人魚姫「想楽は本当にセイレーンのようです!」
楽譜を受け取ったクリスが、頬を紅潮させて手を握ってくる。
「それよく言ってるけど、怪物なんでしょー……でもまあ、褒めてくれてるんだよねー。ありがとうー」
伝わってくる熱がじんわりと胸を満たし、少しばかりこちらの頬まで染めた。
「今日は助かりました。どうしてもこのパートが上手く表現出来なかったのです。想楽の歌を参考に、なんとか克服出来そうです」
「このくらいお安い御用だよー。僕も歌うの楽しいしねー」
「ありがとうございます。しかし大丈夫なのですか? 随分時間を取らせてしまいましたが」
「まあ特に予定も無かったしねー。セイレーン、さえずり手引き、声無き人魚へ……うーん、こっちはあんまり整ってないね……」
「そうなのですか? しかし、私は人魚ですか。ではセイレーンと人魚で、想楽と私は海の仲間同士ですね!」
えー、なんて緩く抗議の声を上げつつ、想像を巡らせた。鳥の翼を生やした僕は海上を自由に飛び回り、岩礁に腰掛けた魚の尾を持つクリスに歌を教えている。空は青く晴れ渡って、二人以外誰もいない海面にキラキラと太陽の光が踊って——
「……クリスさん、声はいらないから足をください、なんて言わないでねー」
「? なんの話でしょう。ところで想楽、次のこのパートですが」
「ねぇ、もう遅いし明日にしないー? 確か午後は空いてたよねー」
「ふむ……そうですね。せっかく提案してくれたのだから、続きはまた明日にしましょう。ふふ」
「なに、なんの笑いー?」
スケジュールを確認するためスマートフォンを開いていた彼は穏やかに、それでも目に溢れんばかりの喜びを湛えながら僕をみつめた。
「嬉しくて。想楽、貴方から私と過ごす時間を約束してくれることが、とても嬉しいのですよ」
「……!」
ああ、綺麗だなあと思う。少しの気持ちを見せるだけでも、この人は何倍もの大きさで返してくる。もしこう言えばどう返ってくるだろう。例えば、好きだ、なんて。
「おや、本当に時間がギリギリですね。急いで帰る用意をしましょう。雨脚が強くなってきたようです……施錠について何か聞いていますか?」
「え? ……あ、開けたままでいいみたいだよー。はい忘れ物ー」
「ああすみません。……では出ましょうか。駅まで一緒に歩きましょう」
先に階段を降りていくクリスの揺れる髪を眺めながら、魚の尾を持つ彼に再び思いを馳せる。そういえば未だに水中の彼を見たことがなかった。もうすぐ夏が来る。クリスや雨彦と海へ行ってみるのも悪くないかもしれない。わざわざ提案しなくても、おすすめの場所など聞けばきっと一緒に行こうと誘ってくるだろう。僕がいつもみたいに断らなければいいのだ。雨彦は暑いのを嫌がるから逃げるかもしれない。それならそれで大歓迎なんだけれどなー。
「先程の……どうしたのですか。私、何か変でしたか?」
にやりと笑ったそのタイミングで突然クリスが振り返ったので、慌てて表情を引き締めた。彼の信頼を少しでも失うようなことはしたくない。
「なんでもないよー、ちょっと昨日の兄さんを思い出して笑ってただけ。おっかしくてさー」
誤魔化すついでに少し誇張して喋ってしまった。犠牲にしてごめんね兄さん。
「って事があったんだよー」
「それは……っふふ、失礼しました」
「まあ自業自得な気もするけどねー」
笑いつつも申し訳なさそうな顔をしたクリスが、通用口の重いドアを押し開ける。途端にじっとりとした空気が通路へ流れ込み、しとしと、にしては情緒の無い雨音が廊下に響いた。何を思い描こうと、現実はまだ日常の一場面でしかないことを思い知らされる。
「うわー、結構降ってるねー……ところでクリスさん、さっき何か言いかけたー?」
ああ、と傘を開く僕を待ちながら先に雨の中へ立った彼は、いつものように大好きな海の話をする。
「そういえば想楽、知っていますか——」
* * *
忘れ物に気付いた僕は、のろのろと階段を引き返していた。ダンスレッスン後に何度も昇り降りするのは決して気分の良いものではない。早く戻らないと残っていた雨彦達が施錠してしまうのは分かっているが、梅雨の湿気でムッとした中を駆けていく気力は残っていない。
ロッカールームの扉を開けようとした僕は、あまりにも静かすぎることに気付いて立ち止まった。明かりはここ以外に付いていないので、二人はまだ中にいるはずだ。それなのに身支度の音はせず、ただボソボソと何かを話す声が微かに聞こえてくる。
動悸が早くなるのを感じた。聞きたくない。聞いてはいけない。でも聞かなきゃならない、僕自身のために、
「よく聞いてくれ。伝えたいことがある」
邪魔をすればいい。僕が聞いていることがわかれば、雨彦は必ずはぐらかしてこの告白を無かったことにする。
「これは冗談じゃない、本気だ」
早く、ドアノブを捻るだけ。
「古論、俺はお前さんを……」
左肩がどんどん濡れていく。頭上に掲げた折り畳み傘は頼りなく、今にも雨粒に叩き折られそうだ。梅雨の時期だというのに、朝の僕は「今日はそんなには降らない」と思い込んでいたのだろうか。
「油断してたなー……」
大雨にも、雨彦にも。狐は黙って油揚げを攫われていればいいのに。
……そうじゃない。彼が予想外の行動に出る前に、僕が早く気持ちを伝えればよかっただけの話だ。僕が早く、想いを言葉にしていたら。していたら、どうだっただろう。あの人は僕をみてくれただろうか。果たしてその年上の想い人を見る眼差しを、僕へ向けてくれただろうか。
僕の方が考えをストレートに表現していたはずだ、人の裏表というものが苦手な彼のために。僕の方が沢山レッスンに付き合っていたはずだ、共に過ごす時間を少しでも増やすために。僕の方が距離は近かったはずだ、雨彦は僕以上に自分の領域へ他人を踏み込ませなかった。それなのに。
それとも初めから失敗していたのだろうか。出会った頃の僕らは意図的に距離をとっていた。もしかすると自分で思っていた以上に僕は彼を遠ざけすぎていたのかもしれない。
ぐるぐる、じとじと、ぐらぐら、ざあざあ。時々傘の端からばたばたと水滴が落ち、それも風に吹かれて容赦なく僕を濡らす。水を吸い込んだスニーカーが氷のようで、さっきまでぐしゃぐしゃと気持ち悪かったのが今はもう感じられなくなっていた。
足を持ち上げるのが億劫で、水溜まりも構わず引き摺るように歩く。こんな天気でも、クリスならきっと目を輝かせて歓迎するに違いない。地上に落ちた雨粒は、やがて海へと辿り着きその一部となるのだから。できれば僕もその一滴に溶け込んで、そのまま流れて行きたかった。そうすればきっと、今より彼に近づけただろう。
誰よりも近くにいれば、たとえ初めは両想いでなくとも彼の隣を勝ち取ることができると思った。もしその目に別の人が映されていたとしても、僕の努力次第で彼は僕を選んでくれると信じていた。そう考え、行動する自分自身を僕は信じていた。
どうして僕はもっと早く、一番伝えたい想いを口にしなかったんだろう。
「好きだったよー、クリスさん……」
ようやく吐き出された言葉が、土砂降りの中、泡のように弾けて消えた。
『そういえば想楽、知っていますか? 一説によると、人魚伝説のルーツはセイレーンなのだそうですよ——』