クリ想:めあきの恋/春、お散歩する二人の話。クリ←想「人はいさ、心も知らずふるさとは――」
何気なく呟いた僕の言葉に、クリスさんは戸惑ったように小首を傾げた。
「……?」
揺れる長い髪がクリスさんの顔の上を滑る。春の公園に咲いた梅の花よりも綺麗な顔だと思いながら、僕は下の句を告げる。
「――花ぞ昔の香に匂いける」
「想楽、それは?」
「紀貫之の和歌だよー」
百人一首にも収録されていると補足すると、クリスさんはゆったりうなずく。紀貫之から土佐日記に話を進めると適度なところで相槌を打つから、僕は梅の花がある公園が見えなくなるまで話してしまった。
「想楽は博識ですね」
ようやく話し終えた僕に、クリスさんはそんな風に言う。
「ジャンルが違うだけだよー。クリスさんは海専門でしょー?」
「そうですね。春といえばサワラの季節ですが、海に行った時にはサワラに気をつけてください。サゴチのうちから牙が鋭いので、怪我をしてしまう可能性もあります。私のお勧めは瀬戸内海で――」
少しでも話を振れば滔々と語りだすクリスさんの言葉を、さっきクリスさんがしてくれたようにうなずきながら聞いてみる。
何度海の話を振って、何度聞いても同じ話題が出てこないからクリスさんは面白い。楽屋で渡された海苔弁ひとつ取っても、白身魚のフライの話になる日もあれば海苔について言及することもあり、きんぴらごぼうを奥に追いやるバランからすらワカメの話を展開することだってある。尽きない話の種は愉快で、一方的に喋り続けることさえなければもっと楽しく聞けるのに、と惜しく思ったことも一度や二度ではなかった。
クリスさんが話すことのほとんどは、僕の知らないことだ。理解の及ばない話題は時おり異国の言語の気配を帯びて、神秘を嗅ぎ取るたびにクリスさんの知識の果てしなさを感じ取る。
深い知識の奥には、ただ海への愛があることが、今の僕には分かる。
「世の中に、たえて桜のなかりせば」
「――?」
試すように呟けば、クリスさんの反応は同じ。
クリスさんは物知りだけど知っていることは海のことばかりで、他の知識は僕や雨彦さん、プロデューサーさんに負けることだってある。僕が言葉を整え、和歌を口にするたび不思議そうな顔をするクリスさんを見ていると安堵が胸に湧いてくるから、僕は一歩大きく踏み出した。
「想楽?」
下の句は言わないことにした。
クリスさんが分からないと首を傾げて、新大陸だと目を輝かせるたびに僕の胸には安心が降りてくる。クリスさんには知らないことがあって、万能ではなくて、欠けたところがある――僕がクリスさんに抱く恋心は、恋のままでいられる。
子どもが大人に向ける尊敬とは、違う場所から生まれた気持ちなんだと分かる。
それが嬉しいから、僕はもう少しこの想いを温めていたかった。