
「うん?」
何をするのか分かってない様子の彼の顔に手を伸ばす。それでも抗わず、目も閉じずにいてくれる彼の顔をペタペタと触れた。汗をかいたあとの少し湿った肌だった。
日中の盛大な勢いとは打って変わって、物悲し気に蜩が謳っている。人の哀愁を呼び覚ますような唄だ。
その声がひととき途切れたところで、そっと手を離した。
「……気が済んだ?」
彼も、彼らも、此処にいる。
迎えの準備をしなくても。ちゃんと実体を伴って。
「ああ」
名残惜しさに彼の顔のすぐ近くにある左手を、言い聞かせて引っ込めようとした。けれど、そうするよりも早く、芥川に捉まってもう一度彼の頬に当てがわされる。
「君は甘やかすのは得意だけど、甘えるのは下手だよね。満足なんてしていやしないくせに」
そう言って、眉をひそめながら微かに口角を上げた。手首を掴んでいる掌が熱いぐらいの体温を伝えている。
「目を見ればわかるよ」
「本当は、逆じゃないといけないだろう」
室生の意地や遠慮を溶かすように彼はそっと囁いた。
「いいんだ。僕は先生に甘えて来たから」
躊躇いながらもう一度、右手をゆるゆると伸ばした。秘め事のようにその長い前髪を梳く。気を良くしたのか、芥川は目を細めた。
「犀星」
何か言いかけた時、誰かが廊下をバタバタとにぎやかに通り過ぎていく。締め切っていなかったドアの隙間から無遠慮に音が届いた。
「ああ、そろそろ夕餉か。俺達も行くか」
「……僕、そんなにお腹減っていないんだけど」
「俺は減ってる。昼、食べ損ねたからな」
それじゃ僕は部屋に戻ろうかな、と芥川は嘯いた。
「そう言うなよ。今日は流しそうめんをやるんだって、宮沢くんや新美くん達が張り切って準備したんだ」
「青い麺が流れて来そうなのが嫌だなあ。そんなの流れてきたら犀星にとってあげるよ」
「どうせなら俺より朔にとってやってくれ」
あの不器用な親友は今日の夕食に対応できるのだろうか。そう思い至ると彼らが設置した流し台のある中庭に向かわなくてはと、早速立ち上がって部屋の出口に足を向けた。廊下に出た室生の後を仕方なさそうに芥川がついてくる。
あんなに離れ難かったのがいつの間にか平気になっていた。やっと日常の感覚が戻ってきたようだ。
「そうだ」
室生は立ち止まって振り返った。煙草を吸う隙を与えらえず口寂しそうにしていた彼は、目をぱちくりさせてこちらを見た。
「おかえり、芥川」