まぶたの隙間 橙色にきらめく髪が視界に入ると、ひっそりとゆっくりとひとつ瞬きをすることにしている。
そうしている間に九割以上向こうから「ベスティ~!」と高らかに響く声が聞こえるので、安心してひとつ息を吐き出して、そこでようやっと穏やかな呼吸を始められるのだ。
それはずっと前から、新しくなった床のビニル独特の匂いを嗅いだり、体育館のメープルで出来た床に敷き詰められた熱情の足跡に自分の足を重ねてみたり、夕暮れ過ぎに街頭の下で戯れる虫を一瞥したり、目の前で行われる細やかな指先から紡がれる物語を読んだり、どんな時でもやってきた。
それまでの踏みしめる音が音程を変えて高く鋭く届いてくるのは心地よかった。
一見気性の合わなさそうな俺たちを見て 、どうして一緒にいるの?と何度か女の子に聞かれたことがある。そういう時は「あいつは面白い奴だよ」と口にして正しく口角を上げれば簡単に納得してくれた。笑みの形を忘れないようにしながら、濁った感情で抱いた泡が弾けないようにと願い、ゴーグルの下の透明感を持ったコバルトブルーを思い出しては恨むのだ。俺の内心なんていつもビリーは構わず、テンプレートで構成された寸分違わぬ笑みを浮かべて大袈裟に両手を広げながら、その後に何の迷いもなく言葉を吐く。
どこにも行けなくなってしまった泡沫のごとき慕情はこうしていつまでもさ迷っているのだ。
廊下の壁に寄りかかり、スポーツドリンクを口にしながら今日のトレーニング内容を反芻する。
おチビちゃんはいつも通りではあるが周囲へともっと視線を向けて欲しい。メンターはお酒も煙草も止めなさそうだから放っておいた方が楽だろう。どうにか連携の取りかたをもう少し上手くやっていかなければ。と、そこまで考えて廊下の向こうからやってきた姿に視線を向けた。独り言なのかこちらまでは聞こえない音をくちびるから紡いでいるのが分かった。ゴーグルの場所を正しくあるよう直している。口元は喜びとはほど遠い形をしていた。
舌に残る甘さと塩気をよく飲み干してから、その彼を許容しようという気持ちが生まれた。
「ひどい顔だね、ビリー」
かけられた声にはっとしたように顔を上げて、それから口元に緩く笑みを浮かべながら小走りで駆け寄ってくる。この瞬間が好きだった。すぐ近くまでやって来たで彼は、いつも通り誰でも受け入れる笑顔だった。
「アハ、随分参ってるみたいじゃん」
「オイラだって無敵じゃないんだヨ~?新しい環境に放り込まれて大変!ちょっとは慰めて!」
想像よりずっと真剣そうな嘆きに微かに笑いの声を漏らすと、俺のすぐ隣で壁に寄りかかり、こちらに一瞥すらせず手にしていたボトルの中身を口に含んだ。ボトルを持つ黒いグローブが水滴に濡れていた。
「こっちはアッシュパイセンがすーぐグレイに絡むからパイセン引き剥がすのに必死だよ~」
ビリーは困り果てたようにわざとらしく肩を竦めて眉を寄せてみせる。
「ま、退屈しなさそうで良かったんじゃない?」
「物は言いようだネ!あんまり本業疎かにしたくないけど、かと言って適当にはやれないし」
壁に沿ってずるずるとしゃがみこんでしまう。頭のつむじを見ることもそうは無く、今まであまり見てこなかった景色だった。ビリーはほとんど尽きてしまったドリンクを惜しむように音をたてて空気と一緒に飲み込んだ。
『友人とは親切を期待する契約である』
つい先日聞かされた都合良く発せられたのは置いておいても有難い格言である。そうであるならばビリーはもっと適任がいたであろうに俺を選んだ。同時に選んだのはお前自身なのだと責任を全て押し付けてしまいたくもあった。
ビリーは簡素な溜息をついた。こういう姿が珍しくてそのゴーグルで隠す瞳はどんな風に動いているのか想像した。小さな溜息に、多分その音はどこにも届かないよと思いながら見つめて、再び視線を逸らした。
彼が俺に押し付けたと同時に俺が求めたのもこういう曖昧で不確かな、どこまでも意味の無い関係性なのだ。
アカデミーでトモダチとなってから未だにビリーのことは明確に理解できていないように思える。間違いなく分かっているのは、人懐っこく明るくて、そして隣に誰も必要としていない人間だということだ。理解できないのに愛されるべき表情をして、人の隙間にそっと入り込んでくる化け物だった。
彼の生態を思い出しながら、ずっと言葉にしてこなかったことを思い出す。アカデミー時代より顔を合わせる機会も少なくなって、悪戯心が顔をのぞかせた。
「半年前から誰ともキスしてないんだ」
ビリーが咄嗟に顔を上げてこちらを見上げているのを横目で確認し、視線を廊下の先ずっと奥へ向ける。先はずっとずっと遠くて誰もいなくて分からなかった。
「なんでだろうね」
軽く考えた頭の中ではよく見たからかいを怒るビリーの姿を再生していて、同じことが起こるのだろうと思っていた。何も音が無い空間でプラスチックのボトルが凹む乾いた音だけがした。それ以外何も新しい音は無かった。
自分自身で招いた突然沈黙に塗れた空間の中で、いたたまれなくなってぬるい液体を口にする。喉を通る時の音が思ったより大きくて、ビリーに聞こえてしまわないか少し焦った。黙ったままのビリーに視線を下ろし、しびれをきらしてねぇと声をかけると
「DJビームス」
普段より少し低めのひっそりとした声が呼んだ。蛍光灯の輝きから逃れるように隠遁としていて、何に対しても危害を加えたりしないのでそっとしておいてくださいといった、静けさの中に溶けて朽ちてしまいそうな音だった。
「今何をしてるの?」
心の底から不思議そうにしている声音で問われた。
ビリーへと視線を戻してじっと顔を見ると、不自然さを覚えるくらいにのっぺりとした顔をしていた。耳を揺らす言葉を何度も頭の中で繰り返しているうちに自分がとても恥ずかしいことをしたような気がしてきて頬が熱くなった。
いっそゴーグルの奥の瞳が嘲笑していてくれれば楽だったのに、ゆっくりとまたたきしながら見つめてくる。
奥歯をきつく噛み締めて自分の失敗を呪っていると、ビリーは預けていた背を壁から離して勢いよく立ちあがった。こちらに顔を向けて、オレンジのゴーグルの下、少し伏せがちな睫毛以外彼は何ひとつ変わっていなかった。
「じゃあ、オイラそろそろ部屋戻るヨ~」
手をひらひらと振りながらこちらを見ようともしない背中を足ひとつ動かさず見ているだけだった。離れていく沈んだ硬い足音以外何も聞こえてこなかった。
子供の頃と違って、未来のことは薄ぼんやりとしていて特別希望を持っている訳でもなかった。アカデミーに入ってからそれは更に重圧をかけてきて、他の人間たちの真剣な志しや希望に満ちた声に打ちのめされていった。兄と同じ道を選んだ先は息をするのが苦しくなることの連続だった。無意識で悪意なしに吐かれる言葉に傷ついて飛び散った破片を誰も拾ってはくれない。床を這いずりながら、ひとつひとつ拾い上げて、本当にそれが大事だったのか分からなくなった。だから一方的で不自由な嫌悪を向けて、自分自身を守りながら生きることにした。
アカデミーで学んだのは自分が傷つかない方法と、曖昧な都合の良さを優先した人付き合いだった。
もぬけの殻になった教室を見ながら軽くため息をついた。懇意にしている女の子と外で昼食を食べに行って、やや時間に遅れてから戻ってみれば誰1人存在しない空間だった。なんとか授業には間に合うよう戻ってきたつもりだったが、今日の授業は実習だったらしい。今から参加したところで不用意に目立つだけだし、かと言ってサボったとしても何かしら叱られそして、比べられる?サァっと背筋に寒気が走って身震いした。かぶりを振って、考えを胡散させようとする。
何にせよ間に合わなかった自分が悪いのだがどうさたらいいものかと悩んでいると、するりと明るい夕陽の色が入り込んできて、その持ち主は身を乗り出しながら教室を覗き込んで見回した。
「あっれ~?もしかしてオイラ遅刻?ちょっとまずい?」
まるで焦りを覚えさせない呑気で少し高めの声でそう言う。聞きおぼえのある声でこの人物のことは簡単には知っていた。学内で便利屋を名乗って色々やっているとかそんな噂を聞いたことがあるが、特別言葉を交わした覚えのない男だった。
「多分実習じゃないの。俺も知らないけど」
適当に放った言葉に振り向きもせず、少しだけ溜息混じりの呼吸を漏らした。だが、彼はふむ、と1人納得した声を出した後にこちらに顔を向け笑ってみせた。
「やっちゃったもんは仕方ないネ!よし、じゃあオイラと遊び行こうヨ!」
満面の笑みを浮かべながらそんな言葉が男の口からから飛び出る。どういう思考回路だよと思いながらも、それに対しての返答が自分の中にみつからず、どうしたものかと思案していると、彼はまるで何度となくそうしてきたかのようにごくごく自然に俺の手を取った。
そういう意図をはかりかねる躊躇ない触れ方に慣れなくて困惑していると、ゴーグル越しにも鮮やかな瞳で俺を見ながら口角を上げて頬を緩めて、理想的な笑い方をしてみせた。
「知ってるよ、ビームス。アカデミーでは成績優秀。クラブではファンの女の子に囲まれていっつもたいへ~ん!あとは何を知って欲しい?」
もう欲しい物は無いでしょう?と自信に満ちた口調に返答を失った。何か言いたいことはあったはずなのに、どこかへと追いやられていく。彼はとても楽しそうに片目を閉じてみた。
「サボったってちょーっと怒られるだけだよ。楽しいことしようよ、フェイス・ビームス」
何の感慨もなく囁かれた自分の名前に、ひどく新鮮さを覚えてしまって、気づいたら自然に肯定の言葉を囁いていた。
一緒にいて楽な相手というのが最初の感想だった。
自分が知る限りビリーという男は明るく気遣いもできるし誰にでも平等に接する上にそっと相手に寄り添い安心感を与える人間だった。一方理想的な友人に見えたがどこか掴みどころがなく、触れた感触を確かめようとしてもいつの間にか消えてしまっているような感覚を覚えた。
ビリーはきっと俺の要素がひとつ欠けてしまったとしてもそれを許容して笑って迎えてしまそうで、嬉しくもあり恐ろしくもあった。
そうして季節を共にすごし、その先を見つけようとして彼に手を引かれて、優しい夢の残酷さを知っていった。
クラブに行ってみたいとビリーが駄々をこねるように訴えられた時反射的に「面倒だし辞めといた方がいいんじゃない?」と止めてしまった。するとビリーはゴーグルの下の瞳をうっすら細めて緩い笑みを顔を口元に浮かべた。
「有象無象の中で自我が消えていくなんて素敵だヨ?」
実際有象無象になりたかったのは俺自身だったのでそう言われてしまったらこれ以上無駄な押し問答をしても仕方ないと思ってわざとらしい溜息だけついてやった。
暗い階段を降りる際つまづいてしまわないよう少し上に手を伸ばしたら、「俺っち大丈夫だよ~」と返ってきた。目的の扉の隙間という隙間から生きた音が窮屈さに我慢できず溢れていた。ノブに手をかけて戸惑いなく扉を開く。
音の洪水とはしたなくはしゃぐ人々の姿は相変わらずだった。音が大きすぎて金髪の男が懸命に連れてきた赤毛の女に何か伝えようとするが、ただただ弾けそうな笑顔で返されるだけなのを横目で見た。
出入口近くでソフトドリンクを飲んでいると、連れてきてやったビリーは飽き足らず中心へさらに中心へと進んでいく。綺麗な女性、いかつい男、皆彼の中では敵ではないのだ。
その自由さに苦笑しながらも、せっかく訪れたクラブの音楽に聴き入っていた。
そうしているとふいに、自分への視線を感じる。いつの間にかすぐ傍にいた。
ブロンドの髪の女の子が瞳を輝かせながら俺の顔を覗き込む。酔っているせいか呼吸をする度微かにアルコールが漂った。上目遣いに見ながら簡単な会話をして、アルコールで頬を染めながら言う。
「ねぇ、カッコイイね。抜けて一緒に飲みに行こうよ」
「一応俺未成年なんだけど」
「細かいことは気にしなくていいから」
そう言って彼女が俺の手を取った瞬間、DJ~!!という聞きなれた音が聞こえて振り向こうとした瞬間、物理的にぶつかってくるものだから、女の子たちには聞かせられないような鈍い声が飛び出た。俺の手を両手で掴み、眉根を寄せて困っているポーズとしては及第点。
「なんかすごく勘違いされてオイラヤバいヤツの彼女に声掛けた事になってるんだけど~!!」
そう言ったビリーの背後には明らかに敵意を持った男が見えた。俺の手を取っていた彼女は驚いたのか咄嗟に離れて身を引いていた。
「まぁそこは未熟さを学べるいい機会だったってことで。とりあえずこういう時は逃げるのが一番っ!!」
ビリーの腕をしっかり掴むと、外へ向かう階段に駆け出した。ひとつひとつ踏みしめたはずなのに、感触が記憶の中には無い。一度だけ振り返ったら情けない顔をして、俺だけが助けであるように、切実な瞳を向けていることに感動すら覚えた。
時々標識の土台につまづきそうになったり、飛び出てきた犬を咄嗟にジャンプして避けてバランスを崩したりした。だけど、そういう時はお互い助けようと手を伸ばして体を支え合った。茶色い犬の真っ黒な瞳と目が合ってしまって、バツが悪くて心の中で謝った。
ようやく自分たちを害する声が聞こえなくなり静けさを取り戻した頃、それまで必死で気づかなかったが雨が少し降っていた。濡れた頬を手の甲で拭い、ここから寮に帰るまでどの程度かかるか考えて少し憂鬱になった。
「DJ迷惑かけてごめんネ」
手を掴んだままだったことに気づいて指を離した。傘があれば良かったが、生憎そんな物は持ち合わせていない。右手で顔に落ちる雨を遮るフリをした。気づけばビリーはしゃがみ混みそこから動かなくなった。何か考えているように、瞳は全く見えなかった。雨が降ったのも、クラブで絡まれたのも、お前がお前であるのも何の罪では無いのだと、肩に触れようとして
「じゃーん!」
そう口にしながら立ち上がったビリーはいつの間にか安っぽい傘を手にしていた。単純に驚いた気持ちと普通に出せないのかという呆れる気持ちを抑えて少し間を置いてからやっと口を開く。
「いつも思うけどそれ本当どうやってるの」
「それは企業秘密だよ!!」
俺の反応にご機嫌な様子で音を立てて傘を開き回転させながらこちらに向かって差し出す。安っぽい電灯の下、微かに濡れた髪が艶やかでとても綺麗だった。
歩きながらお互い失敗の軽口を叩いたり楽しかったことを伝えあったり、狭い傘の中でひどく近い距離にいた。
こんな風にとても近くに人がいて心が落ち着くのは久しぶりに思えた。
寮の前まで来た時に門限を超えていないか確認するため腕時計を見やると、あと10分の猶予があった。
俺がビリーへ視線を戻ると満面の笑みを浮かべて今日は楽しかったねなどと言ってみせるので、釣られて笑ってしまった。
「そういう風に素直に笑った方が人生得するよ~!オイラが保証しちゃう!!」
「また適当なこと言ってる」
「失礼だな~。僕ちんホントのことしか言わないよ♡」
模範的な笑顔はなぜか神経を逆撫でた気がしたが、今は不似合いなのだと感じていた。柔らかな雨の匂いがささくれだった感情を抑制して世界から切り取られたような孤独感を2人で楽しんでいるような気になれた。
見慣れた寮の前までたどり着くと、どちらからでもなく足を止めた。
「今日はおひらきにしよっか」
言葉にはできるのに何故か離れたがかった。雨の匂いと音は様々なものを隠してくれそうだった。欲望の赴くままに手をとって、傘の中棒を掴むと傘の先端を寮の入口に向けた。少しくちびるを開いて俺の行動を不思議そうに見ていた。それから、薄っぺらいナイロンに隠れてくちびるを合わせた。
自分から顔を寄せたけれども、気づいたビリーも戸惑いがちに近づけた気がした。緊張していて硬くて不格好だったのに、ひどく胸を打った。
離れてからビリーはようやく驚いたのかゴーグルの下で目を見開いていたけれども、何度もまたたきしてから、何かにはっとしたかのようにまた明日ねと言いながら傘を俺に持たせたまま身を翻して帰っていった。
ビリーが忘れていった傘を寮の入口で綺麗に畳んだ。その際手についた水分が気になって手のひらを見て、くちびるも濡れている気がして舌で舐めた。
きっとビリーなら傘に命を吹き込んだように踊らせながら相応しい場所に眠らせていたのかもしれない。だがそんな空想とは裏腹に安っぽい傘はじっとこの手の中に収まっていた。
目を覚まして今自分がどこにいるのか分からなかったが、勢いよく体を起こした際に背中に痛みを感じて、そこが医務室であったことを思い出した。白い壁に囲まれて静かな空間だった。痛んだ脇腹に手のひらで触れる。犬型のイクリプスとの戦闘中に死角から新手に強襲され、壁に叩きつけられた時には呼吸が一瞬できなくなって、こんなつまらない死に方は勘弁だよねぇと思ったものだった。全て回収後におチビちゃんには「テメェ遊んでんのかよ!」と怒られたりそれは大変だった。
幸い打撲と裂傷がいくらかあったくらいで済んだが、実に精細を欠いていてファンの子たちにはとても見せられないような戦いだった。
「ダサ……」
溜息を深く吐き出して、自己嫌悪に陥る。怪我を負ったことや周囲に迷惑をかけたことではなく、こんな風に精神に揺らぎを起こしてしまう情けなさが嫌だった。誰かならきっとこんなことにならない。俺はあいつとは違うんだよ。
少し鼻の奥が痛くなって、けれど歯を食いしばって堪えた。
なんの前触れもなく急に扉が開いて、驚いて視線を向けると見慣れた姿があった。俺と目が合っているはずだろうに、少し息を切らしながらその場に呆然とするかのように立ち尽くしていた。いつもよく動く口が電池が切れたみたいに動かなくて、何故だか笑えてきた。
「どうしたの?」
「何だよベスティ全然元気なんじゃん!」
シーっと人差し指を立ててみせると、ビリーは口元を手で覆う。それから、ベッドの傍までやってきて近くにあった椅子に腰を落とした。
「稲妻ボーイから大変だったって聞いて、オイラ心配になったからさ」
普段より少し声のトーンを落としながら彼は続ける。
「でも、この間ひどい態度取っちゃったし、DJ怒ってるかと思って」
「それで顔合わせづらかったって?らしくないでしょ」
らしくないなんて、本当はお互い様だと分かっていた。
微かに傷跡の残る頬に触れる指先が、僅かに揺れている。そんな風に近づいて欲しいなんて1度も望んだことは無い。その手の甲にゆっくりと手を重ね、手を取ってから指先に口付けてみせると、困惑の色を隠しきれない表情を見せる。
「ベスティ、オイラはさ」
「今は少し黙ってて」
そう言葉にすると不思議なくらいあっさりとお喋りな口を噤む。たまには俺が話す主導権を握ったっていいでしょう?
「『恋はうぬぼれと希望の闘争だ』。……自分が俺の特別だって知ってて、期待してたんでしょ」
確かめるように瞳を覗き込めば、叱られた子供のようにまぶたを伏せがちにしたまま微動だにしなかった。
「俺は多分何の期待にも答えられない、そんなの前から知ってるでしょ」
「自分を卑下しないでよ」
「だけど、ビリー、キスしたい」
しっかりと顔を向き合わせて、瞬きひとつ惜しむようにじっと見つめた。ビリーは1度目を見開いて視線を合わせ、それからくちびるをぎゅっと噛み締めて顔を歪めさせる。
「それと」
その瞬間ビリーが勢いよく俺を目掛けて倒れ込んできた。言葉を途切れさせながらベッドへと逆戻りしてしまった。続くべき言葉は宙に投げ出されてしまって、口から飛び出したのはどこか情けない自分の呻き声だった。再びベッドに体重を預けながら視界の大半を占めるいつか見た夕焼けを思い出す橙色に胸を大きく膨らませながら息を吸って、それから吐き出す。背中に回された手が熱くて目眩がした。
この所在無い手のひらの行先にずっと迷っていた。抱き締めて純粋な愛を囁くにはたくさんのことを拒否して見ないふりをしすぎた。だから、無知を装って臆病な背に怖々と手を這わせるのだ。硬い生地のシャツの感触の中に温かさを感じて、子供を慰めるみたいに優しく背を撫でた。
「ずっと大好きだったよ」
震えた肩に顔をうずめながら、今は見えない瞳の鮮やかさを思い出して、まぶたを下ろした。