「なあ、カフェに行かないか?」
いいことを思いついたというように顔を輝かせながらホブが言った。
「カフェ?」
「ああ、ちょっと流行りのコーヒーショップがあるんだ」
「そうか」
言葉少ないモルフェウスの顔色を伺ったホブは、特に反対はなさそうだと判断したらしい。
「じゃ、行こうか。すぐそこだし」
歩いてほんの数分で店についた。入口のあたりは灰色のコンクリートだが全面ガラス張りで店内が見える。ドアを開けたホブに続いて店に一歩入った途端に香ばしい香りと音楽に出迎えられる。ゆったりした女性の歌声の後ろで籠ったような音が等間隔でリズムを刻んでいる。これが今時の人間の好みか、と耳を傾ける。
「君は何にする?」
カウンターでメニューらしき厚紙を手に持ちながらホブが振り向いた。
「同じものでいい」と言うとホブは予想していたかのように頷いた。カウンターの向こうに立っている店員にホブが注文をする。だが、なにやら呪文のように長ったらしくて、何を頼んでいるのやらさっぱりだ。それにしても、とカウンターの向こうで板のような機械を操作している店員を見つめる。こいつは本当に店員か? エプロンをつけてはいるが、その下はラフなTシャツで、公園で遊んでいるかのようなキャップをかぶっている。なにより、客のホブに対して友人のような気楽な態度だ。鋭い目で店員を眺めていると、突然その目がモルフェウスの方を見た。
「で、そっちは名前は?」
一瞬何を聞かれたのかわからず眉をひそめる。「なんだ?」
「君の名前を……」隣から助け舟を出したホブは、途中で言い淀んだ。モルフェウスの眉間の皺が深くなるのを見て急いで言い足す。
「その、誰の注文かわかるようにカップに書いてくれるんだ。だから別に本名じゃなくていい。適当な、ニックネームとかね」
「適当な……?」そういわれても、と目線を落とす。
ホブは自分の名を知らない。そのうち自分が何者か話す時がくるだろうとは思っている。だが、今ここではなかろう。ホブが言うように、なにか名前らしき単語を言えばよいのだ。だが頭が空回りする。
店員がカウンターをトントンと指で叩く音。音楽が刻むビート。後ろに並んでいるらしい客の咳払い——。追い詰められるように口を開く。ええい、どうにでもなれ。
「ド、ドリームで」
店員はオーケイと表情も変えずにそっけなく答えた。
ちらりと横のホブを窺う。だがは変わらず笑みを浮かべたまま、モルフェウスを腕で小突いた。
「君がそんなロマンチストだったとはね」
そうか、彼は自分が好きな言葉か何かを言っただけだと思っているらしいと気づき、ぎこちなく口の端を上げる。緊張した口元は痙攣したようにぴくりと動いただけだったが。
カウンターの端に移動して待っていると、ほどなくして店員の声が聞こえた。
「ホブ、アンド、ドリーム。どうぞ!」
こんな風によばれるのか、と少々面食らっているうちにホブがカウンターに歩み寄り、紙のカップを二つ受け取った。くるりと振り向いたホブから片方を受け取る。カップのうえには、ホイップクリームがこんもりと盛られている。
「ここで飲んでいくか、外に持っていくかどうする?」
店内を見回す。椅子は空いているが、このガラス張りの空間は今の自分には落ち着かない。
「外でもいいか?」ホブはもちろんと微笑んだ。「じゃあ、近くの公園に行くか」
公園には暖かに陽が差し、時折気持ちのよい風が頬をなでていく。目覚めの世界の空気はどうも肌に馴染まない気がしていたが、今日は不思議と気持ちよく感じた。手に持ったカップがこぼれないようそろそろと歩く。
「おーい、ドリーム!」
ホブの声が聞こえた。少し離れたベンチの前で手を振っている。
ドリーム、か。何百年の時を超えて初めて彼に呼ばれた名を心の中で反復する。
眠りの中で夢を見るのはどんな心地なのだろうと考えたことはない。夢の世界は単に自分の義務であり務めである。だが、人間が言うもう一つの「夢」はどうだろう。未だ手にしていないものへの渇望、まだ見ぬ未来への期待——。そんな「夢」を自分も抱けるのだろうか。自分は夢見ることを夢見ているのだろうか。最近、時折そんなことを考える。
「ドリーム、早く早く」
ホブが手招きする。木陰で二人を待っていたかのようなベンチに腰を下ろす。
「しかし、ドリームってなかなかいいな」
ベンチの背に腕を置き、ホブが言った。
「これから、ドリームって呼んでもいいか?」
両手で包むように持ったカップに目を落とす。そこには黒いペンで「Dream」と走り書きされている。
「ああ」顔を上げて短く答えてから言い直す。
「ああ、許してつかわそう、サー・ロバート・ガドリングよ」
ベンチの背にもたれ、わざと見下ろすように言うとホブは笑いながら天を仰いだ。
「もうその名前は忘れてくれ。それに、なんだい?その王様みたいな言い方」
小さく首を振りながらカップに口をつけるホブを横目で見つめる。
自分は夢見ていたのかもしれない。こんな風に彼に名前を呼ばれるのを。答えを求めるためはなく、ただ言葉を交わすのを。
いつの間にか、薄い唇は今度は自然に弧を描いていた。