「やらかしたんだ」
この世の絶望をすべて集めたような声が出た。頭を抱えてテーブルに突っ伏す出久を、誰がプロヒーローのデクだと思うだろうか。
出久の隣に座る轟と、テーブルを挟んで向かいに座る飯田が苦笑している気配を感じる。実際「この前、協会への書類提出忘れてたときよりへこんでねえか?」「いや、オールマイトのフィギュア先行販売のチケットに外れたときよりへこんでいるんじゃないだろうか」なんて会話を、出久の頭の上でしている。うん、そう。そうです。そのときよりへこんでいます。だから、今日現場が一緒になったふたりがきっと飲みに誘ってくれたのだろう。きっとひどい顔をしていたから。昔からふたりは本当に優しい。
「まあ話は聞くから。とりあえず飲めよ、緑谷」
「酷い顔だからあまりアルコールは勧めたくないが、今回に限り許可しよう!」
「ありがとう轟くん、飯田くん……」
掘りごたつのテーブルがあるのは個室の居酒屋だ。三人で飲みにいくときによく使う店なので、店員も融通を聞かせてくれて、個室を希望しなくてもできる限り用意してくれる。ちなみにサインは初回で書いた。
すでに届いていたビールジョッキを握るべく、顔をあげる。お通しがひじきと厚揚げの煮物だった。前回来た時においしかったので、今回遭遇できたことを普段なら喜ぶのだが、残念ながらそんな気分にはなれなかった。
ジョッキみっつをテーブルの中央でぶつけ合って、それぞれ口に運ぶ。学食でトレーを並べていたころと随分と光景が変わった。次々と運ばれてくるクイックメニューを眺めれば、出久がこの店で気に入っているものばかりで、ふたりの優しさに涙腺が刺激される。
「で、なにがあったんだ。緑谷くん」
「仕事でミスしたのか?」
「いや……その…………」
「歯切れ悪いな。機密事項か?」
「言いにくいことならぼかしてくれてもかまわないぞ! 話したくないなら話さなくていいが、俺たちの誘いに乗ったということは、そういうわけじゃないんだろう?」
ビールジョッキを傾けながら、ふたりが誘導してくれる。そんなふたりに、どこからどこまで、そしてどういう風に話そうかと出久は顔の中心に皺を寄せる。
「えっと……偶然会った昔の友人と、この二年くらい交流してて」
おず、と話しだす。知人の話として話を聞いてもらう手も、一瞬頭をよぎったけれど、ふたりに嘘はつきたくないとすぐに却下した。ふたりの視線が出久に向けられる。真剣な瞳だ。
「それで、その……なんというか、ですね。こ、こい、の? 駆け引き? みたいな? そんな感じのことを? してまして……?」
「しまった恋愛相談だったぞ、轟くん。俺達には荷が重いんじゃないか」
「話聞くだけならなんとかなるんじゃねえか」
「確かにそうだな! しかし、なんでそんなに疑問形だらけなんだ」
「自分のことだろ、しっかりしろ」
「はい、ごめんなさい!」
真剣だったふたりの表情がゆがめられ、自然と丸まっていた出久の背中がしゃきっと伸びた。同時に謝罪をいれると、話の続きを視線だけで促される。でも本当に、出久自身もこの表現が妥当なのかわからないのだ。きっとお互い好きあっているのに、出久がそれらしい話題をだそうとすると、ロディにはぐらかされ、ストップをかけられてきたのだから。駆け引きとは言えない気がする。
「いや、その……多分、相手と僕は両想いで」
「多分?」
ふたりが首をかしげる。それに出久はうなずいた。
「うん……ウチに結構遊びに来てくれるし、泊りにも来てくれるんだ。限りある時間を一緒に過ごしてくれる。そういうときに、まあ僕もよくわからないんだけど、よくわからないなりに、いい雰囲気だなこれってわかる時が結構あって。だから、口説くというか、告白というか、そういう決定的なことを口にしようとすると、はぐらかされるんだ」
「はぐらかされる」
「そう。ストップをかけられたり、話をそらされたり……そんな状態がまあ、二年近く続いてて」
「なかなかの長期戦だな」
「さすが緑谷くんだ。がんばっているんだな」
「ありがとう……」
腕を組んだ飯田がこくこくとうなずきながら出久を肯定してくれるので、ありがたさで埋まってしまいそうになる。轟はというと顎に手を当て、考えるような表情で斜め上に視線を一度投げてから、出久に視線を戻した。色違いの瞳が出久をまっすぐとみる。
「二年間、膠着状態だったのに緑谷、お前がそんな顔をしてるってことは……最近、なにか動きがあったってことか」
核心をついた轟の言葉に、思わず両手で自分の顔を覆った。
「……付き合おうって言おうとしたのを止められた日以降、連絡がつかなくなったんだ……」
自身の口から飛び出た声色は、わかりやすく潤んでいた。
出久の言葉に、ふたりの気配が揺れる。次いで「フラれたってことか?」「いや、フラれてすらいないのでは?」「わかんねえけど、そっちの方がキツいんじゃねえか?」なんてこそこそとした会話が聞こえる。ぐさぐさとふたりの言葉が突き刺さる。視界が手のひらでふさがれているので、周りはみえないけれど、話し声は聞こえてるんだよふたりとも。
そう、ロディと連絡がつかなくなったのだ。
まず、あの喧嘩っぽくなってしまった日から、ロディが出久のセカンドハウスに来た気配は一切ない。そして、フライトで来日するという連絡も一切ない。あの日からすでに二か月経っているというのに、これまでひと月連絡がないことはあったけれど、ふた月連絡がこないことはなかった。ロディの誕生日を祝えるだろうと思っていたのに、その二月はまるっと過ぎてしいまった。
さすがにこれは様子がおかしいと、トークアプリで次に日本にはいつくるのか、という質問を送ったところ、なんと一週間たっても既読はつかない。普段ならどんなに遅くても次の日には返信が来ていたのに、なにかあったのだろうか、と思い電話をかけてみたが出ない。ロディが務める航空会社のホームページを見ても特に事件が起こったわけではなさそうで、どうしようかと悩んでいったときに、たまたま現場で会った爆豪に「アイツ、仕事で日本に来てんだな。鳥の」と、空港で見かけたことを言われてしまい、絶望した。なにか察したらしい爆豪に憐憫の目で見られて余計にメンタルは地の底だ。意図的に、ロディに避けられていることが分かってしまったのだから。
あの会話のあと、普通に会話して、普通に朝を迎え、そして別れた。いつも通りのふたりだったと思う。それなのに、ロディからの連絡が途絶えた。なにかあったのか、なんて心配するのはお門違いだった。なにせ、なにかおこしたのは、出久だったからだ。
顔を覆ったまま、ふたりのこそこそとした会話を頭の中で反芻する。フラれた。フラれたよりもひどい。たしかにそうかもしれない。
「フラれたのかなあ……連絡つかないってことはもう、友達として過ごすこともできないのかな……」
覆っていた手を顔から外し、出久がべそっとうなだれると、隣の轟と正面の飯田が顔を合わせる動きをみせた。ふたりが、ううんと唸る。出久の話を、恋の話を、荷が重いのでは、話しを聞くだけなら、と話していたふたりが、一生懸命考えてくれている。それだけで、大分救われる思いがした。
飲むのを中断していたビールをくぴ、と飲む。随分ぬるくなっていた。
「なあ、緑谷。本音で話したのか?」
隣から聞こえた落ち着いた声に、出久はそちらに視線を向ける。さっき核心をついたときと同じ表情の轟がいて、どきりとする。きっと、また核心をつかれたからだ。
「そうだな。相手方がなぜ緑谷くんがアプローチをかけようとするとはぐらかすのかっていう理由を、この話で聞いていない。君は知ってるのか」
今度は正面に座る飯田の声に反応し、そちらを見る。眼鏡の奥からまっすぐ、出久を見ている。そうして、気づく。ロディと真正面から、ちゃんと理由を話したことがないことを。
出久はロディとの状況を変えたくて、己の気持ちを伝えることばかり考えていた。ロディの気持ちは、どうだったのか。なにを考えてるのか。わからないから、とにかく気持ちを伝えて、出久の気持ちをわかろうとしてもらっていた。でも、その前に、ロディの気持ちをちゃんと聞かなければならなかった。ピノを隠されようと、ポーカーフェイスを決められようと。
でも、と思う。あの、泣きそうになったロディのくしゃりとした表情が脳裏をよぎる。
「……傷つける結果になったとしても、」
まるで出久の考えを読んだかのような轟の言葉にはじかれ、顔を上げる。
「別々の人間なんだ。一緒にいようとしたらどこかで傷つくのはあたりまえなんじゃねえかな」
轟が目元を緩めた。小さく笑った轟の、出久が知る限りのやさしさを思い描く。傷つけられて、傷ついて、傷つけて、それでも形を為そうとする轟の家族のことを出久は知っている。轟の言葉に、喉の奥がきゅっとしめつけられる。正論だった。飯田も轟と同じように唇で弧を描いた。
「そうだな、緑谷くんは傷付けるのを怖がりすぎている気がする」
「どうせ傷付けるなら、明確な意思を持って傷つけたほうがいい。自分でその言葉に責任を持てるだろ」
メニュー表を開きながら、轟が目を伏せる。軽い調子で言われた言葉が重い。
「まあ傷つくとは限んねえし、自分が傷つくかもしんねえし。でも、真正面からぶつかるのが緑谷だろ。ビビんなよ」
「轟くん……」
「なあ、鶏の炭火焼き頼んでいいか」
「轟くんのそういうマイペースなところ、俺はいいと思うぞ! そして鶏の炭火焼きの注文は賛成だ」
「ふふ、そうだね。がっつりしたもの食べたいよね」
メニューから顔を上げた轟がそんなことを言うので、出久は飯田と一緒にうなずいた。出久がくすくすと肩を揺らすと、ふたりがホッとしたように眉を下げた。心配してくれてたんだなあ、と嬉しく思う。
届いた炭火焼きを食べながら、これロディ好きそうだなあと出久はぼんやり思う。お互いの考えを話したら、この店に連れてこられるだろうか。
「真正面からぶつかって……きっちりフラれたらどうしよう」
「そのときは、緑谷の失恋飲み会開いてやるよ」
「そうだな。ただし早めに言ってくれ。失恋のフォローの事前勉強が必要だからな」
轟と飯田の堂々とした言い草に出久は笑う。自分たちは友達になるべくして友達になったのかもな、なんて。
「ありがとう、ふたりとも」
出久の取り皿にふたりの箸がもっと食べろと炭火焼きをよこしてくる。ふたりの励ましに出久は鼻息荒く気合を入れた。とりあえず、帰宅したらこれまでのロディのフライト情報をかき集めることを心に決めた。事前準備は入念に、だ。