■ 腹の立つ奴、馬鹿な奴「お前はなんでそうなんだよぅ」
バタバタと顔に落ちてくる雫は温かく、目を瞬かせ見上げる赤い顔はぐしゃぐしゃで。
今しがたまで馬鹿とかそうじゃねえなどと文句を付けられながら板切れほどならかち割れそうな石頭で遠慮も無くガンガン頭突きされた額と床に打ち付けられた後ろ頭が痛いなんてものでは無く、気を失った方がまだ良かろうなどと頭をよぎる。
……泣き言を言うなんてお前らしくもない。
いっそ時に腹が立つほど「合理的」に、感情は隠して、自分の本音はろくに見せなかった癖に。
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――函館、五稜郭。
旧幕府軍はここを拠点とし、独立国家を築こうとしている。
そう勝海舟からの報せを受けた平九郎に連れられ、いつの間にやらすっかり意気投合していた黄鹿達と蝦夷地へ渡るまでも一苦労だったが、着いてからも休む暇などはなく、築城などに駆り出されながらもようやく一息ついたのが今日だった。
平九郎はおかしな奴で、甲板で甲羅干しをしようなどと誘って来た時からなんだかんだとズケズケこちらに踏み入りたがる節がある。着物から何から引っ剥がして素肌を見たがるのは婦女子だけにしておけ。全く無礼だ。その癖自分の腹の底は妙に見せたがらないのだから不公平というやつだ。
けれどもまあ、そういう奴なのだ。我ながら腹の立つ事に嫌いでもない。
だからニコニコと満面の笑みで何処で手に入れたやら図体のせいで小さく見える酒甕を抱えての、何度目ともわからん飲みの誘いに乗る事にした。
政府軍の攻撃が激化するのは目前で、自分にも思うところがあり、最初に頼めるのは悔しいながらこいつだろうと思った。
常日頃気を付けてはいるが、自制心を手放した見苦しい様など他人には見せられたものでは無い。平九郎は趣味が悪いのだ、まったくいただけない。
二人で飲むならと承諾し、いつ死んでもいいように全て整頓してある自分の宿部屋の方が広くて良かろうと「来ても良い」と話した途端に何やらなんとも不可思議な表情までしやがって、まったくこいつはわからない。
しかしまあ、上機嫌には違いなかった。
日も落ちかけた頃、ズカズカと踏み入ってどかりと胡座をかき、まあ飲めと何処からか持ってきた湯呑みに豪快に注がれた酒は白く濁るどぶろくで、なにがどうと言う訳でもないがなにか試されてでもいるのかそれとも嫌がらせかと一瞬頭をよぎって眉を顰める。
多分考えすぎだと一気に煽れば「いい飲みっぷりじゃねえか」などと喜色を含んだ声があがった。
自分は澄んで身が引き締まるような清酒の方が好きだ。けれど、野趣を残して懐が深そうなこういう甘い酒をこいつが好みそうなのも理解はする。まったく趣味が合わない、が。
「……悪くはない」
「へへっ、だろ」
「俺の好みでは無いが」
「ちえっ、ならお前の好みを教えろよ」
そんな軽口を叩き合いつつ互いにつぎあい、案外と静かに、奇妙な程に安心感のある時間が流れた。
だから、やはり、こいつに頼もうと思ったのだ。
暫く杯を重ねて、不意に会話が途切れた瞬間、意識してもいないのにぽろりと口からその話は零れていた。
「……ところで平九郎。お前銃ばかりだが刀は振れるのか」
「なんだよ、藪から棒に」
「いやなに、俺は逆賊として首を斬られるくらいなら武士らしく腹を切って死にたい」
だから、その時の介錯はお前に頼みたい。
言外に滲ませたものに気付いたのか、上機嫌だった平九郎の顔がピタリと強ばってあっという間に血の気が引き、それ以上の速さでまた赤くなる。こいつは酒が入るとわかりやすいんだなと自分も鈍くなった頭でぼんやり思う。
もしも政府軍に捕まりそうになれば、俺の首を持って突き出しお前達は協力させられただけだと言えばいい。実際に最初の形としてはそうなのだ。
俺は自分の信念を通し、お前達は生きる目が増える。これこそお前が言う合理的と言う奴だろう。
そうに違いない、と一人頷いていたのに、どうもこいつは気に入らないらしい。
「――だっ、誰がてめえの介錯なんぞするか! 口を開きゃ切腹とかお前ら武士って輩はそれだから馬鹿なんだ!」
ごっ、と床に乱暴に湯呑みを叩きつけて平九郎が怒鳴った。部屋の隅に置いた行燈の火が揺れる。
「それは聞き捨てならん!」
「腹かっさばいてもなんにもなんねえじゃねえか、俺は嫌だ!」
「お前はそうだろうが俺は違うのだ!」
身を乗り出してまで睨み付けてくる平九郎に、こちらも譲る気は無いと真正面から受けてたつ。
確かにこいつに武士としての振る舞いなど求めてはいない。が、しかし、ここまできっぱり嫌だと返され馬鹿と言われては不満にもなる。
お前は武士では無いと自分で言うし、それはわかっている。どうやったって俺もここは譲れんとはお前だって――。
「――もういい。土方さんに頼む!」
そうだった。こいつは俺とこんな所ばかり似ていて一度言い出したら聞きはしないのだ。
そう思えば腹も決まる。すっくと立ち上がれば何やら子供地味た声が耳を打った。
「な!? いやだ!!」
酒のせいもあり、ふらりと一緒感じた目眩に額を抑える。
「お前の好き嫌いは聞いてない、これは俺の矜恃の――」
「やだやだ、あいつのとこにお前行かせるのは嫌だ! 絶対やだ!」
まるで駄々をこねるような言葉の末に脚にしがみつかれた。ずるずると引き摺るにもこいつは図体がデカすぎる。
「お前は子供か!? いいから離せ!」
「いやだ! 離さねえ!」
「愁嘆場じゃあるまいし何を聞き分けの悪いことを」
「うるせえ! 嫌なもんは嫌だって言ってんじゃねえか馬鹿!!」
「誰が馬鹿だ阿呆!!」
「馬鹿に馬鹿って言って何が悪いんだ馬鹿!!」
ぎゃあぎゃあと喧しいし鬱陶しいし暑苦しい。意地にでもなったかのようにしがみつかれた脚が重い。
それに。
「なんでわかんねえんだよ、わからず屋!」
震える声に力が抜けた。そんな声を聞くなんて思ってもいなかったから驚いて。
ずるずるとそのまま引き倒されて覆いかぶさって来た平九郎の顔に丸くした目を瞬かせている間に額にガツンと食らわせられて。
「お前はなんでそうなんだよぅ」
それで、こうだ。
なんでお前が泣くんだ。意味がわからない。
お前だって知っていただろう。俺は死ぬつもりだなんて、会ったあの時に聞いていただろう。
どうしてお前は諦めが悪いんだ。俺はとっくの昔に腹なんて括り切っているのに。
死ぬ事は誰しも避けられぬ。自分はたまたま早いだけだったと。ならばこそ、その中でやりきるしかないと。
「死んだら終わりじゃねえか」
そんな自分の考えを見透かしたように不満そうな声が耳に届く。
これだから貴様は厄介だ。わかっていやがってこれだ。
馬鹿野郎。ぜってえお前の願いなんて叶えてやんねえ。馬鹿。わからず屋。頑固。石頭。馬鹿。
一度カッとなったらいきなり酔いが周りでもしたのか、ぐずぐずむにゃむにゃ言いながら力が抜けてのしかかってくる身体が重い。苦しいと背中を叩けば抱え込まれて横になる。
「そうじゃない、離せ」
「……やだ」
「こんなに酒癖が悪いなど聞いとらんぞ」
「お前が悪い」
俺は悪くない。なんだその言い方は。と、言いかけた言葉を飲み込んだ。
あんな事言うから。死ぬなんて言うから。
嫌だ、そんなの絶対。
許さねえ、絶対。
……どうして諦めてくれないんだろうな、お前は。多分そういう奴なんだ。
そんなに大事そうに抱え込まれたって、先も無い俺より一緒になんてなるつもりもない俺なんかより、綺麗で若くて未来もあって一緒に幸せになれる女にそれだけ熱を向けりゃ良いのに、そんな気は無いんだろう。だから阿呆なんだ。
「……武士は近いうちに滅びると、お前も言っただろう」
そんな事は自分だって知っている。それでもこの生き方を選んでいるのは、そこに人として生きる為の道があると俺は信じてきたからだ。
「俺は武士として生きて死ぬよ」
「……やだ」
わかっては――いや、わかってはいるだろうにそれで良しとはしてくれんのか、と宥めるように出した声はグズる子供めいた言葉で叩き落とされた。
「聞き分けのない子供はどちらだ」
「うるせえ」
はぁ、とため息ついて身体の力を抜く。押し付けられた胸元から鼓動が響く。いっそうるさいくらいに力強く。
鼻を啜って幾分落ち着いてこれだ。もう手が無い。
「……お前になら命をくれてやっても良いと言ってるんだぞ」
「命なんざ要らねえから人生寄越せ」
「それは……強欲にも程があるだろ」
俺は強欲で我儘な奴は嫌いだ。きっとお前の事なんか好ましいと思った数より腹が立った数の方が多い。
苦笑しながら思う。
けれども、それがお前なのだから仕方がない。
合わせてやるつもりなどは無い、お互いに。
だから、まあ、それでいい。
「……いいよ、いいさ。お前は武士のままでいいさ馬鹿野郎」
でも死なせてなんかやらねぇ。
やらねぇからな馬鹿野郎。
薄暗闇の中、ぎゅうとただ抱え込まれた腕の中で、こいつは阿呆だし、許してしまう自分も馬鹿だと思った。
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「なあ、新八よ」
「なんだ」
梅乱ごとサターンを海深くまで沈めて、あっちもこっちも何もかもボロボロの癖に、平九郎が勢いよくぐりんとこっちを振り向いて如何にも悪戯小僧のようにニンマリとした笑みを浮かべた。
「国を出ちまえば武士なんて関係ねえよな?」
「……お前がなんと言おうが魂は捨てんぞ」
してやったりとばかりに豪快に笑う、貴様は本当に何もかも合わなくて腹の立つ奴だ。