放課後ポップ・ミュージック また同じところで引っかかった。
顔を上げると、スザクの表情がルルーシュにしか分からない程度のささやかさで歪んでいる。どうにも苦手な箇所があるらしく、先ほどから同じフレーズを繰り返している。
スザクはふぅと小さく息をつき、緊張をほぐすように手を開閉してギターを持ち直した。節くれだった指が見覚えのあるコードを押さえると、短く切りそろえた爪がグッと皮膚の中に押し込まれる。ピックが弦を弾き、先ほどと同じところから曲が始まった。しばらくは軽快に演奏が続くがやはり苦手なコードで詰まってしまう。とうとうスザクは「あー」と低く呻いて、勢いよく椅子の背にもたれた。
「うまくいかない」
「みたいだな」
脱力したスザクの頭が背もたれからこぼれている。天井を見上げながらキャスター付きの椅子をでたらめに動かすせいで、ギイギイと金属の擦れる音が耳を刺した。スザクにしては珍しい乱暴な仕草だ。ルルーシュはふっと口元を緩めると、同じように車椅子の要領で部屋を横断し、隅で不貞腐れているスザクの隣に並んだ。
「意外と器用だったんだな、おまえ」
「そうかな。全然できてないけど」
スザクが指先で適当な弦を弾く。ピィン、と高い音が鳴った。
「独学で、もうサビは弾けるじゃないか。さっきのところができるようになれば通せるんだろ」
「まぁ、そうだね」
ルルーシュは言いながら、スザクが演奏する姿を思い浮かべる。細かい作業が苦手だと言っていた彼の指が弦の上を滑るたび、心地よい和音が鼓膜をくすぐった。ギターを弾くスザクの指は別の生き物みたいで、よくあんな複雑な形に曲げられるものだと素直に感心していたのだ。
理由は聞いていないがスザクが急にギターを始めたのはここ最近のことで、どうにか基礎を掴むと早々に曲の練習に入っていた。近ごろメディアでよく聴く流行りの歌で、確か男性アイドルユニットが歌っている曲だったと思う。友達以上恋人未満のあの子との、もどかしい距離をどうにかしたい。そこらじゅうに転がっていそうな曲だが、大変なヒットとなっているようだ。
ルルーシュの賛辞をうけて気分が良くなったのか、スザクは背もたれから頭を持ち上げて鼻歌をうたいはじめている。飽きもせず件の曲だった。
「好きだな、その歌。練習もそればっかりじゃないか」
座面に手をつき、身を乗り出してスザクの手元を覗き込む。鼻歌に合わせて指が蠢き、コードが変わるたびに弦からキシキシと細かな音が立つ。
「好きっていうか、聴かせたい人がいて。はやく上手くなりたいんだ」
ルルーシュはギターを弄る手元を見つめたまま凍りついた。いまスザクはとても柔らかく幸せそうに微笑んでいる。顔を見なくてもそうわかった。
「……へぇ」
何かに没頭するスザクを見守れるのが嬉しくて、ふわふわと膨らんでいた気持ちが針を刺されたように萎んでいく。身を起こし、スザクの手元から視線を剥がした。自分といるのに他の人間のことを考えるスザクがどうにも面白くなくて、気づかないうちにおざなりな返事をしていた。
急にギターなんて始めたのも、心配になるくらい熱心に練習に打ち込むのも、全部その人のためというわけだ。おこぼれをもらえてよかったじゃないか。
胸がざわざわとして虚しくなり、窓の外をでたらめに眺める。思っていたよりも陽が傾いていて、赤く滲んだ雲を眺めながら「もう帰ろう」と立ち上がった。伸びてきたスザクの手がその腕を掴む。
「まだ完璧じゃないんだけど、聴いてくれる?」
「俺に聴かせてどうするんだよ」
他に聴いてほしい人がいるんだろ。自分で傷を抉って、ルルーシュは唇を引き結ぶ。ここまで付き合ったのだから練習に同席するのは構わないが、顔も知らぬ人間の代わりにされるのは御免だ。
「いいんだよ。ルルーシュに聴いてほしくて練習してたんだから」
へ、とほとんど吐息みたいな声が喉から漏れる。口を半開きにしたままスザクを見つめると、夕陽を受けた赤い顔がゆるりと微笑んでいる。こちらの腕を掴んでいた手が滑り、制服の袖から覗く手首に直に触れる。弦を何度も押さえるせいで硬くなった指先が、手首の内側の薄い皮膚をくすぐった。
「ねぇ、だから機嫌直して?」
二人きりなのに、スザクは秘密を打ち明けるときみたいにかすれた声で囁いた。どくんと鼓動が跳ね上がり、顔に血が集まる。ルルーシュの不機嫌もその原因も見透かされていたことがたまらなく恥ずかしい。
「……俺の耳は厳しいぞ」
「うん。だから、本番に備えて心の準備」
手首を包んでいた体温が離れていく。座り直して姿勢を正し、スザクが再びギターに手をかけた。指がいつもと違うコードを押さえる。ピックが弦を弾き、今日はじめてのイントロが流れ始める。陳腐に思えた楽曲も、彼の指を通すと世界でひとつだけの音になるのだ。
この曲の歌い始め、歌詞はなんだっただろうか。君に好きだと言っていいかな、今日も唇は空回り。スザクの低くて甘い声にそんなことを言われたらどうなってしまうんだろう。スザクが息を吸い込む。少し厚みのある唇が開いて、喉の奥から歌が流れ出す。ルルーシュの胸の高まりが、そこでピタリと上昇を止めた。
「…………おまえ」
途中つっかえながらもサビまでを演奏しきって、スザクは照れたようにはにかんでいる。どうだった? と聴かれるより早く、ルルーシュは口を開いていた。
「歌、ヘタだな」
「えっ」
スザクが身を揺らした。ギギッと椅子が同意するように鳴く。
「音痴だ……」
しみじみ呟いて、ルルーシュはいつの間にか詰めていた息を吐き出した。
「え、そうかな? えっ……どうしよう。ギターばっかり練習して歌のことすっかり忘れてた」
ごめん、今の聴かなかったことにして。歌い終わりの清々しい顔が嘘だったように狼狽して、スザクはウロウロとルルーシュの周りを歩き回る。背もたれに体重を預けたルルーシュは、徐々に身体が揺れ出すのを止められない。気づけばスザクの恨めしそうな視線をものともせず、ケラケラと声を上げて笑っていた。
命拾いした。あんな気障なセリフ、スザクの声で綺麗に歌い上げられたらその場で死んでしまう。スザクが音痴でよかった。そう言ってやろうと思って、笑い声に邪魔されて声にならない。
なんて幸せなんだろう。意外と器用で、独学でギターも弾けて、なのに信じられないくらい歌が下手くそなスザクのことが、俺は、とても。
浮かんだ言葉が陳腐な歌に乗る。窓から吹き込む秋の風がそれをスザクの耳に届ける。流行りの曲も捨てたものではないなと、目も口も丸くして真っ赤になるスザクを見つめかえして、ルルーシュは歯を見せて笑った。