一生、師匠ッスから「…もう、いいか」
仮想空間の事務所で男は呟いた。諦めの言葉を口にすると気持ちは加速してしまう様だ。
この世界はプレイヤーがプロデューサーとなり、担当アイドルを育成しプロデュースする没入型の体験ゲームだ。
最初こそ楽しくやっていたのだが、担当のイベントがなかなか回ってこなかったり、ガシャで引けないことが続きモチベーションが下がってしまったのだ。
また段々と現実世界の仕事やプライベートも忙しくなり、この世界に飽きた。
それでもこのアイドルには沢山の情熱とお金をかけた。だから例えバーチャルの存在でも最後くらいは挨拶をしておきたいのだ。
「師匠!」
そんな事を考えているとタイミング良く現れたアイドルに話しかけられる。ちょうど良かったと名前を呼ぶと元気良く返事をする。
それにしてもよく出来たゲームだ。リアルタイムで目の前のアイドルと会話が出来るのだ。まるで自分が本物のプロデューサーになっていたような錯覚さえある。だからこれを告げるのは罪悪感があるが、それでも自分は現実の世界を大切にしなければいけないのだ。
「ちょっとこれから仕事が忙しくなるからさ、事務所にあんまり顔を出せなくなると思う」
いつもロールプレイしている口調で伝える。嘘は言っていない。これもゲームを引退する時の一つのケジメなのだろうな、としみじみ考える。
するとアイドルはきょとんとした顔をするとそれは残念ッスね、と寂しそうに笑う。チクリと心は痛むがこれでお別れだ。
「…でも良いんスか?」
いつもと違う無機質な声と真っ直ぐにこちらを見る目に背筋がゾクリと震える。
「次の自分の上位イベント、季節の衣装なんスよ。だから今取らないと、いつ復刻になるか解らないッスよ?」
「いや、まぁそれはそうなんだけど…」
相変わらず見つめてくる目がなんとなく怖くなり目を逸らした。逸らして、そうして気付く。
「…今、なんて言った?」
「…季節の衣装なんで、いつ復刻になるか解らないッスよ?」
そうしてまたニコリと笑う。同時にドクドクと心臓の音が速まる。
ゲームの中の存在である彼が、この世界の仕組みを知っている口ぶりだ。メタ発言というやつか?いや、今までにそんな事を言うようなゲームじゃなかったはずだ。
「…師匠、まだ気付かないんスか?」
背中に嫌な汗が伝う。汗が伝う?仮想空間で?
「師匠が向こうの世界の存在だって、自分は最初から解ってるんスよ」
血の気が引いていくと平衡感覚を失い視界がぐにゃりと揺れる。
「だから、どうしてもこっちに来て欲しくて頑張ったんスよ?褒めてくれますか?」
アイドルの声が遠くから、近くから、上から、下から聞こえる。
「ずっと一緒に居ましょう」
「そ、んなこと、出来るわけないだろ」
ようやく絞り出した声はガラガラだった。情けない声だ。それでもアイドルは嬉しそうに笑う。
「じゃあ師匠。師匠はなんの仕事が忙しいんスか?」
そんなの、と続けようとして声が止まる。
仕事は繁忙期に入りそうで。プレゼンの書類を作って。営業回りをして。新しい取引先の開拓も。それで仕事を取ってきて。次はライブの。それから雑誌の撮影。いや。これはゲームの話で。じゃあ現実はなんの仕事を。あれ?だってこのゲームの軍資金だって必要で。あれ?何時に出勤して。そうだ、リハにむけて時間の調整を。何時に退勤を。それから事務所の備品切れてたって言わないと。あれ。家は。どこだっけ。
「自分の名前、言えますか?」
名前?名前を忘れるはずがないだろう。名前。なまえ。あぁ。アイドルは自分を師匠と呼んでいて。そう。だから。俺は私は僕は自分は
「師匠」
そっと近づいて来たアイドルに抱きしめられる。抱きしめられるって何だ。アイドルはゲームの中だけで。そう思うはずなのにしっかりとした感触が伝わって心地良い。気がつけば腕を回していた。
あぁそうだ。自分はずっとこうして。だから。ここは。ここが。
「師匠」
気が付くと目の前には満面の笑みで。最後の。何かが無くなる音が。遠くで聞こえた気がした。
「師匠は、一生師匠ッスから」