測量する子供たち甘い甘いキャンディを口の中転がしながら、談話室のソファに身を沈める。柔らかに受け止めてくれるこの感触がいつも好きだった。曖昧で、緩や かで、どこまでも浅ましい自分を優しく受け入れてくれる。
思わず鼻歌を小さく歌ってしまうほどだ。
噛み砕いたキャンディからは苦みと甘み、両方を兼ね備えたコーヒーの味と香りが広がった。あまり買わなかったキャンディだったが、思った以上に滑らかな舌触りと甘やかしてくれるばかりではないところが気に入った。
誰も存在しないこの場所は幸福の匂いがした。
耳に無駄に大きな足音が響いた。空気を吸いこみながら音のする方向を見て、期待した姿でないことにも薄ら寒い笑みを浮かべた。
「まーたお前ここにいんの?」
アキラの呆れたような声が響いた。トレーニング帰りらしい彼はタンクトップ一枚で、さらに暑そうにひらひらと布を仰いだ。健康そうな肢体がそこにはあった。
「だってここがオイラの定位置だからネ」
ふーん、と興味無さそうにしてから、アキラはほんの一瞬だけ言葉にすることを戸惑った。それを横目で見ながら、気にしない素振りで新しい情報が無いかとスマホに視線を落とした。
「僕ちん談話室が好きなんだヨ~」
途端、アキラは表情を失ってしまったので、何を失敗したのか思考の中様々なことを繰り広げる。
「お前らなんか変じゃね?」
彼らしい、華美な装飾を置いてきてしまった言葉だった。だからこそ、オイラは再び体を起こして彼を見た。憮然とした表情で、何も喪失していない顔。理知的な部分さえ見てとれる。
「変、アキラっちに言われると深いネ」
彼が何を言っているのか分かっている。それでも、それを素直に受け入れることができなかった。
「まぁ人と人が期待を裏切られるってそういうことでしょ」
彼にも理解出来るよう簡潔な話をすると、アキラは口元に手を当てて、何か考え込んだ。視線は斜め下壁へと向かっている。らしくない。真剣な表情を揶揄る余裕は持ち合わせていなかった。そうして奇妙な静けさの後、少し迷った様子を見せてからアキラは口にした。
「誰かが裏切ってる、そう思い込んでるのはお前だけなんじゃねぇの?」
その呆気なく吐かれた言葉にその表情を見つめた。強い瞳。自分は間違えて居ないという言葉が嫌でも伝わってきた。
「なぁ、オレにはよく分かんないけどよ、お前あいつに何を期待したんだ?」
その後返すべき言葉が紡げなかった。
隣で笑って、仕方ないなって顔して、結局全部許してくれる。急に情報過多になった脳は全てを拒否した。
途端喉の奥から込み上げてくるものを感じて、何か声を上げるアキラを置いて廊下を走った。
洗面所で吐いた。
粘性のあるどろっとした透明な液体が止まらなかった。その中に先程のコーヒー色が混じって余計に汚物の色へと変化していった。透明な水と毒々しい茶色が混じりあって知らない色へと変化していく。
白い洗面器にいくらかの汚泥した飛沫が飛び散った。
一番汚いのは、俺だ。
口の端から垂れる液体を拭きとる気力すら無かった。つう、と零れ落ちてまた清潔な色を汚す。
彼の好意を利用しながら都合のいいように操って彼を無視し続けた結果、彼は表情を失ったのではないか。
俺が、彼を殺し続けた。
表情を変えられないまま声もなく涙を流した。
瞳からも口元にからも液体が流れ出る。ゴーグルが邪魔で額まで上げた。鏡で見た青い瞳は不思議な虹彩を放ち歪んでいた。映る俺は間抜けに口を開いて呼吸を荒らげるだけだった。
それ以外に視界の中無機質な物質しかなくて、余計に悲しくなった。
例の情報屋仲間から連絡が来た時、意図も何も考えず呆然としたまま言葉を受け入れていた。自由奔放で寄生虫のような男。最低だと思うと同時に、彼も俺を見下しているのだ。
爬虫類博物館とかいう場所に来るのは初めてだった。受付の気だるげな中年女性から入場券を買った。無理に迫力を出そうと懸命に努力する蛇が大きく口を開いた写真がプリントしてあって、どこか哀れさを覚えた。
見たことも聞いたことも無いような生き物たちの名前をひとつひとつ小声で呟いた。きっと彼らは名前をろくに呼ばれたこともなく視界の隅で申し訳なさそうに生きるのだ。
爬虫類の博物館の奥、毒蛇がこちらを見つめる中、目的の人物と今日最初の言葉を交わした。時々口を開いた時の声は蛇の話した言葉なのかと勘違いするほど彼らはよく似た雰囲気をまとっていた。
彼の数少ない取り柄と言えば言葉数がそれほど多くないことだ。
ふいに突き出されたジップロックの中にはいつか俺に刺さったガラスの破片たちが窮屈そうに詰まっていた。お互いに噛み合えなくて不快な音をただ鳴らすだけのゴミたちだった。破片たちにはそれぞれの模様が描かれたようにドス黒い乾いた血の模様が刻まれている。その袋をとりあえず受け取って、相変わらず真意のよく分からない彼の横顔を見た。髭が伸びて余計不潔だった。
「こんなのどうしろって?」
「お前に必要なものなんだよ、多分」
相変わらず訳の分からない男に対して言葉を発する事が難しくてその袋を受け取り握りしめた。
「まぁオレにはどうでもいい、お前にはどうでもよくない」
毒蛇が口を開く瞬間を見た。愛すべき表情なのに食すことしか考えていない、そんな顔を見つめていた。
「じゃあ、またな」
最早興味無さげに背中を向けて彼は手を振った。そこには何も存在していない。彼自身の存在さえも曖昧でこのまま爬虫類博物館に飾られてしまいそうだった。
グレイがゲームに夢中になっている背中を眺めてから、そっと彼からのプレゼントの一欠片を指で掴んで見ていた。透明で綺麗なのに、赤黒い血の跡がついている。あの時血を流し空を見上げた理由を思い返す。汚れた赤黒さは命そのものだった。瞳を閉じる。苦難と、困難と、困惑の混じったこの色は俺そのものだった。
美しい透明さの中には所在なさげな屈折した透明さが見える。そしてその先を、命の欠片はただ放置された薄汚い色で先を見せてくれようとはしなかった。先細った破片に指を突き刺す。あの時とは違って痛い。つぅと垂れた新鮮な赤い色味がくすんだ赤黒さのを流れて行った。
指先についた傷、これは隠さない。隠さないことが、最後に残された誠意なのだ。
多分俺は彼を理解したことが一度もない。
夢の中でぼんやりと過去を見ていた。
最近は見かけなかった背中肩幅それらのベスティを誘って今回めずらしく校舎の裏山を散策しようと言い出したのは自分だった。
享楽的で無意識な悦楽のためそう言葉にした。
意外にも彼はいいよと言った。女の子から逃げながら暇さえつぶせれば何でも良かったのだろう。無防備なこの男を見ながら薄らと考えていた。俺はいつでもこの男を殺すことが出来る。
「これはちょっと予想外かな」
おそらく言葉を失っている彼の代わり何とか言葉を紡いた。自分でも余裕を装いながら心臓がバクバクと鳴り響いてうるさかった。
木にもたれ掛かった女性は無言だった。そういうものを見慣れていなくて、口が上手くまわらない。舌先をくちびるから出して失敗したな、と思った。
腐乱しかけた体から片方の乳房が切り取られ傷口が露出している。顔の頬の皮膚が半分だけ剥がされていて彼女が美人なのかそうでないのか分からない。最低なのは腹部から顔をのぞかせる雑種犬の虚ろな顔だ。浅黒い肉の中からコンニチハしている。おそらく死後切り裂かれて犬の頭部を詰め込まれたのだろう。濁った肉の隙間から必死に餌を求めているようにも見えた。
彼女の腐敗した瞳の奥黒黒したものがこちらを見ている。でももっと遠くを見ているような気もする。この世からもっと先の薄暗い世の心理を誰よりも知っているかのように。
少なくとも分かるのは、彼女はもう呼吸ができないということだ。両手で抑えたくなるくらい喉が、苦しくなった。彼女は完璧だった。
記憶の森から帰った時、自分がどこにいるのか理解できなかった。
グレイが一度こちらを心配そうに見えたから、「嫌な夢見ちゃった」と、笑みを混じえ伝えた。椅子が動く音がして、咄嗟にアイマスクを被り直しながら横になった。彼女に刃物を突き立てたのは自分なのではないかという不安が襲ってきた。
談話室で見慣れきった後ろ姿を見かけた。簡単に軽口を吐いた。声をかけない方が不自然さが溢れてかえるからだ。
「HeyHey!DJ、お久しぶり?」
声が上ずっていないか不安になったが、それは杞憂のようだった。ゆっくりとソファーから体を起こして緩やかな瞳でこちらを見る。特に不審がる様子も無く簡素な軽蔑を含んだその瞳はそっとこちらを見た。
俺が笑みを浮かべても、彼は表情ひとつ変えてくれなかった。
あの日望んだように額を撫でてくれた、あの優しさは清潔な洗面所に流してしまったようだった。だからこそ、こぼれ落ちて消えてしまいそうな笑みのあと、両口端を上げた。
「相変わらず女の子に困ってるんデショ?オイラに言ってくれれば格安で」
「全員別れたよ」
硬質に告げられた遮る言葉。一瞬意味を理解しきれず、どうしたらいいのか分からなかった。何の意味があって?その疑問を両手いっぱいに抱えたまま棒立ちになってしまった。談話室でレコードに触れる彼はそれ以外の全てを拒絶していた。俺の存在を無視することで何か得ようとしているように感じた。
レコードを丁寧に撫でながら少しばかり経過した後、そっとケースの中にしまった。おどけた
男女が古臭い車ではしゃいでいる。
彼はようやく言葉を口にした。美しい、その音で。
「なんとなく分かった。キミは存外所有欲が強い」
予想だにしていなかった言葉に、何を答えればいいのか分からなくてゆっくりと呼吸をした。
「何それ」
「キミは、オレにキミだけを見て欲しい」
突然弾き出された計算式も何も無い珍妙な話に言葉を失う。願望と妄想に満ちたカビまみれの欲の愚物。
「何その馬鹿みたいな話」
「違う?」
「違うも何も、馬鹿げている」
「人が馬鹿じゃなかったことなんてあったの?」
饒舌な彼は酷く厄介だった。
フェイスは一度思い込むとそれ以外を拒否する。そうなれば俺の言葉は空回りするだけだ。時間をかけて、彼の不信を取り除いて、ゆっくりと友情を育み直す。その前によぼよぼの爺さんになるのが先だろう。
「オレもそう思ってたけど、少し違った。キミは新しいカノジョができても困った素振りもせず笑うだけだった。少しも不快じゃなかった」
レコードからようやく俺に視線を向けた。嘲笑うみたいに笑みを浮かべて、俺が彼を完成させた。
「幾つかそれがあって、理解できた」
「オイラは別にそういう面倒くさがりなキミが嫌いじゃなかったヨ」
それは本当だった。彼がカノジョを作って困った時はいつもオイラを頼るのだ。他の誰にもできないことを、俺だけが彼にしてあげられたのだ。
背中に一筋の汗をかいた。あの日彼が撫で上げた部分を伝った。フェイスはソファーから立ち上がる。そして俺に向き直り、一歩踏み進めた。
「キミが何を俺に期待しているのか言ってよ」
キャンディでも見たことないような毒々しい色合いの瞳は瞬きひとつしなかった。緊張を、覚えた。口の中には唾液が溜まっている。唇を噛み締めてごくりと飲み干した。
「DJ、彼女がいなくて寂しくなっちゃった?」
そんな軽口にも彼はひとつも笑ってくれなかった。むしろこの状況下でも変わりたくない俺を哀れんでいるように微かに口端を上げた。
「ずっとずっとオレだけ苦しむなんてずるい。キミの友達だってそうだ。部屋に入った途端、当たり前の顔をして言った、好きな子、いるんだねって」
あの地味さを逆に魅力としていた彼女の頬を浮かべる。柔らかな、温かみもある頬。
「彼女と寝たってオイラに嘘ついたの?」
「嘘つきに嘘つくことは悪いと思ってない」
彼は結局彼女と寝ていなかった。全部が全部、俺を騙すためのものだったのだ。混乱の最中全てを投げ捨ててしまいたかった。公園のくずかご入れに自分自身を捨ててしまいたかった。
「やめてヨ」
「キミは結局のところそればっかり」
ふいに立ち上がった彼は一歩近寄ると、目を細めながら髪を耳にかけた。柔らかなものがくちびるに触れて、考えていたこと全てが胡散してしまった。夕方になって暖かな光が部屋中を照らしているのに、何一つ優しくなかった。
どうしたらいいのか分からなくて、こみあげる液体を吐き出したかった。
口元から液体は吐かなくて済んだが、ゴーグルの中水分が溜まっていった。外したら見られたくないものを晒す羽目になるから絶対に外さない。
腹が立つ。上から見ているようなその口ぶりの全てが癇に障る。俺がキミの言うことを聞くなんて、そんな都合のいい妄想をぶち壊してやりたかった。
「知ってるよ。オイラがいないとキミは緩やかに壊れる」
彼からは現状ひどく不自然な嘲るアハッと笑い声がした。勝者であることを疑わない者の笑い方だ。
「キミも、同じだっていい加減認めなよ」
鮮やかな笑みはどこか影を落とした。足下に落ちる人に似た黒い虚像や、伏せた瞼から今にも落としてしまいそうな毛の塊。やはり、俺が彼を殺したのだ。
「何でこうなっちゃったんだろう」
ぽつりと言葉にしてみると、また情報過多すぎて頭が痛んだ。微かに思い浮かぶ汚れた欠片たち。有機類の身体を傷つけるために生まれてしまった哀れな存在。
「オレはただ、キミが好きだっただけだよ」
その率直な物言いに返す言葉が見つからなくて、急に額が汗をかきはじめた。。何か言わなきゃいけない。ふざけた言葉じゃない、彼に誠実に向き合うための言葉が。でもどこにも存在しないなんて。
「やめてヨ」
結局、俺はいつもそうだった。少しの間、フェイスは瞳を閉じた。美しいその顔は聖書の絵画から彼だけ破りとってきたようだった。
「キミが、もし自分の言葉で物を言えたらなんてね」
全てを見透かしたような言葉。
「キミだけだよ 」
静かな声だった。傷つける意図などどこにもなく、パンを飢えた子供に分け与えるような、無償の愛だった。
「オレにはキミの気持ちが分からない。オレがいくら発破かけたってキミは変わらない。でも何でだろうね、キミ以外はオレにとって価値が無い。だから、嫌いだよ。オレに優しくないから、苦しい、辛い、だから時々嫌いになる!」
先程とは違う語調を強めた彼に、出会ってから初めて怯えというものを教えられた。その隙に逃げ出したかったが、震えた足はこれっぽっちも動いてくれなかった。今動いてくれなければ生涯後悔するに違いない。
「クラブの子たちもキミの手を借りずに別れた
」
重苦しい沈黙のあと、キラキラとあま梅雨に濡れて美しさと華麗さで人を惹きつける毒草のような瞳を開く。と人を貶める苦悩の花。
「オレだけに、優しくしてよ」
そっと腕に触れるその優しさに泣きそうになり、思わず振り払った。あの時の額に触れた慈愛そのものだった。強要をしない、ただ何も求めない光。
どうして自分はもっと上手に人を愛せないのだろう。視界が変で、ゴーグルの中微かに涙がたまって泣いていることに気づいた。
手を伸ばされ声にならない悲鳴を上げる。優しく俺のゴーグルを外して、フェイスは複雑そうに口元で弧を描いた。可哀想な子供を慰めるみたいに人差し指で涙を拭って、薄く笑みを浮べた。
「オレが怖い?」
咄嗟に何もかもが狂っていると身を翻して背中を向けた。無情にも、切実な声音は卑怯だった。
「どこにも行かないでよ」
馬鹿みたいに瞳から涙が溢れた。傷んだままの左膝は上手く動かす、その場にうずくまってもう立てそうになかった。どうしたら彼に本当の言葉を告げられるのか分からなかった。
嘘つきで、泥棒で、下卑た笑み。
お父さん、助けて。でもお父さんは俺より弱い。違う、俺がお父さんを助けるんだ。俺がお父さんを助けて、それで皆笑わせる。ふとした瞬間同類の彼女が笑みを浮かべ、綺麗で静寂な終わりを迎える。
そして、彼は、俺の幸せを笑ってくれない。
壁に談話室のソファーに持たれかかりながら哀れそうに視線をくべるだけだ。
俺はどこに行けばいい。
苦々しいだけのコーヒーのペーストが口腔内に広がった気がした。