■ 蛍の夜早乙女研究所からも街からも幾分離れた山近く。街灯もろくに無い砂利道の先、深い森を照らす三台の単車のライトばかりが眩しい。
昼間、胡蝶から三人一緒に蛍狩りにと誘われたものの、彼女が言った約束の時間からは優に三十分は過ぎていた。周囲を見渡しても車やバイクの近寄る気配も無い。
「なんだよぉ、ちっとも来ないじゃねえか」
張り切って早い時間に他の二人を引き連れて着いたものの、気が長くは無い弁慶が座り込んだままそう不満そうな声を漏らし、バイクに軽く寄りかかっていた隼人は苦笑した。
「さて、なんかあったか……それともすっぽかされたか」
「ここじゃ通信機もあまり通じないから、もしあっちに連絡が入っててもわからんかもしれんなぁ」
腕組みをしてサイドカーに腰掛けていた竜馬が腕時計を弄りながらそう話す。
出掛けることは伝えてきたが、百鬼帝国の襲撃があればすぐに戻らなければならない。遊びに出掛けた先を襲撃されたこともある。去年も今年も夏休みは満足に遊べた試しが無いな、と隼人は不意に思い小さく肩を竦めた。
「待つのは得意じゃねえんだよなぁ……よし、俺は一旦研究所に帰ってみるぜ」
「胡蝶さんになんかあったんじゃと思うと落ち着かなくていけねえや」そう言うが早いかシートに跨りエンジンを掛ける弁慶に隼人は眉を上げ、竜馬も立ち上がる。
「リョウ、ハヤト、お前らはどうする?」
「俺はもう少しだけ待ってもいいぜ」
「ハヤトが残るなら俺も残るよ、この辺でひとり待ってるのは心配だろ」
「わかった。じゃ、胡蝶さんがもし来たらよろしく言っといてくれ。俺も帰ったらおめえらに連絡するからよ」
話しながら既にバイクを走らせはじめていた弁慶の声が遠くなる。排気音に負けないほどの声で「また後でな!」と一度手を振って、暗闇にその姿が消える。闇を裂くようなライトの光が一筋、遠ざかっていった。
「……さて、どう思いますかね、リョウさんは」
排気音も小さくなった頃、隼人が首を傾げて竜馬に声を掛けた。
「なにがだい?」
「俺たちゃすっぽかされたんじゃないですかね?」
「ああ……まあ、そうかもしれんな」
事も無げに竜馬がそう言い、腕を組む。どうにも気の無さそうな返事に隼人は眉を上げた。
「なんだい、お前さんもそう思うなら帰りゃ良かったかな」
「いや、お前が残るならと思ってさ。
……なあ、ハヤト。折角ここまで来たんだから少し見ていかないか」
少し考えたような沈黙の後、珍しく控えめにも聞こえる声での言葉に隼人は目を瞬かせた。
「もう見頃も終わってしまうしさ。バイクをここに置いておけば、もし胡蝶さんが来ても近くにいるのはわかるだろ?」
「……いや、まあ、良いけどよ」
八月も半ばを過ぎていた。確かにそろそろ時期も終わるだろう。ここまで来て、そのまま帰るよりは良い。
そう思い承知すれば、竜馬が笑顔で隼人の手を取る。
「じゃあ、行こうぜ」
「行くったって、リョウお前、場所知ってんのかよ」
「まあな」
明るい声で返し、自信のありそうな歩みで森へ続く細道に向かう竜馬に手を引かれ、隼人もそのあとを追った。
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「足元に気を付けろよ」
「わかってるよ、お前さんは心配性かよ」
車道から森へ続く道はすぐに獣道にも近くなり、渡された白いロープと踏み固められた僅かな地面だけが人の行き来があることを知らせてくれる。
昼間はあれだけうるさかった蝉の声も夜となるとまるで聞こえず、どこからか遠く聞こえる蛙の合唱も時折山から下りてくる風が木々を揺らすざわめきにかき消され、不穏さを残して耳に残る。
夜にひとりであればこんな場所を歩こうとは思わない。昼間なら耐えられいっそ心地良くすらある「ひとり」の感触は夜には重すぎる。なにより、普通に危ない。
わからないはずはなかろうに、リョウの奴は図太すぎるんだ。背中越し、ちらと自分を向く竜馬の顔にどこか安堵するような気持ちを覚えながら隼人は足を進めた。
山中で野生動物に鉢合わせる事も避けたく、わざとらしく音を立て、会話しながらの道中は長くは続かなかった。
「ああ、着いたよ」
そう呼び掛ける竜馬の声に、隼人は注意を払っていた足元から顔を上げた。
すいと先を歩いていた竜馬の姿が横にどけば、森の中にぽかりと空白ができたような場所が隼人の視界に拡がった。危険は無いかとまず見る癖のまま、手にした懐中電灯で周囲をざっと照らせば、山から流れた川の末端にでもあたるのか水の動きが随分少ない池か沼を中心に背の低い草むらが広がっているようだった。幾分か人の手が入ってでもいるのか、獣道から水場までは一度草を狩り落としたように開けてもいる。森の中で聞こえていた合唱団の集合場所はここかと、一度耳につけば騒がしくすら感じる音に隼人は少しばかり苦笑した。
「確かこの辺に……ああ、あった」
隼人がそうする間にも、さして気にもとめていないように進んで池の周りを見ていた竜馬が懐中電灯を振って隼人を呼び寄せる。湿った土と草を踏んで近付けば、転がされた丸太を払って腰を掛ける竜馬がいた。
「あんまり綺麗じゃないけど、まあ座れよ」
パチリと懐中電灯のスイッチを切って、周囲を眺め始める様子に隼人も倣った。様子を見るに、どうも竜馬は以前来たことがあるようだ。誰と来て、何を思って自分を誘ったやら、と隼人は表情が見えなくなった竜馬に思った。
「しかしまあ、カエルは元気なもんだな」
「ああ、まあ胡蝶さんとベンケイがいたらベンケイの方が元気だったんじゃねえかな」
そう言って笑う竜馬の白い歯がちらりと見えた。
自然には無い明るすぎる光を落とせば、明暗差に慣れない視界が暗くなる。しばらく暗闇に目を凝らしていれば、ささやかな光に慣れた目が闇にものの輪郭を浮かび上がらせていった。
はじめはチカチカと数も少なかった淡い光が彩やかに、徐々に数を増やして目に映り始める。
水場や草むらからあまり離れずに、ばらばらに瞬くように明滅する小さな光。その向こう、波の立たない水面が月明かりを映しこんでもいる。
地上に星空を映したようだ。
そう感じて天を仰いでみれば、間近に瞬く光の向こうに天の川が見えた。
騒がしくすら聞こえた大合唱はいまや些細なものだった。
特別なにを言う訳でなく、ただ並んで場所と時間を共有する。
それを穏やかと感じ、苦ではなく、隣の気配を感じながら息をする。
ふたり、同じ時間を生きていた。
チカチカと瞬きながら近寄る一匹の蛍に、何気なく隼人は指を差し出した。
すいと止まった小さな光に目を細める。
「……人の魂、なんて話もあったな」
「言われてみればそうだな。ムサシの奴がいたりするんだろうか」
「あいつならミチルさんかお袋さんに会いに行ってそうだよ」
もしも母さんやムサシたちに会ったらよろしくな。隼人は胸のうちでそう呟き、そっと指をかざして離れていく光を見守った。
煌めく小さな光はすぐに闇に飛び交う幾つもの星に混ざって、隼人の視界には地上の空がまた広がっていた。
小さく息をつき、身体の横、腰掛けた丸太に手を付く。
竜馬の手が触れて、何気なくその顔を見やれば、こちらを見てひどく優しそうに微笑んでいる顔と気配があった。
時折、竜馬が見せるそういった表情は隼人には面映い。一瞬目を泳がせたあと、触れるか触れないかの位置の手はそのままに、前を向き直し隼人は口を開いた。
「そういや、リョウ。お前さん、なんでこんな場所知ってたんだい?」
「ん……一年の時にこの辺一緒に走った先輩から教えて貰ったんだけど……去年は、言いそびれちまってな。
そん時は昼間だったから、俺も見るのははじめてさ」
「なんだ、誰かと来なかったのか」
「そりゃ、だって、お前と見たかったからさ」
少しばかりからかってやろうかと用意していた言葉は、そんな竜馬の裏も表も後悔も躊躇いもなさそうな声にそのまま隼人の喉奥で霧散した。
「……」
目を瞬かせて見やれば、当の本人はキョトンとした顔で眉を上げた。
「ハヤト?」
「あのな」
「うん?」
「――いや、なんでもねえよ」
そうだな、お前はそういう奴だもんな。
呆れるような声で隼人が頬杖を着けば、どうした?とでも言いたそうに竜馬が首を傾げる。隼人が横目で見やった先、考えるような間の後、気を取り直しでもしたのかにこりと向けられる笑顔があった。
「まあ、だから、嬉しいよ。お前と見られて」
返す言葉に詰まっていると、竜馬の通信機が鳴り始めた。研究所に着いた弁慶からの通信は彼等が居ないうちに襲撃があったことや胡蝶からの伝言が残っていた事を途切れ途切れに伝え、しまいには安定しない電波にイライラとでもしたのか「イチャついてねえでさっさと帰ってこい!」と残して切れた。
二人で顔を見合せ、思わず笑う。
「イチャついてるってよ」
「そうかな」
「まあ、ベンケイさんがお怒りになる前に帰ろうぜ、胡蝶さんの連絡もあったなら安心だ」
「それは、そうだな」
軽い会話をしながら竜馬が先に腰を上げ、再び懐中電灯のスイッチを入れれば、眩しい程の光が足元を照らした。
「なあ、ハヤト。ありがとう、短い時間だったけど良い夏の思い出になりそうだ」
隼人の正面に立ち、手を差し出しながら、竜馬が言う。
「……俺も、悪くなかったよ」
差し出されたその手を取りながら、満足そうにふふっ、と笑う声が隼人の耳に届いた。