赤いひれ 萩原はドアを開けるなりげんなりしてしまった。
朝食の時間を過ぎて潜書までの時間、まんじりと自室でマンドリンの弦を弾いて寛いでいるときだった。
訪ねてきた今日初めて見る親友は、友人に伴われていた。ただ共に来たのなら良かったのだ。とりあえず二人を部屋に迎え入れる。
「朔くん、お邪魔するよ」
何故か親友は友人に抱きかかえられ、小柄な体はすっぽり彼の腕の中だった。それが親友の意志によることが、友人の首に回された腕で示されている。
午前中から何なのだ。芥川の脂下がった目尻が苛立たしい。昨夜はお楽しみでしたね、的なアレなのか。それを自分の部屋で展開するとはいったいどんなプレイだ。
二人の間のことに口出しするほどもう青くはないつもりだが、足腰立たない程とか良くない、絶対良くないよ、犀! と、茫然とした状態から詰め寄ろうと立ち直った。
その時視界の端に、ひらりと赤いものがちらついた。室生のいつもの履きものかと思ったが、それよりもオレンジ掛かって透き通った色だった。ひらひらと彼の足の先で揺れているのは、金魚の尾びれのように見えた。
「朔」
萩原の視線に気付いた室生が心底困ったといった顔を向けて来る。
「どうしたの、それ」
「朝起きたらこんなになってたんだ。それで司書に診てもらっていたんが、彼にもよく分からないようなんだ」
そう言ってゆらゆら揺らして見せた。繊細な骨に張られたぬめりを帯びた赤い皮は、光をキラキラと照り返し、光沢のある薄絹のように優美に見せていた。
「命に別状はないだろうとは言っていたよ。変化も急だったし、戻るのも突然かもしれないね。希望的観測だけれど」
芥川が付け加える。
「これじゃ庭づくりも出来ないし、猫を構いにも行けやしない」
「そうだね。今の犀星だったら食べられてしまうかもね」
不満顔の室生ににこにこと芥川が言った。
「猫より先に、龍くんが煮付けにして食べちゃうんじゃないの」
「朔くん、それはいい考えだ!」
軽い一撃に芥川は花が咲くように顔を綻ばせた。思わぬ反応に萩原の顔が引き攣る。その顔のまま、語気荒く核心をぶつけた。
「小説なんか書くからだよ」
「やっぱりそれなのか」
室生は重い溜息を吐いた。
「とはいえそれは前からの事だし、何か心当たりでもあるの」
「……あると言えばある」
「ちょっと台詞をなぞってみただけだよ。もっともその時は僕が金魚の台詞だったけど」
一体二人で何をやっていたのか、疑問ではあるが藪をつつくのは御免だ。
「犀は詩人なんだから、小説は書かない方がいいよ」
萩原は持論だけを伝えた。室生が苦い表情で押し黙る。三人の間に沈黙が落ちた中、芥川が口を開いた。
「朔くんは、此処に来てから犀星の小説を読んだんだね」
金魚の少女の話は、『萩原朔太郎』が読むことは決してなかった小説だ。彼がいなくなったあとに書かれたものなのだから。
芥川の言葉に元気づけられたのか、室生の顔がパッと明るく染まる。
「朔は昔から口ではそう言ってても、読んでいてくれたもんな!」
寄り添う二人の暖かな、微笑ましいものに向けるかのような視線が痛い。なんでこんな目に遭っているのだろう。
「龍くん、犀の煮つけは自分も半分もらうからね」
と恨みがましい視線で釘を刺した。