Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    いとう

    移行中なのでごちゃごちゃしていてすみません
    ツイ▶@itoufo

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 6

    いとう

    ☆quiet follow

    面倒なフェイビリ

    さえずり この手が今よりもずっと小さかった頃、連れられて行った春の森があった。風に揺られた青々しい葉が唸りをあげる。悲鳴声のように、明るい空の下この耳に残っていた。
    森の中でひときわ大きな樹木があった。存在を主張しているのに、周囲に溶け込むことを忘れない木だった。ごつごつしている乾いた肌に触れながら幹の周りをぐるりと歩いていく。突然指先から感触が失われて、不思議に思いその場所に視線を向けると暗闇があった。空洞だ。大きな穴が空いている。縁に手をかけて、そのまま吸い込まれるように身を潜らせた。そこはとても静謐な匂いがした。
    入り込めなかった右足の先が光に照らされる。耳を澄ましていても期待したような音楽は聞こえなかったが、この中に響く自分の呼吸は居心地を悪くさせないためには十分な音だった。
    いつからか、自分と木の境目が無くなり、目を閉じる。
    だと言うのにこの名を呼ぶ声があっさりと僕たちを裂いてしまった。ひどく名残惜しく感じながも穴から這い出た。
    鳥がするりとこの体に影を落とし、見上げてみると点になり、そのうち青い空に溶けていった。


    ボタンを押し込む時の反発する感触。このトレーニング内容にどの程度意味があるのか一度だけ考えたことはあるが、やはり全く無いものと判断していた。隣でコントローラーを握ったおチビちゃんが俺に負けたことで喚いているが、なんだかんだしっかり向き合おうとしているところはとても見習えそうにない。
    定刻を告げる硬質な音がスピーカーから流れた。壁に張り付くスピーカーは相変わらず無骨な姿をしている。言われた通りトレーニングを終えたならばあとは自分の時間だ。コントローラーをテーブルの上に置き立ち上がると、おチビちゃんの色違いの瞳が訝しげに見上げてきた。
    「何? これからは大人の時間だからね。おチビちゃんにはまだ早いかな」
    「fuck!! 」
    その声を聞いて笑いを漏らしながら、これ以上怒鳴られないよう足早に部屋の外へと逃げる。彼の感情の波は手に取るように分かるからとても楽だ。
    予定は特に何も入れていなかったので、これからクラブに向かおうかと考えてはみたものの、どうにも気が乗らなかった。他人の無理解からの視線、引きずり出そうとする無遠慮な手、一番にはしてくれない優しさ。
    この頭は他人に指摘されるまでもなく冷静さをかいている。
    キースの言葉の意味が分からないほど子供ではない、オスカーの杞憂を受けいられぬほど愚かでもない。
    ただ、それらを受け入れたら、ここまで意地を張りながら作り続けたこの身はどこへ消えてしまうのだろう。逃げ水のような、幻覚。漂白された正論はいつもそれ以外の色を許してくれない。
    エレベーターへと向けていた足を止め、身を翻した。

    目的地の近くまで来た時には、想定の中で十分起こりうることが光景として広がっていた。
    メンターのアッシュが余程頭にきているのか、ビリーを怒鳴り散らしている。だが当の本人はどこ吹く風で、額に青筋立てているアッシュとは対照的にわざとらしく身をすくませている。だが口元は隠すことを捨て去った笑みでいっぱいだ。その相変らずの様は妙な安心感を覚えさせられた。
    だが、このままではなかなか埒が明かなさそうなので、2人の近くまで歩みを進める。多分、一瞬ビリーが横目でこちらを見た。
    「ビリー、ご飯行くんでしょ。さっさとしてよ」
    発した声に2人はこちらへと顔を向ける。
    その後やはり一悶着あって、ようやっとビリーを捕まえることができた。ビリーは口元をほころばせながら、行く手を遮らないギリギリの範囲で忙しなく動き回っている。
    「DJが助けてくれるなんて思ってなかったヨ! やっぱり持つべきものはベスティ~♡」
    「いや、遊んでただけじゃん」
    ビリーの挙動には全くの無視を決めて受け止めながら、さっさと歩みを進める。速かろうが遅かろうが、どうせ彼には関係ないのだ。
    正直アッシュへ若干の同情も覚えるが、1度そのように見られてしまえば、しばらくはからかいの対象にされてしまうだろう。
    「アッシュパイセン面白いからネ! あれ、で、本当に食べに行く?」
    廊下を連れ立って歩く中、ビリーが首を傾げて視線を寄越す。作られていないその顔を横目で確認すると、少しだけ胸がすいた。
    「ビリーの奢りでね」
    「それはあんまりだヨ~!!」
    大袈裟に悲鳴をあげて立ち止まったその姿を置いて、エレベーターの方向へ向かう。
    「昔のDJはもっと可愛かったのに~」
    背にかけられた言葉に思わず振り返ると、もう既に全て知っているといわんばかりに自信満々の表情を浮かべていた。距離を再度つめてきて、この腕を無機質な手袋の感触が滑る。そうしてから、いつも通りの決められた笑みを浮かべた。
    「オイラにとっては、DJの小さい頃の写真を手に入れるくらい造作もないからネ!」
    何を思ったのか、自分でも分からなかった。ただ、そうしなければと思って咄嗟にビリーのネクタイを掴んだ。すると近づいた顔の奥、少しだけゴーグルの下、目を見開く。それから、その瞳をだんだんと細めていった。
    「ウソウソ、嘘だから怒らないデ~!!」
    そう言いながら躊躇なく抱きついてくる。首に回された腕の温度も知っている。もう慣れているし面倒くさいのでそのままにした。
    理解した上で愚かな道化の振りも惜しまない。そういうところが好きだし大嫌いだった。


    ガヤガヤした雑多な雰囲気の店はイーストの中央付近に位置していた。ビリーが薦めてきた飲食店だったが、乱雑な見た目に反して確かに味は良かった。アカデミーの学食を思い出す空気があった。
    プレートに乗っていたものを大方片付けた頃、ビリーはそういえばさ、とフォークを手にしたまま口を開いた。
    「DJのお兄さん、イクリプスの襲撃の時大変だったんだってネ」
    「何それ」
    「知りたい?」
    器用にフォークをくるくると回しながら言葉を投げかけてくる。持っていたフォークを皿に置くと、こちらの反応を楽しそうに見ているのをちらりとだけ見た。
    苦々しい気持ちを胸に覚えながらも一言口にする。
    「別に」
    彼はへー、そう、とだけ返事をする。だが、そこからこれまた実に愉快そうに口元を動かした。
    「詳しくは分からないけど、1日は絶対安静の中無理やり体押して戦ったみたいだネ。ヒーローの鑑~!!」
    温度が下がるようにみるみる食欲が落ちていくのを感じた。言葉に迷って手にしたコップから飲み込んだ水が食道を通っていく。この状況に妙な悔しさを覚えて、フォークを手にし直すとらわポテトに立てた。
    「ま、DJがそんなことしたら、俺っち心配で胸が張り裂けちゃうからやめてほしいカナ☆」
    そう言ってわざとらしく片目をつむってみせる。
    俺が口を開かないでいると、おどけるような笑みを浮かべた。食べ終わったソースで汚れたプレートの上に、固く無機質な音を立てながらフォークが落とされる。その指先ひとつで幻想を作り上げられるのに、食器を置くにも同じだけの動作が必要なことはとても不思議に思えた。
    「DJ」
    無遠慮にテーブルに肘をつきながら呼ばれた。道化ごっこに飽きたのか、いつもより少し低い落ち着いた声音だった。
    「ヒヨコのペーストの話は?」
    緩く弧を描く口元はいつもより楽しそうに見えた。普通のヒヨコとミキサーでペーストになったヒヨコの違いの話だろうか。
    「原子構成的には違いがないってやつでしょ」
    「それと大体は同じだヨ。今も昔もDJは1個の存在としては何も損なっていない。じゃあつ内的、若しくは概念的に変化があったはずだけど、何を失ったと思うのか。手放したことで得た物は何も? でも、そこに価値の有無を決めるのは誰かじゃない。結局のところ、全ての納得と理解を自身に与える事ができるのはDJだけだってこと」
    もう一度水滴に濡れたコップを掴み、水で様々な感情を飲み込む。ビリーも真似をするようにコップを傾ける。彼のグローブが濡れながら蛍光灯を反射し、曖昧な光を放っていた。
    おどける時とは違った理知的な雰囲気のある口角の上げ方をしながらビリーは続ける。
    「ついでにお友達としてこれはタダで教えるヨ。俺っちは、何が増えようが減ろうがどっちでもいい。全部踏まえて何をどうしたいか、どうするかの方に興味津々」
    他の客がテーブルにぶつかり小さく謝罪の言葉が述べられた。揺らぐ水面。
    「あ、もう1個あるヨ。ちょっと昔になるけどネ、思考実験で」
    さらにビリーは続けようとする。
    言おうとしていることは彼の言葉にしては伝えようということは分かるし、彼が何を考えてこんな話をしているのか少しだけ理解しなくもない。だが、これはあまりに
    「長いしウザイ」
    途端にビリーはわざとらしく眉尻を下げ、ショックを受けましたという顔をする。
    「あんまりだヨ~! オイラこんなに頑張って励ましてるのに!!」
    硬い音を立てながらテーブルを叩く姿は滑稽で笑いを誘った。
    「そんなに俺のこと考えてたんだ?」
    ほんの一瞬だけ顔が表情を失くす。それから、再び形作った笑みを浮かべながら身を乗り出して、顔を覗き込まれた。ゴーグルごしの瞳が、輝いている。
    「毎日ベスティのことばっかり考えてるヨ」
    口元に浮かんだ笑いはどこまでが真実なのか分からない。表情筋の動かし方、ゴーグルの下の目元の緩ませ方、いつもいつも同じ顔をしている。本当は顔なんて存在しないから、既製品のマスクを被っているように。ゴーグルの下の瞳は本当は何色だったのか、今もどこか分からない。
    「はいはい、じゃあお礼ね」
    スラックスのポケットから取り出したものを、彼の手元付近に投げる。綺麗な放物線を描いて硬質な音を立てながらテーブルの上に落ちた。不思議そうに自分の手元を見てから、ビリーは意表をつかれたのか表情から力が抜けていた。それに溜飲を下げながら言葉を口にする。
    「もらいもの」
    「もらいもの、ね」
    確認するように俺の言葉を繰り返して、包まれたキャンディを手に取る。その手つきが妙に優しくて、大事なものを手に取るようだった。それからこちらへ顔を向けて、柔らかく笑った。
    「DJ、アリガト♡」
    包みを破り、露出された赤い飴玉が口元へと運ばれる。ちらりと同じような色を持った舌が見えた。そこから臓器へ運ばれ彼のうちを構成する物へとなっていくのだ。彼がこの飴を口にしたことで何が変わるのか、俺はそんなこと知らない。


    気温は快適に保たれているはずなのに、寝苦しい夜だった。おチビちゃんももう眠っているようで、寝息しか聞こえてこない。こういう時は嫌でも自分と向き合わざるを得なくて呼吸をすることがとても苦しい。
    昔とは何もかもが違うのに同じであることを求めるのはひどく残酷なことだと思う。
    寝返りを打ちながら頭の中で繰り返す。ベッドのスプリングの感触が鬱陶しい。
    何かしらの目標、目的を抱いてやって来た者は幸福だ。当分の間はそれを食べて生き延びることができるのだから。十分な旅糧のおかげで遭難してもそう簡単に死にはしない。
    静かな空間の中自分の吐きだした呼吸音がやかましい。
    ビリーはお金のためと豪語するが、本当のことは何も言わない。だというのに、いつもいつも踊るような軽い足取りで踏み込んできて親切を押し売りしてくる。その癖代金は実の所求めない。今日だって結局綺麗に包装した言葉を準備して、知らない間に勝手に良かれと振舞ってみせた。
    じゃあキミは、受け取るのも億劫な優しさを、一体誰から与えられるんだよ。
    真夜中に突然目覚めてしまった怒りに近い感情を処理しきれなくて、シーツを握りしめた。様々な後悔が押し寄せてくる。もっと早く気づいていれば、なんて思っても、全部己で導き出した答えでなければ意味など無いと彼は笑うのだろう。
    乾いた笑いが喉の奥から漏れた。俺もキミも結局致命的に何も分かっていない。


    眠たいまなこを擦りながら、目の前のメンターの背中の後をついていく。クラブから帰ってそのまま行くパトロールも慣れてきたが、睡眠への欲求をかき消せるほど新しいことも起きない。幸いキースと2人でパトロールというのは、お互い気力に溢れるタイプでもないので非常に楽だった。
    見慣れた街並みは特に変化もなくとても穏やかだった。特に異常が無いことを確認しながら、その背中に声をかけた。
    「ねぇ、キース」
    「なんだ?」
    気だるげに返された言葉に1拍置いてから、
    「この間の……」
    前を歩く足が止まり、振り向いた。いつも通りだるそうな表情をしながら、胸ポケットに入ったタバコのパッケージを見せて彼は口を開く。その顔は幾らか土気色に見えた。
    「わり、タバコ休憩いいか?ニコチン切れてきた」

    男ふたりベンチに仲良く腰掛けるのも自分の中であまりしっくりこなかったので、キースの座ったベンチのひとつ隣に座りながら見ていた。
    トントン、と底を叩いて器用にタバコを一本咥えると、手をかざしながら使い古されたであろうライターで火をつけた。小さな傷が入った薄汚れたシルバーは、どことなく人を落ち着かせる色合いを持っていた。
    「灰皿持ってるの?」
    「おー、任せろ」
    黒い携帯灰皿を取り出して手にしながら言う。
    2度ほど紫煙が空中を舞ってから、ようやくキースは言葉を口にした。
    「俺も堅苦しいことは言えねぇし、ただ、人間何かあるんだよ。そこをどうにかしないと1歩も進めなくなっちまう時が」
    節くれだった指がタバコを軽く叩くと、白なのか黒なのか分からない灰が落ちていく。
    キースは俺の目を見ない。どこか、自分に言い聞かせているようでもあった。大きく紫煙が吐き出される。
    キースの瞳はとても落ち着いていて、かと言ってやる気のなさを全面に押し出している訳でもなく、ただ静かな男としてそこにいた。居心地の悪さを感じて一度座り直す。
    「楽に死ぬか、死ぬ気で死ぬか。後悔はしないようにしろってだけのことだ」
    「死ぬしか選択肢無いの、それ」
    呆れ混じりに口にすると、乾いた小さな笑いが耳に届いた。だが、その瞬間、うっと呻き声が聞こえてくる。口元に手を当てるキースの顔は蒼白だった。
    「や、やべぇ、ちょっと二日酔い残ってるんでな」
    そそくさと小走りでこの場を立ち去る様子は先程までの姿とは雲泥の差であり、その後ろ姿を黙って見つめていた。
    キースのことは嫌いではない。彼は多くを語らない代わりに物事を押し付けたりはしない。駄目な人間のように思えていたが、彼も確固とした考えを持っているのだろう。
    左手にした腕時計を見て、ここより先にある今日の終わりを待っていた。夕暮れの中、病んだ木にとまる鳥がひと鳴きした。郷愁を誘うように、か細い声だった。


    パトロールから帰るとまたかとしか言いようのない光景を見て、思わず嘆息を漏らした。
    怒るアッシュをからかうビリーの姿を廊下の先に見た。あれは完全に新しい玩具として捉えている。
    少し思案して、それから怒声の響く方角に足を向ける。
    「パイセンパイセン!暴力は良くないヨ!」
    「てめぇのふざけた態度を修正してやるって言ってんだ!」
    「オイラこれ以上真面目になんてなれなーい!」
    「あー!!いいから黙って歯ァ食いしばって立て!!!」
    悲しげな表情をこれほどかと振り撒きながらビリーが喚いている。それとは対象的なアッシュの心から怒りに打ち震えた叫びが、この寸劇のひどいパワーバランスを明確にしていた。
    近くまで来てビリーの少し離れた背後からその様を見ているが、アッシュが正直不憫に思えてくる。溜息を零してから、一歩ずつ距離を詰めた。
    「その不真面目さについて話すことあるんで、ちょっと借りていい?」
    意識していなかった突然の闖入者にアッシュは一瞬戸惑ったようだった。振り上げかけた拳を止める。だが、すぐさまこちらへ強い視線を投げかけてきた。
    「あ?てめぇもてめぇでチャラチャラして……」
    「ベスティさすが!!俺っちのこと理解してる~!!アッシュパイセン、大事な友情が今試されようとしているんだヨ!!いいの?!メンターとして!!繊細なルーキーたちのガラスのような心が傷ついちゃう!!!」
    目の前でまた脚本センスが皆無の不出来な寸劇が繰り広げられる。結論を言えば、思っていたよりもだいぶチョロかった。最後に苛立ちを隠そうともせずにゴミ箱を蹴っていったけれども、人間的にはそれほど悪ではないのかもしれない。
    彼の大きな足音と大きく息を吐く呼吸音が重なる。背を向けたままのビリーは何かに躊躇っているようにも見えた。その背中にどことなく非難するような意図を感じる。どうせマスクの被り直しが上手くいっていないのだ。それによる苛立ちを俺にぶつけられても困る。喜色を浮かべて手に取ったのは自身のはずだ。
    「DJが口出すなんて、オイラちょっと想定外だったヨ」
    声がいつもよりどこか張りがなかった。
    腕を組みながら壁に背を預けると、自分のつま先に視線を落とす。外からの帰りなせいか少しばかり汚れていて、自分が簡単に踏み出してはいけないと訴えかけているようだった。
    「自分ひとりなら楽に切り抜けられたのにって恨み言?」
    珍しく返事に少しの間が空く。姿勢を動かさないまま、こちらを見ようともしないでいる。その落ちた肩をじっと見ていた。ビリーは姿勢が良い。そう見せる意図を持ってなのか、無意識の産物なのかは分からないが、ずっと気づいてはいた。
    「動揺でも?」
    軽い笑い声を聞いたが、実際のところ笑えていないのなんて知っている。
    「DJはもう少し物事の構造がどうなってるか分かってヨ」
    無理やり気を取り直したのか、寸劇の最中に少しばかり乱れた髪を正すため軽く頭を振る。ゴーグルの角度をややずらし、いつもの姿を作り上げるよう注力しているようだった。
    「何をしたらこうなる、世の中なんてそんなもんデショ」
    軽い口調で吐かれた言葉に反発心がじわりと胸に生まれた。そんな単純に割り切れない人間が存在していることを知った上で口にしている。
    「だから、もうちょっと想像力を豊かにしてだネ~」
    「想像力ね」
    相変わらずこちらへ視線を寄越さないいつも通りではないビリーの、その肩を強く掴んだ。力を込めてこちらへ向かせる。空調の音がなぜか耳によく響く。こんな風に何もかもを力任せにしたことなんて1度たりとて無くて、どうしてか思うようにできなかった。
    「考えてるよ。キミのことなら」
    虚構に満ちた笑顔を彼に向けたのは、思えば初めてかもしれない。誰のためでもなく自分のためのこれは、甚だしくむなしいものだとよく理解した。
    振り向いた瞬間の、色の鮮やかさはひどく記憶に残った。人間のような表情をして、戸惑っていた。
    呆気に取られて僅かにくちびるを開いている様は胸がすいた。なにか言葉が発せられてしまう前にそれに噛み付いた。柔らかく温かい剥き出しの臓器は、話すよりずっと多く彼のことを物語ってくれた気がした。空気を求めるくちびるに、舌を潜らせながら更に深く押し入っていく。柔らかく肩を叩く手がうるさくて、上から手を掴んで肩に押し付ける。賢しい彼ならば本当は分かってる。お互いの胸を襲うものの残虐性に満ちた醜い姿を。体の場所を入れ替えて壁に押し付けた。
    馬鹿げたほどにとめどないキスをしていると、戸惑いがちにもう一方の手が首にかけられる。合間に上くちびるをひと舐めした。
    俺は言葉を話さないビリーも好きだった。それは多分、鬱陶しいとか煩い以前に、そのよく回る舌で紡がれる彼自身の分厚い表皮を排除できるからだ。強ばった表情筋、硬く握った指先、混乱を隠しきれない瞳。そういうのを見ると、燐便さえ抱けた。
    くちびるを離すと、耳上のバンドに手をかけ、ゴーグルを取り払った。怜悧な青い瞳が、哀れなくらいに焦りを浮かべながら見ていた。でも、救いを乞うようで全く求めていないのは他の誰よりも知っている。
    ゴム素材の部分を握りしめて、投げ捨てた。床に落ちながら軽い音を立てるのを聞いて、その瞬間ようやく意味のある言葉を吐き出せた。
    「もう、終わり 」
    暗幕が降りてもうすっかり薄暗い照明の下、誰も声を張り上げて大袈裟な身振り手振りをして存在を主張しない。
    ようやく落ち着いた光を灯した瞳が、ゆっくりと一度閉じられた。薄らとひらかれるコバルトブルーが姿を現していく。それから、彼は諦めに満ちた自嘲気味な笑みを浮かべた。
    「そっか、終わりかぁ。寂しいネ」
    逃げ場を失くした腕に力が込められて顔をより近づけてくる。瞳を細めて、無理やりに作られた笑顔をじっと見ていた。
    「バイバイ、"ベスティ"」
    寂しげに語尾が掠れた。ビリーは自分から顔を寄せてきた。


    リビングからTVの声と誰かのゆったりとした足音が聞こえる。
    「少し、静かにできる?」
    そう言葉にすると小さくビリーは頷いた。震えたくちびるが愛しくて、もう一度キスと落とした。既に体の内側に侵入しているものを再度奥まで進ませると、呻くようなくぐもった声をあげた。荒い呼吸の中、ぼんやりした瞳をこちらに向けて、苦しそうに笑った。深い深い水の中に溺れてしまった中で浮かべた笑みのようだった。
    背中に腕を回してきて、少し浮かせた顔を媚びるように首に擦り付けてきた。
    この汗も熱も合わさってしまった感情も、ひどい夢だと言うのなら、教えてやればいい。
    熱で浮かされてもうどうしようもなくて、見ないふりをしてみても、でもやっぱりどこにも行けなかった。
    腰を少し引くとひゅっと喉からの呼吸音が聞こえた。
    「待って」
    抑えた声とともに、背中に回された指先に力が入っている。そのことを理解しながら、額と額を近づける。
    「ビリーはさ」
    肺まで届かなさそうな浅い音がくちびるから漏れている。縋りたいのか押しのけたいのか分からない肩に添えられた手が微かに震えている。
    「いつも俺に優しくない」
    苦しげな顔をしながら、少しばかり瞳を見開くのを見る。問いただされてしまう前に、噛み付いて口を閉ざしてしまった。よく回る舌は今はもう彼の理想通りには動かない。
    引き攣るように息を吸い込む音さえも愛おしくて堪らなかった。


    無防備に目を閉じるビリーを見た事はある。
    呼吸と風のわななきが合わさって、静かにひっそりと音を重ね合わせていた。
    安堵して目を閉じる姿はひどく新鮮だった。大地に預けて何も心配はないのだと全てが訴えていた。
    ばさばさと音がして空を仰ぐと、鳥が飛び立った。
    「ネコマネドリ、コマツグミ、ノドジロシトド」
    鳥の鳴き声でその種類を当ててみせた。知識が豊富なことは知っていたが、鳥にも詳しいとは思っていなかったので、少々驚いた。
    足元の土を軽く蹴りえぐらせながら、その行方を見る。振り向きもせずただただ飛んでいく鳥の羽はいつまでも青い空に傷跡を残すようだった。
    「アカデミーサボって男2人で公園で昼寝なんてね」
    俺の軽口に少し口元を緩ませてから、彼は言葉を紡ぐ。建物の中にいる時よりずっと健康的で、瞳をきらめかせていた。
    「いいんだヨ。2人だから楽しいんだから」
    それには少し納得して、俺も芝生に体を倒した。青々しい匂いが広がる。どこまでも遠い空が見下ろしている。十分に予感はあった。


    その頬に人工的な弱いあかりが注いでいた。
    手を当てると、その光はこの手へと移って行く。ビリーは閉じていたまぶたを開いて頬を緩めた。
    「『この世は手回しオルガン。調べにのせて皆踊る』」
    疲れをにじませた顔で、歪に笑う。体を起こし、そして、今度はゆっくりと俺に覆いかぶさってくる。その瞳の奥に何が存在しているのか知りたくてじっと見ていた。夜の海に沈んでいく人々が見えた気がした。人を引きずり込む渦を作り、船乗りたちを難破させ、容赦なく喰らう。引き返せないところまでもう船は漕ぎ出してしまった。
    暗闇の中懸命に集めた光を宿し、青い瞳が歪む。
    「誰が回してるかなんてどうでもいいヨ」
    どこかで拾い集めた言葉たちを掌で弄んでから、作りを理解するとあっさりクズカゴに投げ入れる。体内に含まれて消えていける分、よく口にするキャンディの方が余程大事にされている。
    「そんなのはいいから」
    生ぬるい手が頬に添えられる。
    「踊れる?」
    問いかけの形をかろうじて保った確認の言葉に音もなく笑ってみせると、後頭部に手を緩くはわし、重力に任せて落ちる髪を手でとく。落とされたくちづけは、ずっと望んだものだった。
    悪意のない小さな笑い声が聞こえる。

    目まぐるしく色の変わる鮮やかな色合いのライト。たくさんの人影が落ちている。目の前の顔も自然な黒に阻まれてよく見えない。軽やかな足音はけたたましく響く声にかき消されていった。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    いとう

    DONEフェイビリ
    まぶたの隙間 橙色にきらめく髪が視界に入ると、ひっそりとゆっくりとひとつ瞬きをすることにしている。
    そうしている間に九割以上向こうから「ベスティ~!」と高らかに響く声が聞こえるので、安心してひとつ息を吐き出して、そこでようやっと穏やかな呼吸を始められるのだ。
    それはずっと前から、新しくなった床のビニル独特の匂いを嗅いだり、体育館のメープルで出来た床に敷き詰められた熱情の足跡に自分の足を重ねてみたり、夕暮れ過ぎに街頭の下で戯れる虫を一瞥したり、目の前で行われる細やかな指先から紡がれる物語を読んだり、どんな時でもやってきた。
    それまでの踏みしめる音が音程を変えて高く鋭く届いてくるのは心地よかった。
    一見気性の合わなさそうな俺たちを見て 、どうして一緒にいるの?と何度か女の子に聞かれたことがある。そういう時は「あいつは面白い奴だよ」と口にして正しく口角を上げれば簡単に納得してくれた。笑みの形を忘れないようにしながら、濁った感情で抱いた泡が弾けないようにと願い、ゴーグルの下の透明感を持ったコバルトブルーを思い出しては恨むのだ。俺の内心なんていつもビリーは構わず、テンプレートで構成された寸分違わぬ笑みを浮かべて大袈裟に両手を広げながら、その後に何の迷いもなく言葉を吐く。
    8533

    recommended works