■ RISE ON GREEN WINGS ③=====
――カムイは時々、そういった思い出話をしてくれた。
お前達も知っておくべきだ、と言って。本心だったかはわからない。ただ、俺も聞いておくべきな気がしたし、何より、少なからず大事に思っていたろうあの人をその手で殺めたというカムイが話したいなら話させた方が良い気がした。
焚き火の中でぱちりと何かかが弾けて燃えていく音がはっきり聞こえるような静かな夜、ぽつりぽつりと思い出した物の輪郭を辿るように紡がれるそれは、自分には見たことしか無かった雲に触るような、カムイには忘れないようにノートに書き込むような、そんな時間だったかもしれない。
過ごした時間は少なく、結局どんな人物なのか掴みきれぬまま終わった「神隼人」という人間の事を俺はそうして断片的に知る。
……どうして、自分はもっとあの人を知ろうとしなかったんだろうと、後悔もした。
冷徹で情深く繊細で鋼のような意思を持ち、ひどく人間離れしていて誰より人間らしい――とても一人の中に収まりそうもない人物像でも、それがあの人だったという。
人類を守り戦い続けた「英雄」は、それでも「ただの人」だったと。
ただ、自分の意思で抗い、戦うことを選んだ、そこに生きていて隣にいた、特別でもなんでもない強いだけのただの人だったと。
「……鎖に繋がれた鳥のようだった」
たまになんとも言えない顔で空を見つめていて、自分も戦いたいのかと最初は思った。違うようだと気付いて飛びたいのかと思い直したがそれも違った。行きたかったのかもしれないと今なら思う。あの人は行けないのもきっとわかっていたのだろう。
もしかしたらあの人は、自分と関わって犠牲が出た瞬間からそれを背負わないことや戦わないことを自分に許せなかったんじゃないかと思う。
周りから見れば生き地獄の中で、それを当然とし続けていた。
……本当は、叶うなら、皆が、あの人が、戦わなくてすむ世界が欲しかった。
それまで淡々と焚き火を見ながら話していたカムイが俯く前に聞こえた声は消え入りそうに小さかった。
それきり膝を抱えたカムイにかける言葉も見つからず、困って獏と顔を見合わせ、ままならねえなぁ、と俺は思いながらガリガリと頭をかいた。
あの人をその手にかけて、誰より大事だったろう母も失って、そうまでして守ろうとしたのは人類以外の全ての生命で、正直俺の特に理屈の無い我儘なんかより余程筋は通ってたし腹も座ってた。
カムイは間違えてはいなかった。
ただ、俺が我儘だっただけで。
そこに後悔はないが、結果カムイにとってのあの人や母ちゃんの死を半ば無意味にしたのも俺だった。だからこそ、俺は後悔なんてしたらいけないんだろうとも今は思う。
最後まで足掻き続けなきゃかっこ悪いんじゃないかと思う。
あの日、叫んだことを嘘にしないためにも。
+++++
「――何が宿命だ、ふざけるな! お前は自分の意思で戦うことすらできないのか!?」
……結局お前達はそうなのか。他人を思うこともろくにできず。自分の感情だけに流されながら。その癖他人から与えられたものでしか生きることができないのか!
感情が爆発したような鋭い叫びが、コックピットの空気を切り裂いて耳から頭を殴ったようだった。
間抜けにも、そう、俺は間抜けにも一瞬何を言われたのかわからなくて、目を丸くして「は?」なんて「えっ?」なんて声しか出なかった。
カムイの奮う強大な力に潰されそうになっていることも、パワースポットに残った獏がテレパシーみたいにして教えてくれたあの機体、バグの力も頭からすっ飛ぶくらいに、それは自分には衝撃だった。
混乱する頭に残る、ひと言ずつ、はっきりと区切るように胸の奥から押し出されたみたいなカムイの声には、紛れも無く抑え込めきれない怒りがあって、はじめて聞いたその声に「カムイも怒ることがあるのか」なんて場違いなことを思った。
そんなの、当たり前じゃないか。だって、カムイだって、俺たちと変わらない。
――俺は今まで、それを考えたことがあったか? カムイだって怒るんだと思っていたら、最初に会った時、あんな事を言っていたか? 未来人類だというヤツらの言葉に、人類以外は皆死ねばいいというあの話に何も言わずにいたか?
ふと頭をよぎったそんな考えに、ザッと血の気が引くような感触があった。
――俺は、さっき、『カムイに何を言った?』
言葉も出なかった。何を言えばいいのかわからない、その前に、今まで自分のしてきた事は「なんだったのか」揺らぐ。
言われてみればおかしくないか。俺は「運命なんか」って言った癖に「宿命」は信じてそれに従い戦うことを疑わなかったのか?
「運命」にクソ喰らえと言いながら自分の「宿命」を、「英雄」は戦うものだと母ちゃんに言われた事を疑った事はあったか。自分の怒りは間違えてはいないとそれしか考えてはいなかったか。カムイとよくやってるつもりで『俺たちに合わせてくれていたのはカムイじゃなかったか』。
「……ならば今、俺が『死』をくれてやる。自ら考える事を放棄し、ゲッター線の奴隷となるくらいなら、死なせてやった方が慈悲だ」
酷く平坦な声だった。モニターの向こう、冷たく光る目だけが自分を刺すようだった。
言い訳の言葉すら出なかった。謝って済む話じゃない。
少なくとも、俺は考えなしで無責任な二枚舌をいっそ誇らしげにうたいあげたのは事実だった。
何も言えない間に、カムイの声は淡々と続いた。
「お前は合理的で正しい、だが、他人の気持ちを考えたことはあるか」
お前が理不尽に殺されるのが嫌なら、他者も当然そうだと思わないか。
お前は、「お前達は」死ににくいからわからないかもしれないが、普通の人間は、俺たちのような生物は、お前達より簡単に死ぬ。ただ生き延びるために、命を繋ぐために、必死にならなければならない気持ちがお前にわかるか。
今お前の目の前にいる俺は、お前達人類を下等生物として無感情に殲滅しようとしている訳でなく、自分達が生き延びる為にお前たちを殺さねばならないとなった事を本当に理解しているか。
助からないからとそれだけで苦しむ顔ひとつせず迷いなく同類を撃ち殺して思い出しもしないお前に、俺の気持ちなんかわからない。わかるはずがない。
誰かを殺すことの意味も、自分が死ぬという実感すらお前は知らないからお前にはろくな痛みが無い。
わかったような口を聞くな、際限の無い吐き気も止まらない身体の震えも血のぬるさも引鉄の重さも二度と戻らない冷たさも潰れてしまいそうな重さもなにも何も知らないくせに。
「俺は、なにか間違ったことを言っているか、拓馬」
また徐々に怒りの籠る声に溜め込んでいたものが爆発する寸前の気配を感じる。俯いた顔の表情は見えない。
何も言えない。こんな風に怒られた記憶なんて無い、感情や考えをぶつけられたことも無い。どうしていいかわからなかった。
「俺は母を失い、あの人をこの手で殺めた。
その覚悟も、決意も、お前のそんな我儘で覆せるとでも思ったのか。お前にはそんなにも命は軽いのか?
俺はそんなにも薄情で浅はかだとでも思ったのか!?」
息を飲んだ。びくりと肩が跳ねた。
「答えろ、拓馬!!」
カメラ越し、顔を上げてこちらに叫ぶ声は、顔は、逃げるなと示して怒っていた。
「わかっていて全ての犠牲を、俺の責任を、無為にしようとしているのはお前だ!!」
――その言葉にもう一度、頭をぶん殴られたような気がした。
どれだけ殴られても死なないし、生きることに困らなかったから、あんなに必死に生存圏を確保しようとする事が理解できなかった。死ぬことへの恐怖なんてリアルに感じてなかった。
どこか他人事だったから、助ける術など無いとすぐに諦めて虫に寄生された人間も平気で撃てた。死体を見ても触っても「ただの物」くらいの気分でしかなかったから、飯だって平気で食えた。
可哀想という気持ちすら希薄だった。相手の事なんて、目の前で苦しんでるものの事なんて考えてなかったからじゃないか。死体は生きた人間だったと、頭で理解しててもそれがどういう意味かなんて考えてなかった。
もしあれが母ちゃんだったら、自分はそうしていただろうか。助ける術は無かったのは事実でも、あんな気持ちであの引鉄を引いただろうか。あれが母ちゃんの身体ならあんな乱暴に投げただろうか。
あれが、全部、自分だったら?
今までゲッターを動かしながら、相手や建物の中に「生きたもの」がいると、意識していたことはあっただろうか。そういったものを想像もせず、ただ壊していいものと考えてはいなかったか。
熱かったはずの身体が一気に冷え込んで、腹の底に氷でも飲み込んだような気分だった。
取り返しがつかないことをしていた、とはじめて自覚して震え始める指先。冷や汗をびっしょりとかく背中。
――どこか憂いを帯びた顔で「お前の父親はお前より不器用で、感情的だったよ」といつか神さんが言っていた事の意味を今になって理解する。
突き付けられたものに目眩がするようだった。自分に悪意があった訳では無い、しかし、
お前は上っ面だけだと言われたのは、確かにそうだった。
眼下に広がるなにもかも壊れて荒れ果てた街並み。カムイの怒り。バチバチと火花を散らすアークの破損部位。ひきつれそうな呼吸に混じる煙の臭い――遠く聞こえる人々の悲鳴。
なにもかもが、今になって生々しく、「ここにあるもの」として、肌触りを返してきた。
視界、音、感触、空気、におい。
唐突に増えたように感じる情報量に、圧迫感や溺れそうな感覚すら覚える。
けれどそれは、本当は前からそうだった。俺が見えていないだけ、知ろうとしていないだけだった。
狭い自分の視界だけで、知っているつもりでしかなく、世界すら見ているつもりでしか無かった。
今まで半ば無感情に、呆れるほど無責任に積み重ねた犠牲に吐き気さえ感じた。今更になって、この手は血濡れていると気付くなんて、自分はどれだけ酷薄で、どれほど何も見えていなかったのかと思った。
どうしてごっこ遊びなんてできてたんだろう。遊びなんかじゃないと頭ではわかっていたはずなのに。
自分は、ひとごろしだ。
初めての自覚はあまりに重く、泣き叫びたい気持ちすらなんの形にもならない。息が詰まる。吐き気がする。身体が震える。
こんなものをカムイは、神さんたちは。
俺がやろうとしていた事は。
戦おうとしている相手は。
――カムイは、俺たちをよく見ていた。
このまま俺たちがゲッターを動かせば『全生命の敵』になると判断した。
そこに悪意は無かろうが、命の重さも知らず、他人の事をまともに考えず、自分は間違えてはいないと戦う理由も強大な力に託して、切実な生きようとする意思を力でねじ伏せようとする。
それは、あの未来人類の、エンペラーの、ゲッター線の姿と同じだと、そう言われれば否定なんてできなかった。
正しいのはカムイだ。
カムイの怒りに呼応するように、バグにエネルギーが溜め込まれていく。
カムイは本気だ。
人類も爬虫人類もなにもかも『この世界まるごとやり直す』つもりだ。
でも
だからって
「――だからって、ここで死にたくなんかねえんだ!!」
はじめて、心の底から「死にたくない」と思った。
まだ、死ねない。
ぐちゃぐちゃの頭で、泣き叫ぶように声を張り上げた瞬間、目の前が緑色の光に染まった。
細めた視界の中、地下にあったはずのそれが見えた。「ゲッタードラゴン」とカムイが叫ぶ声がする。
アークまで包んで強くなる光はやがて真っ白になって視界全部かき消して。
意識まで遠のく中、カムイの血が滲むような、泣いているような叫びだけが微かに耳に届いた。
「貴方は――あんたはまだこんな世界でも見捨てるなと言うんですか、神さん!!」
+++++
「仮にも俺の息子ってんならっつうか、相手と同じ天秤に自分の命かけてきたんなら、それくらい気付くだろ、普通」
おい、こいつらにきちんと物教えたのかよ。俺より馬鹿だぞ、お花畑でちやほや箱入り教育でもしたのかよ?
俺のところに来た時にはそうだったんだ、言われても困る。
どこかで聞いたような、何か違うような声。
誰が誰の息子だって? なんか失礼なこと言われてねえか? ぐわんぐわんと揺れるような頭。めいっぱいなにか詰め込まれたような、酷い圧迫感と違和感。頭痛。目眩。
うっすらした視界の中にいきなりにゅっと見た事のある男の顔が入ってきて驚く。
「あ、起きやがった」
お前な、隼人に礼でも言っとけ。隼人が願わなきゃ助けらんなかったし今こうしてねえからな。
「え、な……」
あの「パワースポット」に似た場所だった。会ったことがあるはずの人物だった。けれどこの腕組みして自分を見ている人物は『違う』と思った。
視界の端に白いなにかが動いて、それはよく見知った人だと気付く。何故かいつもの白衣ではなく、髪の毛も幾分短いが神隼人その人だ。……死んだと聞いたはずなのに?
「お前が聞いていた姿とも話した姿とも違うだろうがそれが『俺の知っている』流竜馬だ……と言ってもわからんな。
そもそも、お前は『自分が誰だかわかっているか』?」
なにを言ってるんだ、と思った。
「お前達が山岸獏をあの場に残したのは半分正解だった。悪くはない選択だ。『存在が消える』か『溶ける』かもしれないが」
え、と頭の片隅にざわめきがあった。
「獏/俺」が消える?
ブレるような思考に違和感がある。そんな自分の様子を見て、軽く頭をふりながら神さんが話した。
「お前達に圧倒的に足りないのは他者と自分との境界の認識と、それを理解し分け隔てながらの他者への想像力だ」
「……隼人、こいつら馬鹿だからそんないっぺんに言ったって絶対わかんねえぜ」
少しばかり呆れたような顔と声で「流竜馬」が話す。表情も豊かにくだけて話す姿は自然で、特に根拠はなくともこれが本当の姿だったのだろう、と思う。
仮にも自分の息子だろう、お前
使われたのはそうかもしれねえけどよ
時間も無いぞ
わあってるよ
二人でぼそぼそとそんなやり取りを二、三した後に、一人だけがこちらに歩み寄ってきた。有無を言わさず襟首を捕まれ、近づいた顔が目の前で笑う。
「よう、真っ当に話すのは『初めて』だな?
まあ、そりゃいいんだ。大した事じゃねえ。だからな」
「歯ぁ食いしばれ」
ひゅっと何かが風を切る音がした途端、ゴッと鈍い音が頭に響いた。軽々吹き飛んだ身体もなにがなんだか意味がわからない。
床があるのかも分からないがとにかく何かに叩きつけられて身体が止まり、遅れて痛みがやってくる。
「てめえが俺の息子だなんて情けねえにも程があるぜ、犬か?」
吐き捨てるような声に影になった立ち姿を倒れたまま見上げれば、さっきとは打って変わった酷く真剣な顔があって、その、目が、怖かった。
「てめえの母親は好きだとか言いながら俺の気持ちなんざちっとも考えずに自分の都合ばっか押し付ける女だった」
ざわりと心が動く。「俺」はそれに触れて欲しくなかった。特に今は。
けれど、頭の片隅には戸惑うような心もあって、自分の筈なのに自分じゃないような。
「大方てめえらはそうやって押し付けられる事に慣らされて、噛みつけもできねえようにされてんだろ? 都合のいい飼い犬だな」
それは、本当に愛されてたのか? 本当に愛していたか? 『つもり』って言葉は便利だよな。悪意がないから許せって、その『つもり』だったから悪くないって幾らでも言えるもんな?
相手のことも考えないで自分の都合押し付けるだけのそんなもん、跳ね除けて殴り返してよかったんだよ。それもてめえらはわからなくさせられちまった。だから相手を考えず自分の都合や感情押し付けるのも当然だと思いやがる。
――なあ、親だからって神だからって勝手な事押し付けられて大人しく黙って尻尾振ってるだけの可愛い飼い犬がなんだって?
「てめえは我慢したかもしれねえけどな、他人も我慢して手前勝手な駄々聞いてくれるなんて甘ったれたこと考えんじゃねえよ」
畳み掛けられた言葉を理解する程、怒りがあった。
多分、親父の言ってることは間違えてない。間違えてないから反論できなくて、でも反発したかった。
八つ当たりだ、図星をつかれて逆ギレするやつだ。
そうはわかってても。
「さぁ、俺を殴りたいのは『どっち』だ?」
そこまで言い当てられて、黙っていられなかった。
カッとなった頭の別のところでバラバラになった部分を無視して拳を振りかぶって殴ろうとして。
バリッ!っと音まで聞こえそうな、けれどなにも音なんてしない感触に驚いて、「振り向く」。
歪に歪んだ、半分だけの「獏の顔」と自分の身体がそこに混じっている事にはじめて気付いた。
お互いに。
「えっ」「ヒッ」
「「――~~うわぁああぁあああ!!」」
「なんだこれ!?」「なに、どうなって!?」
怯えて身体を引こうとすれば、引き剥がされた肉塊みたいな自分と獏の身体がもぞりと動いて怖気と吐き気が走る。手足もあるんだかないんだかわからない。自分の身体がどうなっているのか理解もできないし把握もできない。
嫌だ。いやだいやだいやだこんなの嘘だ夢だ。まさか、そんな、うそだ。
溶けて混ざって『誰だかわからなくなって』たのか自分もわからないまま消えてなくなるのかそんなのは嫌だ死にたくない消えたくないしにたくない。
多分まだ獏の思考が混ざっている。どちらのものだかわからない、けれどハッキリした恐怖。自分の思考が『獏を食っていた』ことにも気付く。その恐怖すら別のものに分かれた今になって自覚する。
知らず食われかけ消えかけていた恐怖。自分の身体が自分のものでは無くなる恐怖。自分の考えていることがその実は他人のものでしかなかった恐怖。
どうして同じだと勘違いなんかしてたんだ。違和感ならあったのに、自分の一部だなんて思い込んで。
俺は俺で、獏は獏のはずだ。
形にもならない身体、混濁する意識、自分が『消える』感触だけははっきりとしていて。
「……自分は不死身だなんてドヤ顔しといて、本当に死にかけてんのに気付いたらそれとか恥ずかしくねえのか、お前」
不死身なんだろ? 三回くらい死ぬか? 安心しろ、ここなら何回でも死にかけられるぞ。そのまま帰って来ねえかもしんねえけど。
腰を落として覗き込み飄々と言う顔には、からかっているような雰囲気すら無く、本気で言っている。あるのかないのかすらわからない背筋が寒くなる。
いやだ気持ち悪いあんな誰だかわからないものになりたくない。それはきっと俺じゃない、獏ですらない。いやだ、そんなのは嫌だ。自分の意思のつもりで『誰か』の分身でしかないものになんかなりたくない。
ヒトの形すら成せていないかもしれない状態で、生まれてはじめて心の底から怯えた。みっともなく全身で震え、泣いて、避けようもないのかもしれない『死』に怯えた。『死なない』ことはなんの気休めにもならなかった。『消える』ことがただ恐ろしかった。こんな思いを何度もするなんて地獄でしかないとすら思った。
「リョウ、それくらいでいいだろう」
「こんなもんでいいのか? 足りなくねえか?」
「拓馬、獏、落ち着け。『自分』をしっかりと持て。拓馬は……今はこいつにはいくら腹を立てても良いぞ」
「おい、隼人、お前な」
膝を着いて俺たちに話しかける淡々とした聞きなれた声。何度も名前を呼ばれ、徐々に怯えが収まってくる。
親父に腹を立てていい、と言われたので正論言われての八つ当たりだろうがなんだろうが腹立つもんは腹立つと怒りを溜めれば、周囲のなにかが寄り集まって消えていた身体を緩慢に形作っていく。
「要は精神力だ。生きたいと思え。本気で。ここで根性見せなきゃ死ぬぞ」
そんな声に意識を集中させながら、親父はわざと俺だけ怒らせたのかと思った。
そうだ、まだ死ねない。カムイの言葉に俺は返事を返せてない。
必死に、今までこんなに真剣に願ったことなどあったろうかと思うほど念じていれば、神さんが獏に語りかける声も聞こえてきた。
「獏、お前は尚更だ。お前は私にも繋ぎ止める術がわからん。気を抜けば『喰われる』ぞ、あっという間に」
自分の輪郭を思い出せ。念じろ。死とは無に近い。個を失うことは意思を失うに近い。死にたくない、消えたくない、と思うなら、お前を喰おうとする大きな意思に抗え。できないならお前はここで消えるだけだ。
――かつて三号機乗りが理性を、自我を保ちきれず喰われたように。
獏が引きつった息を飲んだ。さわさわとまだ自分の周りに触れるものは恐怖にすくみ、飲まれ掛けながら抗っていた。
俺たちの様子を見ながら神さんが顎に手を当て考えるような素振りのあと静かに話しはじめた。
「……タイール――お前の兄というやつは、ひどく気味の悪い子供だった。
あれの言ったことのせいで、山ひとつがそこに住まう人々や生き物共々消し飛んで、搭乗した人間が取り込まれ魂を失っても、それをそうなるとわかっていてやって後悔ひとつすらせず、背負おうともしなかった。
悪意も害意もまるで無く、むしろ善意ですらあったろう。しかし、そうしたことを引き起こして平気な顔をしていられるほど、死を理解せず、個の重要性も知らず、結論だけ見て過程は見なかった」
獏が何かに気付いたような顔で神さんを見上げていた。タイールという獏の兄さんの話は、獏からもあまり聞いたことがなかった。
「ゲッター線に啖呵をきったお前達は頭では理解しているつもりだろう?
その意味がこれだ。個を失うということすら、結果しか見ないのなら些事でしかない。
更に言えば、食う側はそこに感情などない。お前達は今まで食べてきたものの気持ちなど考えたことは無いだろう?
『悪意が無ければ大丈夫だ』などとお前たちは考えたようだが、悪意の有無と他者を害することを一緒にして考えることはナンセンスだ。
冗談や好意のつもりの性暴力や世直しのつもりのテロ行為に、そうあってしかるべきと起こされた侵略戦争に、お前たちは同じように言うのか。お前たちは肉を食い、害虫を駆除することに悪意があったか?
今までも、今この瞬間されていることも同じだ。
ゲッター線にもエンペラーにも悪意など存在しない。
そこにはお前という『個人』の意味がそもそもない。感情があることすらどうでもいい。いくら泣き喚こうが『山岸獏』が『消える』ことの意味すら無い。
……不満か? 理不尽だと思うか? 恐ろしいと思うか?」
声は無いまま、獏は頷いた。けれど、怯えきっていた目が徐々に光を取り戻しているようだった。
その目をしっかりと見て、神さんは学校の先生かなにかみたいに俺たちに語り続ける。
「お前達はわかっている『つもり』だろうが、せめて今ここで考え続ける糸口を掴め。
考えている『つもり』、感じている『つもり』。今のお前達は『つもり』でしかなく実が無い。一朝一夕で身に付くものでもなく、私達は常にそれを考え続ける必要がある。
できないなら消えろ。そして滅べ。人としての形も無くしてゲッターに溶けろ。
結局最後には全てそうなる。その未来が変わっていない以上、今のお前たちでは変革する力は不足していると知れ」
ひどく厳しい言葉だった。
けど、反論する気は起きなかった。
そうじゃない、と言いたいなら、きっと俺たちにはやる事が、やらなきゃいけないことがある……それは、わかったから。
「隼人、もう少しヒントくれてやった方が良いんじゃねえか?」
いっそ能天気に聞こえるくらいの声が挟まって、神さんはもう一度、今度は軽く首を傾げた。
「……そうだな……拓馬」
「え」
唐突に名指しされて驚く。生きたいと必死に考えてたせいか、身体は随分戻ってきていたことにもその時気付いた。
「お前と獏の違うところを考えろ。この際不満に思っていた事なら尚更良い」
「ええ?」
「お前達は本質が近い。だからどうしても引っ張られるんだろう。長いこと共にいたのだろう? お前と獏はどう違い、山岸獏はどういう人間でどんな個性を持ち、他に換えがないか考えろ。お前から獏を弾き出し、輪郭を作る手伝いをしてやれ」
そんな言葉にあぐらをかいて腕組みして目を閉じて、うーん、と悩む。
多分、きっと、『俺と獏は違う』ことを思い出したり考えればいいんだろう。
それはわかったけど、そういえば獏の身長どれくらいだっけ? とか、何が好きで何が嫌いかとか聞いたことあったっけ? なんて、つらつらと思う。
メカに強い! ってそういえばなんでだ?
グリーンアース教ってあいつの出身も、俺たちの旅の資金を出してくれてたとかなんかそんなことしか知らないかもしれない。
考えれば考えるほど、自分が自分で考えていた以上に獏の事を知らなかったことに焦りが出る。
昔から考えることも似てて、喧嘩になることも少なくて、時折起きる小さな不満は流していた。
……どうしてこんなに知らなかったって、それがいつの間にか当たり前になって疑問も持たなかったからじゃないのか? 本当にそうか、なんて考えてなかったからじゃないか? 喧嘩するのはダメだと思うばかりにら伝えるべき事まで黙ってやしなかったか?
『あんなに一緒にいたんだから、わからないなんてない』と思うことが思い上がりじゃねえか、俺の馬鹿野郎。
滅茶苦茶必死になって獏との思い出をひっくり返して。
どれくらい時間が経ったかなんてよくわからない。ただ獏に消えて欲しくない一心で、たくさん、たくさん思い出して。
「――拓馬」
その声にはっと顔を上げる。
「……獏」
「うん」
目の前に、ちゃんとした獏の顔があった。
思わず手が伸びた。きちんとそこにいるのを確かめたかった。
恐る恐る、お互いにお互いの頬に触って、肩を叩き、「自分たち」であることに安堵して、涙が出る。
「獏……おれ。俺、お前の事、本当は何も知らなかった。
ごめんな、獏」
涙と一緒に、ごめん、とそれしか出てこない情けない俺を、獏も泣きながら肩を叩いてくれた。
「……俺もだよ。謝るなよ。それでも、少しはお互い知ってたじゃねえか」
「……そうかな」
「そうじゃなきゃ……俺は消えてたぜ」
「……そう、だな」
ふと思い出して親父と神さんを見れば、表情は変わらないながらひと安心とでも言いたそうに肩で息をつく神さんの背中を親父が笑顔で叩いていた。多分親父は聞いていたより色々大雑把だ。
獏も二人を見ていたんだろう、顔を戻したタイミングで目が合って、少し笑う。緊張が解けたせいか、なんだか笑いが止まらなくて。それはお互いみたいで。
前は何も思わなかったこんな事すら、本当は当たり前のことなんかじゃなかったんだ。
獏も、同じように思ってくれているだろうか。
ずっと一緒にいたはずなのに、なんだかようやく、はじめて獏と向かい合った気がした。
笑いが納まった頃、獏が真面目な表情で、思い切ったように口を開いた。
「……なあ、拓馬」
「なんだ、獏」
「これ、俺らが思ってた以上によっぽど大事だぜ」
「そうだな」
「無駄かもしれねえ」
「……そうだな」
俺たちや未来人類は、みんながみんな、何が悪いのかもわからないまま、考えないまま、場当たり的に目の前の滅びだけどうにかしようとした結果がああなるのかもしれない。
ようやく、それは気付いてきた、けど。
気づいたから、簡単にどうにかなるもんじゃないとも思う。
「……どうする?」
「……俺、は……」
死にたくない。まだ死ねない。カムイに返事をしてない。そうは思っても、それで未来がどうにかできるなんてまだ思えなくて、俺は黙り込んだ。
二人しばらくそうして無言が続いた後に、ぽつりと獏の声がした。
「……拓馬、俺は……俺は、死にたくない。消えたくない」
俯いていた顔を上げれば、獏がひどく言いづらそうに、けど振り切るように「聞いてくれるか」と尋ねてきた。しっかり頷いて、獏の話を待った。
「……兄貴は、確かに気味が悪かった」
いつも誰にでも優しくて、でも俺の怖いとかそういうのわかって貰えないことが多くて、誰の味方なのかわからなくて、何を考えてるのかわからなくて、変に冷静に突き放されることも多くて、本当に優しいのかもわからなくて。でも周りはみんなちやほやして、俺はずっと誰にも言えなかったし兄貴にも怖くて聞けなかった。
あの日、俺達には何も言わないまま飛んだって知って、やっぱり兄貴には俺達なんてどうでもよかったんじゃないかと思った。
ずっと、ずっと引っ掛かってた事が、さっきの神さんの話で納得できちまった。
……俺は……俺は、兄貴にどうとも思われないまま、優しい顔して俺の事なんか本当はどうでもいいまま、全部ぜんぶ有耶無耶にされて一緒になったから良いよな、なんて言われたくない。
小さく、震えそうな声だった。でも、初めて、獏がはっきり言ってきたように思った。
誰にあわせたわけでも、誤魔化したわけでもない、自分の気持ちを。
「でも、正直怖い」
「うん」
「今更何言ってんだって、そりゃそうだけど、俺には自分が死ぬ覚悟も、誰か殺す覚悟も無かった」
「うん」
「お前、できるのか。いくら理不尽に死ねって言われたんでも、誰か殺してまで、生きたいって言えるか」
「……カムイは」
「ん?」
「カムイは、そうしたんだな」
「……そう、だな……」
一瞬ハッとした顔をして、獏が俯きながら呟く。
あのカムイの言葉に、どんな感情や決意がどれだけあったのか。俺たちは、それを蔑ろにした。
俺たちはバラバラだった。そんな事も今更気付く。
俺たちは何もわかってなかった。本当に、なにも。
「なあ、獏。降りるか、お前」
「……」
「……俺は……俺は、乗るよ。カムイと話すために、乗るしかないなら。全部滅ぼされることに抗うには、乗るしかないなら」
何も変えられないかもしれない。でも、黙って死んでなんかやれない。
そう、そうだ。
「――だって、だって俺、まだ、死にたくない!
あんな未来だって嫌だ! ゲッター線の奴隷なんてなりたくない。涼しい顔してたあいつらの顔ぶん殴りたい。大人しく殺されてなんか、消えてなんかやれない!」
泣き出してしまいそうな気分だった。嫌だ嫌だと駄々をこねる子供みたいだと思っても止まらなかった。
力いっぱい叫んだ声に獏が目を丸くして、ふと笑った。
「……俺だってそうだ」
「……なあ、拓馬。俺、乗るよ。でも、きっとまだ命はかけられねぇ。逃げ出したくなるだろうし、泣き喚きたくなるかもしれねえ。
お前と同じ答えはきっと今は出せない。それでも、良いか」
「――っ、当たり前じゃねえか!」
だって、俺とお前は違うんだから!
そうして、ぐいっと手のひらを差し出せばがっしりと握り返す感触があった。
二人、手を握りあって、肩を叩き、笑う。
なんとなく使っていた「友達」なんて言葉が、ようやくわかった気がした。
+++++
「――少しは落ち着いたか」
「まったく世話が焼けるガキ共だぜ」
そんな声にはっとして立ち上がり、獏と並んで向き合う。腕組みして静かにこっちを見ていた親父と神さんの二人に、なんとなく獏と二人頭を下げた。どうして頭を下げた方がいいと思ったんだろう。少し考えて。
「ええと、お手数お掛けして申し訳ございません?」
「ありがとうございますが先じゃねえか?」
「無知は罪ではないからな。過ちもそれ自体は誰しも起こす」
謝罪も時には大切だ。間違いではないが、他者が自分を思いしてくれたことへの返答ならば感謝を先にした方が気持ちが良いだろう。
そんな言葉に獏と顔を見合わせて「「ありがとうございます!」」と声を揃えた。
「……でも、なんでこんな事になってたんですか、俺たち」
「……意識の集合体である以上、近くにあれば取り込まれる想像はしなかったのか。
特にお前達はよりゲッター線に近いから、混ざりかけたんだ」
なんとなくわかる。けどどうだろう。と首を傾げると神さんが説明してくれた。
もうこれしかないと、私がドラゴンを起こした。
私の肉体は死を迎え、今は『私』を維持した魂だけがゲッター線から幾分かのエネルギーを得ながら『ゲッター線に寄り添う』形になっている。
カムイを止め、拓馬、お前をゲッター線に乗せて無理矢理獏のいるここに飛ばした。それもこれもできたのは既にゲッター線の中にいたこいつのお陰だが。
――そこまでは良かったが、お前たちはゲッター線の子供たちだ。強大な敵とお前たちだけで対峙した時にも兆候はあっただろう。力が増幅するのも当然と言えば当然だ、お前たち自身がその塊のようなものなのだから。そして『ゲッター線に近く、個を理解しきれていなかった』から容易く混じりかけたんだ。
「……その話を聞くと、親父はなんでさっきの俺たちみたいになってないのか不思議なんですけど」
「俺か? 気合と根性と隼人のおかげだぜ」
あっさりそう言い切って自信満々に胸を張る親父は良い性格と性根もしてるんだろうと思う。なんかイメージと全然違う。
「そいつは我が強すぎて比較対象にならないから当てにするな」
呆れたようななにか諦めるような色が混じる神さんの声にやっぱりそうなんだ、と思った。実際に会ってみなきゃわかんないもんなんだな、なんて普通の事なんだろうけどしみじみ思った。
「『個』を失う、その本質を僅かなり理解したなら、行くといい」
お前達は似過ぎていた。異を唱える事もせず共にあるのは構わないが、お前達は別の存在だ。
相手に同じ部分を求めるのは、所詮自己愛の拡張に過ぎない。自分への同一化は他人の理解ではない。
なんだか小難しい話で、ピンとは来ないけど、きっと大事なことなんだろうと思った。
見上げた獏もなんだかそんな感じで真剣な顔で聞いていた。
……今ならなんとなくわかる。
『同じ』じゃなくて『違う』ことを知る事で、はじめて自分とか誰かの輪郭が見えるんだ。
「相手は自分と同じなど勘違いはするな。逆だ。違うにも関わらず同じ思いを持てることが奇跡じみているんだ、本当は」
「はい」とその言葉を頭に刻み付けながら頷く。今はわかりきらなくても、たまに思い出しては考えればいつかわかるかもしれない。わからないかもしれない。
きっとこの人はずっと俺たちに話したように生きてきたんだろうと、隣でなんだか誇らしそう(に俺には見える)な親父の姿にも思う。
……どうしてもっと早く色々教えてくれなかったかな、なんて不貞腐れたい気持ちは正直あった。
けど、多分、今じゃないとなんとなく心に引っかかって残しておくとかもできなかったかもしれないとも思った。
何回言われたって、大事なことに思えなかったら身に付かないし……実際、俺はあれだけ言われた母ちゃんの教えを守る気になれなかったし。
そうは、思うけど。
「……神さん、あんたは?
言うだけ言って、それだけなのか」
俺たちは、全然わかってなんかなかったし、こんな状態で放り出すなんて酷くないか。
だって、まだ、きっと、あんたに聞いてないことが沢山ある。
思うことは色々あって、でも言葉になったのはそんな子供みたいな不貞腐れていじけるみたいな声だった。
神さんが表情は変わらないまま、少し目を丸くして、口元を緩めた。
「……甘えるな」
微笑み、俺と獏の頭に手を置かれながらそう言われた。優しい仕草と声の癖にひどいと思う。ああ、でもわかられたんだなと思う。
白くて長い繊細そうな指に反して、武器を持ち続けたせいなのか分厚い皮膚と固い感触。今更になって、親父より父ちゃんみたいに思う時があったかもな、なんて。
「私達は生ききった。抗い続け、やれる事はやりきった。
今こうしてお前達に話せたのはロスタイムのようなものだ。私達がフィールドに立てる時間は無限では無い」
頭から肩へ手のひらが動いて、膝を落として俺と獏を覗き込んで来た顔が「わかるか?」と言い聞かせるように話す。
「――選手交代の時間なんだ、もう。
お前達は自分で考え、歩まなければならない。
それが私達が抗い続けた道に重なるかはお前達次第だ」
「お前達は私達では無いのだから」
わかってはいたけれど、とても厳しくて、優しい断絶に、涙を堪えて頷く。
「なに、翔たちもいるさ」と神さんは微笑んだ。
滲む視界を拳でぐいと拭って、目を合わせ「なら、橘さんに色々甘えます」と伝えてにっと笑ってみせる。
「程々にな」
ふっと笑いの混じる吐息と一緒にそう残して、神さんが下がると、黙って様子を見ていた親父が声をかけてきた。
「ああ、そうだバカ息子。一個頼みがあるんだが」
「……アンタいちいち本当にムカつくな」
なんでバカってつけるんだよバカ。内心そう毒づくも言われても仕方ない感じだったと思えば声にはならなかった。
「反抗期ってやつか? まあいいや、あんな」なんて頭をかきながら、親父が腰を落として目を合わせてくる。
そういえばこの人たち、大事な話をする時は目線を合わせようとしてくるな、なんてふと頭をよぎった。子供扱いでもしてるんだろうか、と最初は思ったけど、多分違うんだ。
「俺はひとりで十分だし、隼人の偽物なんざ腹しか立たねえから、魂のねえ人形が出てきても遠慮すんな。
死んだら終わりだから、代わりなんかいねえから俺は俺なんだ。わかるか?」
それを聞いて思い出したのは人造人間だという武蔵司令官の姿だった。あれは合理的ではあった。でも、なんだか良いものには思いにくかったし、『死』の恐怖を知った今なら尚更だった。
「……正直よくわかんねえけどわかった」
あれは、嫌だと思って良かったんだなと、親父の言葉で思う。少なくとも、親父は望んじゃいないとそれはわかったから頷いた。
「ん、ありがとうな。頼んだぜ」
にかっと笑ってわしわしと乱暴に髪の毛を掻き回された。なんにも似てないのに、手のひらの感触だけはなんだか神さんに似ていた。
離れていった手のひらと、その先の顔を見て……俺は深呼吸した。
「……なあ、親父。代わりに一個聞かせてくれよ」
ずっと、不思議だった。聞いたら、自分が信じたかったものが崩れそうで、聞くのは正直怖かった。
でも、今聞いておかなきゃ、俺は後悔するんじゃないかと思った。
「……アンタ、なんのために戦ってたんだ」
小さくなってしまった、震えてしまいそうな声はきっと目の前の親父にしか届かなかった。
親父は驚いたようにぱちぱちと瞬きして、聞かれたことを理解したんだろう。
「ばっ!? ――今ここでそれ聞くな馬鹿野郎!」
小声でそんな風な答えがあった。
「どうした、リョウ?」
「なんでもねえよ!!」
焦ったような答え、照れを隠すようなぶっきらぼうな声。
それだけで、なんとなくわかってしまった。
今までずっと胸の奥に小さな凝りのようになっていたものがスッキリして、引き換えに寂しかった。
はじめて、自分はひとりだと、孤独だと感じた。
悲しい、なんて思っていないはずなのに、なんとなく、そうなんだろうと知っていたはずなのに、自分でもわからないうちにあっという間に視界が滲んで涙が溢れた。俯いた自分の視界にぽたぽた落ちていく涙だけはっきりしていて。
泣き出した俺の隣でオロオロとするような獏の気配に、そうだな、お前がいたなと思い出す。
困ったな、と頭をかくような気配のあと、親父の声が少し近くなった。腰を落として、小さな子供に話すように「あんな」と語りかけてくる言葉が耳に入る。鼻をすすっても涙は止まってくれなくて、顔が上げられなかった。
「お前のおっかさんは俺からしたら愛し方わかってなかったのはそうだけどな、だからって全部白か黒かで分けんのはやめとけ」
そうすんのは簡単だし楽だけどな、世の中そんな単純じゃねえよ。いい思い出だってあんだろ?
そう問われて「うん」と頷いた。少し安心した。
母ちゃんは確かに欠点はあったし悪いところはあったけど、父ちゃんは母ちゃんを愛してた訳じゃないけど、それで全部否定しなくても良いんだ。
「そんでな、お前の血筋なんて正直俺にゃどうでもいいし関係ねえ。結局、親だって他人なんだからな。
……俺が言うなって? 言われても知らねえもんは知らなかったんだよ」
……けどな、
ぽん、ともう一度頭に手を置かれる感触があった。
「お前たちは、俺たちが望んで守った世界で産まれた子だ。
どれだけ今はしょうがなくても隼人が育てようと、守ろうとした子供たちだ。
だからな、下を向くな、前を見ろ」
言われて、恐る恐る顔を上げる。間近で見る親父の顔は知らない人間みたいで、多分本当にそうで。全然俺になんか似てなくて、妙にでかく感じて。
「拓馬。
お前は、間違いなく、俺の子だよ。
俺たちの子供だ」
そんな言葉と一緒に丸太みたいにぶっとい腕で抱きしめられた。ぎゅっと一度強く。痛くて潰れるんじゃないかと思うくらいに。頭を撫でる手は分厚くて荒れてて乱暴でガサツで、押し付けられた胸だってなんかにおう気がするしゴツゴツしてて、こんな事して欲しいなんて俺は全然言っちゃいなくて。
「おう、お前もだ」
「えっ、うわっ!?」
「獏をついでみたいにすんなバカ親父」
「うるせぇバカ息子」
笑いながら悪態をついて、それでも涙は止まらなくて。
「なんだ、ペンギンのハドルか?」なんて笑いを含むような優しい声と一緒に、背中の方にそっと寄り添うような支えるような体温と腕が重なって。
間近に感じる体温。何も怖くないサンドイッチ。こんな事、俺はして欲しいなんて頼んじゃいないけど。
俺は、少しだけ、声を上げて泣いた。
「次に会う時にはちっとはマシになってろよ。どうしようもねえバカ息子ども」
仕方ねえから未来の先で待っててやるよ。
――親父は最後まで腹の立つ奴だった。
なんにも「英雄」なんて感じじゃなくて、強いだけのその辺のただのオッサンだった。
けど、前より好きになれそうな気がした。
「お前達に出逢えた事は、悪くなかった」
親父と並んで、そう別れの言葉を口に乗せた神さんは、最後にふと優しい笑みを浮かべた。
「また、会おう」
きっと、あの二人の姿を、俺は忘れないんだろうと思う。
獏もじゃねえかな、そうだといい。
……いつか、カムイに話せる日が、来るといい。