タペストリ激しい衝撃はは何の苦痛も無い。置いてきぼりにされたそれはオイラを捉えることはできない。
もう一度足を踏み出して、糸を手繰り寄せながらグレイが囲まれている場所目掛けて重力に任せた蹴りをかます。
イクリプスと一緒に思ったより地面が抉れたが、もちろん体も痛くない。埃っぽい手を音を立てながら払う。吹っ飛んだイクリプスはその場を動けないまま沈黙していた。目標は全て殲滅。減点対象はどこにもない。安心のあまりひとつ大きく息を吐いたオイラをグレイは心配する意図を持って瞳を向けてきた。
「ビリー君、大丈夫?!」
開口一番放たれたそれに、オイラは視線を外して簡単に頷く。
倒れてから幾ばくもないイクリプスを検分していると、ふいに背後から声が聞こえた。
「ビリー君はすごいよね」
なぜ?と振り返って答える前に、グレイが言葉を続けた。
「僕が困ってる時、いつも助けてくれる。ビリー君はやっぱりすごいや」
やや高揚したように満面の笑みを浮かべるグレイをまともに見られなかった。輝く瞳を見れなかった。
「当たり前のことしただけだヨ~」
今更、彼を嘘の海に流そうなんて思えなかった。
煩わしい苦痛との共存はごめんだ。
だが、これは偶然食べてしまった知恵の実で、いつか自分自身がその報いを受けるのだ。
上手く動かなくなりかけている左足の関節が聞いた事のない音を立てた。
ビリーが無理をしているようだ。
そんな、いつの間にか知らない間に秘密にしようとしていたことが知らされていたことに、憤りはしなかった。ただ、幾らかの失望を覚えた。この失望は自分勝手なもので誰に当たったところで否定の言葉しか浴びることのできないものだ。イーストの誰かであることは分かっている。おおよそジェイだろう。
いつの間にか体に苦痛を覚えなくなった。それは自身の体のリミッターを外せることでもあって、同時に危険も孕んでいる。それはそれで良いと考えていたが、こうしてまともな意識の下におかれてしまえば色々なものがつまらなく感じた。
でも、そこを突き詰めれば何の夢も無い現実的な話にしかならないので、くちびるを閉ざすことにした。
元々こうして異常な能力を手に入れた以上戦うことを否定されてしまうのはおかしなことだ。
どれもこれもが狂っている。その狂いを綺麗に整えて身内にも周囲にも吐き出すのがこの組織だ。だが金払いの良さにだけは文句を言えなかった。
丁寧に素肌首に触れながらヴィクターは言葉を発した。緩やかな彼の髪が妙に目立った、
「なるほど。痛覚を無視するサブスタンスですか。無理をしすぎですね。関節に強い衝撃があったのでしょう」
まるで立派な医者のようにそう告げるヴィクターは、さらに膝や腕、首に柔らかく触れてから満足そうに告げた。
「左踵の骨にヒビが入っていますね。関節にもだいぶ無理を強いたようですが、幸い激しい異常は見られません。踵のヒビさえ治れば普段通りで構わないでしょう」
「待って、それって治れば無茶していいってことだよネ?」
元クライアントに向けた笑みは受け取られるこことすらなく、彼はレントゲン写真に注視して意図を汲む気は無いとはっきりと示した。
「壊れることを恐れて結果を捨てることは愚かです。私は何も言いません。必要な時に必要なことをするといいでしょう」
自分だけが全部知ったような口をきくこの元クライアントが嫌いではなかった。優しさというオブラートに包んで隠すことを知らないからだ。彼は彼の世界を中心に生きて、きっと誰のせいにもしない。
彼の背中を見ていた。これまでの資料を探すため腰をかがめていた。腹が立つくらいに人間をやっていた。背中にナイフを立てれば人間的な悲鳴をあげてくれるのだろうか、いや、それはないな、そう考えたところで、自己完結して白い部屋の終わりを迎えた。
淡い街灯に照らされながら手のひらから鮮やかな鳥や花々を取り出す。
わっと一瞬声が上がり、良い気分に浸る。このグローブ越しの手から発した幻想は確かに人の足を止め、驚愕させていた。
オイラに憑いてしまったサブスタンスのせいで、ジェイからは戦闘に参加することを禁止されていた。ヒーローにせっかくなれたのにそれを奪われるということは、考えていたより重かった。ヒーローになるために努力した自分、蹴落とすために汚い手段を惜しまなかった自分。
それらが胡散して残ってしまった自分一人はただ愛するマジックを披露する若造だった。
まだ明るさの残る世界。夜には夜のマジックがあるが、人目につくにはこの時間帯が一番だ。夕闇の世界の中永遠に終わらないを作り上げるのはとても楽しかった。
場所は選ぶので客入りは悪くない。知らない顔が、知らない表情を向けるだけ。お父さんを思い出した。あの人は観客の数など気にせず培った手先によって人の想像の裏切りを作り続けた。オレよりもずっとすごい人だった。
指先から幾らか惜しげに最後の極彩色の鳥が飛び立ち終わりも迎えてからいくらか経ち、人々は去っていった。だというのに、一人うつむきながら残っている少女がベンチに座っていた。どこか遠くを見るかのように、ビリーを通り過ぎてずっと先を見ていた。
こちらから声をかけるのは逆に失礼だろうかと思った矢先、彼女は声を発した。
「すごく、素敵でした」
思ったより低めで、予想外の声に思わず顔を上げた。誰の邪魔もしないようにと、静かな声だった。
控えめな声の中で必死に振り絞ったのだと理解した瞬間、微かに胸が温かくなった。
彼女は今にも泣き出しそうな顔だった。その中で発せられた精一杯の声だと理解できた。
「その、私の父もマジシャンだったので、あなたのマジックを、楽しみにして来ていました」
いつもは多弁なくちびるがこの時ばかりは言葉を紡ぐのに時間がかかった。
ようやく口にできた言葉。笑顔は上手に作れているかな。
「オイラと一緒だね」
暗くなった公園の街灯の下、アイスを食べながら彼女の話とオイラの話を交互に交わした。時折零れた沈黙は不快なものではなかった。駄目なところもあって、でも愛すべき箇所に溢れるマジシャンの父親。
感情を共有していた。彼女はオイラであり、オイラは彼女でもある。愛するものが同じであることは、こんなにも親近感を覚えさせるのだと知った。
彼女の父親はそれほど有名なマジシャンではなかったようだった。けれども、その手から紡がれる終わりを告げるアコーディオンの音は誰にも負けないと彼女は興奮ぎみに話した。彼女がそう言うのなら違いないのだろうと、微笑む口元を止められなかった。
垂れかけたクリームを舌で舐めとった。
オイラは彼女と出会い、初めて郷愁というものを覚えた。それは一般的なものとは違ったが、確かに愛おしいものだったのだ。空想の中で、オレとお父さんと彼女の父が素晴らしいマジックショーを広げるのを想像した。派手に相手の意思を無視したようなマジックの後に、彼女の父が人の心に寄り添った音楽を奏でるのだ。観客はそれに陶酔し、感涙し、全ては終わる。そして後には何も残らない。
彼女に恋心は抱いていなかったのと同時に、彼女もそれは同じだった。ただ、寂しい人間同士優しくいたかった。
「あ」
DJを無理やり付き合わせて部屋に置く棚を買いに行った時だった。欲しかったサイズの物は手に入ったし、日差しは明るいし、気温も不快感がない、全てが万全な一日だった。
控えめなボブカット、目立たないよう溶け込むような服の色合い。誰も私のことなんて気にしないでくださいと訴える背中。
前方を行くその人物になるべく大きな声をかけぬよう早足で近づいてから口を開いた。顔をのぞきこみ、彼女に自分を主張した。
「今日はオフだけど一応マジシャンのビリー・ワイズだよ」
こちらに顔を向けた薄化粧の彼女は一瞬驚いた様子を見せながらも、微かにくちびるを揺らした。
「びっくりしました」
「野暮用なんだ 」
笑みを浮かべてからそのままつい話し込んでしまい、一瞬振り返ったDJは今まで見た事のない表情の中にいた。荷物はきちんと自分の手の中にあるし、彼を不機嫌にさせるものは何一つない。連れてくるまでは「何でオレが」とか言いながらも拒否はしていなかった。少しばかり考えていると、DJは足早に近づいてきた。そして、彼女に話しかける。「ビリーの友達?そうなんだ」自己完結したその問いかけに、少しだけ、ほんの少しだけ違和感を抱く程度には抱いたが、彼は彼女に雑談をしかけた。脳裏には簡単に体を捩りながら服を脱ぐ彼女の姿が思い浮かんだ。
許せない気持ちを抱いたのは、このほんの少し後だった。そこには散歩する兄弟たちがこの世の憂いも知らずに足を均等に動かしていた。
カフェの2階に呼び出された時、彼は既に席についていて、いつも通り気だるそうに、だけどどこか憮然としていた。オレを見つけると、馬鹿にしたようなその視線に思わずくちびるが緩く震えた。用件なんて分かりきっているけど、それでもその向かいの席に堂々と腰を降ろす。
飲み物を注文した後、彼は手にしたシュガースティックを弄びながら口を開いた。こちらを見る瞳の中には嘲りすら感じた。
「確かにカノジョとは寝たけど、それがキミにとって何か不都合だった?」
あっけらかんと恥知らずに言葉にするDJに言葉も出なかった。指をひとつ折り曲げ、ふたつ折り曲げる。
「初めて会ってから二日後くらいかな、偶然カノジョに会って、行き先が一緒だった。そしたら言われたんだよ『好きです、付き合ってください』ってね」
目の前がぐるぐると回っていく。自分の中の彼女の姿と実像との違いを受け入れづらかった。
「何でオイラに今そんな話を?」
「知らなかったら拗ねるかなって」
目の前の飲み物の氷が溶けて奇妙な乾いた音を立てた。
「オレが拒否しないのなんてとっくに知ってるんだから、何に傷ついたフリしてるの?」
余裕を持った顔つきでそう問いかける。
「違う」
本当は自分の頬額口端全て触れて自分が何も感じていないことを確認したかったが、そんな余裕はどこにもなかった。
「オレは何も事実以外言ってないよ」
起こったことの何もかもをそう言ってしまえば世の中は簡単だろう。ただ、オイラが憤っているのはそこではなかった。
「そうさせたのは、キミだって言ってるんだよ!!!」
思った以上に大きくなってしまった声に、周囲の瞳が集まった。精一杯吐き出した音に動揺することも無く、フェイスは笑みを深めた。
「選んだのはカノジョだよ」
満足そうな彼の笑みにまみれた顔を見て、はっきりと理解した。
彼はオレの世界から彼女を奪うことで、嗤ったのだ。ぐるぐると廻る感情の波を押さえつけるのに必死だった。さらには都合が悪くなればカノジョの処遇をオレにさせようとしている。そうして姑息な方法でオレを殺そうとしている。椅子から立ち上がり、後ずさりしながら荒い呼吸を抑えきれないままくちびるを開いた。
「全部が思い通りになると思うなら、夢でも見てなよ」
勢いよく力がかかるよう背中から飛び込んだガラスは予想通り簡単に割れた。空はどこまでも青く美しかった。
体のどこも痛くない。苦痛を忘れたこの体はどこまでも自由だった。
飛び降りることで味わう痛みなど、もっと別の次元に存在する。
怒りのあまり飛び出してからは1日目は静かだったがその後からはしつこいくらいの連絡が入ってきていた。
『どこにいるんだ?本当に心配している』
『大丈夫?すぐ行くから場所教えて』
『テメェがいねぇとガタガタうるせぇから生きてるか死んでるかくらい連絡しろ』
衝撃の中でも無事だったスマホにそんなメッセージが届く。でも、大丈夫じゃないよ、助けて、そんな馬鹿げた言葉を送れる人はいなかった。
体に刺さったガラス片を抜くのに苦労したし、血を止めるのにも大変だった。痛覚が無いということは考えた以上に不便なのだと心底思った。
情報屋同士特に懇意にしていた人物のところで世話になっていた。職業上隠れるということは必須なのだ。もちろん彼がピンチの時には世話を焼いたし、意外と悪い関係ではない。さらに言えば至極ドライなところがいい。埃が舞う部屋は頭にきて掃除してやろうと思ったことも1度ではないが、それすらも彼の部屋の一部なのだと思うとそういう気も自然薄くなっていった。
「で?情報屋も難しくなったただのヒーローが何してんだ?」
振り返りもせず缶ビールを傾けながら彼は問う。雑に伸ばされた癖毛は相変わらず伸ばしっぱなしだ。
「休業中ってとこかな」
「高給取りは羨ましいこっちゃ」
「全くもってその通りだネ」
仰向けになると、安物のパイプベッドが不愉快な音を立てた。部屋を見渡しても視界に入るのはPCとそれに向かう背中、インスタント食品の山々。そして酒しか入っていないであろう冷蔵庫。独り言を呟きながら仕事に向かう彼は温くなったであろう缶ビールを煽った。
「冷蔵庫からビール取ってくれ」
「素面のがいいんじゃない?」
「酔ってる方が勘が働くんだよ」
肩をすくめながらも起き上がって小さな冷蔵庫から一缶取り出し、彼の左手付近に置いてやった。
「サンキュ」
画面に釘付けなまま左手でプルトップを開けてそのまま口元に運んだ。
「甘えてるだけだろ」
突然の言葉に息を止める。自分の感情をどう紡げば上手く伝わるか分からなかったが、そう考えると何もかもが違う気がした。
同時にスマホが反応する。
届いたメッセージに目を通して、彼の背中に立った。宿代と感謝を込めてマネークリップで留めた札束を机の端に置いた。
「ありがと」
振り返りもせずその地下室の扉を開いた。多分彼も仕事に夢中で何も気づいていないだろう。ある時居ないことに気づくが、すぐに仕事に戻る。湿気を感じる重苦しい夜で、呼吸がしづらかった。
彼とオイラのことを考える。踏み込みすぎず、上手いことやってきていた、ずっと。オレは彼が様々な女の子と付き合って時折カノジョたちに情報も流すし片付けもしてきていた。隣を歩きながらオイラたちはきっと上手くいくだろうと横の彼を見て笑った時、彼は不自然に真剣な顔をしていた。いつもより瞳には覇気が無く、何かに困惑しているようにも見えた。夕陽の中、そういったDJを見れば女の子たちはさらにはしゃいで見せるのだろう。その女性たちをきっと今の彼は一蹴してしまいそうなくらいには、彼の周りに匂う孤独さは激しかった。彼は、多分傷ついた己の修復方法に考えを巡らせていたのだ。
「そしてきっと、見つけた」
ポケットに突っ込んだ手を握りしめた。
たどり着いて待っていた彼を見た時、ナイトプールの水面をじっと見つめていた。まるでこれから溺れることを望んでいるようだった。持つべきものは友達だよねぇーと呑気を装って言葉を紡いでから、くちびるを動かすのをやめた。
オイラと彼は友達だったっけ?
いつもの制服姿の彼は、何一つ変わりないように見えた。
「オレの友達だったカノジョ元気?」
「ああ、もう別れたよ。思ってたのと違うって」
途端燻る苛立ちを煽るように軽く言い放つ。他人に粗雑に扱われることを許せないくらいには、彼女はオレでもあった。
彼が与えたものが喜びなのか失望なのか分からないまま、彼は勢い任せにオイラの襟首を掴んだ。本来怒ってそう扱うべきなのはオレのはずなのに、当然のようにそうしてきた。
表情は歪むことなく綺麗なままで、出来すぎたくらいの微笑みすら宿していた。
「何でこんなことを?」
「望んだから」
「誰が」
「誰だと思う?」
その場で彼を蹴飛ばさなかった自分の自制心は褒められるべきだと思う。
彼に対してこんな感情を抱くのは初めてで、彼自身がこんな風に人の心を無視するのも知る限り初めてだった。オレの心の内を知ってか知らずか、視線を水面へと向けた。
「あれ、何か浮いてる」
指さした方向を見る。何か特別な物も見当たらず自然と少しだけ体を乗り出した。
その瞬間だった。
背中を強く押されて水面へと顔を埋めるはめになる。呼吸の苦しさに水面から顔を上げると、無表情な瞳が待っていた。けほ、と喉の苦しさを払うようにしてから深く呼吸をした。
「どういうつもり?」
「まだ分かってないフリ続けるの?」
フェイスの言葉の意味を持て余して、くだらない言葉で誤魔化す。
「水もしたたるなんとかって?ありがたいね。DJに言われるなんてそれは光栄カナ」
「ごっこ遊びは、もう辞めよう」
水面の上顔を出しているだけのオイラにDJはそそう告げた。
表情筋を動かすことすら忘れて、彼の冷ややかな顔を見ていた。生々しくてお互い忌避してきた毒の臭いがする。
「オイラがキミに怒るなら分かる、でもキミの行動は全く理解できないヨ」
軽く水をかいてプールサイドへと近づいた途端、硬い木製の何かで胸元を突かれた。それと同時に、濡らさぬよう手で持ち上げていたスマホを取り上げられた。
「ちょっと、何してるの?!」
思わず上げた非難の声に、表情1つ変えることなくそのスマホを手にしていた。指先が緩やかな動きを描く。何の操作をしているのか全く分からない。
作業が終わったのか呆然としているオレを見ながら口を開いた。
「カノジョの連絡先、消しておいた。彼女とまだ連絡取りたいとか頭のどこかで思ってるんでしょ?」
「消す?」
意味が分からず繰り返し、結論として思わぬことにどこか頭のネジが外れたのかと考えた。
「待って、おかしいでしょ。オイラとキミは何?どんな権利があって」
「キミが言うならベスティなんじゃない?」
「親友はそんなことしない」
「なら、ベスティじゃない」
乾いた声音でそう告げると、再びデッキブラシの柄を水面に下ろし、緩やかな波紋を作った。それがとても静かすぎて、言葉を挟むことができなかった。
「オイラはあのこにどんな顔向けができるのさ」
同じ孤独を短いながらも共有した相手。それは他の誰にも替えがたく、彼女がフェイスと付き合っていてもそれはそれでいいとも考えていた。
「何に執着してるの?彼女といい仲になれれば自分はふつうになれるとでも思った?」
普通という言葉が妙に力が入っていた。
彼が何に必死なのか少しだけ察して思わず喉の底から笑い声をあげた。彼が求めるものを少しだけ理解した。彼の瞳の中に表情を失ったオレが写っている。清潔な顔をしながら、彼は既にどす黒い汚れた感情を知っていた。
「当たり前に存在するオレを探さないでよ」
「そう教えこんだのはキミでしょ」
再度デッキブラシの柄で水の中に押し返される。
あまりに粗雑な蛮行に、思わず声をあげた。最早何を告げたところでこの男の精神世界は揺るがない。
見合げた空は星一つ浮かばない憂鬱な夢もくそもない世界だった。
「きみを見損なった」
小さく息を飲み込まれてしまいそうな音を発した。
「何由来で?そこまできちんと説明してよ。じゃないと分からない」
喉に入ってしまった水が残ったまま、オイラは上等に笑って見せた。
「その棒切れで、オレが浮かばなくなることに感動を覚えてる」
フェイスの顔が強ばるのを確かに見てから、
苦しい喉からさらに言葉を吐き出す。
派手派手しい緑のブラシがついた手元のデッキブラシは彼に似合わなすぎたが、それを持つ右手が微かに震えてようやくひとつになれたようだった。
「例えば優越感?」
言葉にしてみると馬鹿馬鹿しすぎて笑ってしまいそうだった。少し心臓が高く音を鳴らした。意図していなかった言葉は無遠慮に突き刺さる。
フェイスは返す言葉を失っていっそのこと慈愛に満ちた瞳でこちらを凝視する。今まで誰にも言われたことの無い言葉。
「何も知らない人間を奴隷にしようとしてる。まるで自分の物みたいに」
デッキブラシの柄はもう怖くなかった。
「たった一言がいつもキミは言えない」
まるで似合わないデッキブラシを抱えたまま心底悲しそうな彼に言葉を紡いだ。その隙にプールサイドまでたどり着き、濡れた体を陸上へとあげた。彼の顔を見ることもなく、オイラは言葉を続ける。
「醜いことこの上ない」
自分を棚上げしたその言葉に自嘲しながら言葉にした。例えばオイラがそれを言われたとしても、そのようになることが分かってやっているから罵倒にはならない。けれど、純情を盾に自己の正当性が根付く彼にはひどいものになるだろう。
びしょ濡れになったオイラの体を無理やり引き寄せる。なぜかすっぽりと骨がぶつかり合うことも無く自然に収められた。迷わずまさぐるように張り付いた服の中に手を突っ込んだ。その手を必死に止めたのは、理性なのか惰性なのか。
「今も?」
手が止まった。言葉の意味を解釈しようと頭を回転させる。夢の中のように、しかし確実に存在していた友情だか恋慕だか分からない不思議なもの。失望、それが最も存在してはいけなかったものなのだろう。
張り付いた服は気持ち悪いし、背骨をなぞるその指先もなぜだか腹立たしかった。
「キミは最低だ」
曖昧に生きる中で、初めてそんな言葉を口にした。フェイスはオレの体から離れて、2、3歩後方へ歩いた。
「今更そんなこと言い出すのはおかしいでしょ」
明らかに衝撃を受けているフェイスの声に、濡れた襟首を正した。
「何を持ってして異常性を主張するかは人の自由だよ」
宗教も心情も、そうして存在し続けている。だからこれだけの人間が生きているのだ。言葉にしがたい甘えと許されるだけの世界。フェイスはここまで散々傷つけるようなことをしてきたのに、困惑を含んだくちびるの開き方をした。
はっと気づいた時には全てが遅かった。
「オイラが、キミをそうした?」
彼は何もかも諦めたようにプールサイドのチェアに腰掛け、顔を落としながら何かに祈るように両手を組んだ。
「半分くらいは当たってるんじゃないかな」
座った彼が覗かせる視線で貫いてくる。
「キミが異常であるのと同じくらい、オレがおかしくなってるのを知ってる」
苦々しげな表情を見ながら、水に濡れた上着をバタバタと音を立てながら空を見上げた。
「でもオレは醜いキミが好きだよ」
少しの間の後、立ち上がった彼の柔らかくもない筋肉の繊維がこの腕を封じるのを感じた。
「だけどDJ、いずれは自分が傷ついて死んでしまう」
薄暗い中何一つ輝かない中、何かを知ったように瞳を輝かせた。
「キミもオイラと同じになってしまった」
大笑いして馬鹿にするには己は愚かすぎた。全てを受け入れた上で両の口端を上げてみせる。くだらない、意地と理解できない何かに奔走されていく全てが哀れだった。
特に変化は無い。ベスティもセクターも何もかわらない。時々物言いたげな彼の瞳は見えないふりをした。罪と罰とはよく言ったものだ。別にオイラは彼のしたことを罪とは考えていない。それが彼の罪になるとすれば誰が罰せられるだろうか。
不思議なもので、あの日罪人のように責め苦を受けたオレは、汚らわしく見つめたものの中で沈んでいく。
あの瞳も生まれ持った仕方の無いものだったのだろう。
だが、預かり知らないことだ。
飢えた者は嘘と裏切りを学ぶ。
夢現の中額にそっと乗せられた手のひらの感触がして、その手の優しさに思わず身を擦り寄せた。それをずっとずっと求めていたのに夢の中体をろくに動かせないオレはそれを伝えられなかった。
「おやすみ」
どこか緊張し、勇気を孕んだ声音はいつも聞いているものだった。たったそれだけ告げて、ああ何の感慨もなくその手は離れていってしまった。