Silent night 若きドリーミングの王は、どうも王座が好きでないらしい。
呼び出されてやってきたコリント人は、がらんとした王座の間に足を踏み入れると、正面高くにそびえる王座ではなく、高い窓からの光がぼんやり照らす室内に目を向けた。
いた——探すまでもなくその姿を見つける。王座から伸びる石の階段、その一番下に、迎えの親に忘れられた子供のように座り込む黒い姿。その腕に抱えるように開いた分厚い本に顔を落としている。
コリント人がその前に立つと、一瞬の間を置いて本から顔を上げた。少し驚いたような表情に、呼び出したくせに、とむっとする。
「何の用でしょう?」
モルフェウスはまた本に顔を戻し、下を向いたままゆっくりページをめくりながら言った。
「また勝手に目覚めの世界に行っていたらしいな」
ちぇ、やっぱりそのことか、と忌々しい気持ちで手をポケットに入れる。
「別にいいでしょう?」
モルフェウスがゆっくり顔を上げる。薄い色をした瞳が、下からコリント人を睨みつけた。
「いいや、よくない。お前の役目はここドリーミングにある。目覚めの世界ではない」
「だから、その役目のために、俺はもっと人間を知りたいんですよ」
いったい何度この口論をすればいいのだろう、と小さく溜息をつくと、モルフェウスの目の色が一層険しくなり、見上げる眼の下がぐっと持ち上がる。
「人間を知りたいなら本を読めばいいだろう?」
そう言うと彼は手に持った本を勢いよく閉じた。バタンという大きな音が、広々とした広間に虚ろに響く。その芝居がかったやり方はコリント人の心にさらに火をつける。
「本?」肩をすくめる。「本に書いてあることだけであの複雑な人間たちを理解できるわけない。現にあなたはそうやって一日中本に鼻をつっこんでるのに、人間をまるでわかってないじゃないか」
一気に言い終わるまでに、モルフェウスの真っ白な頬が赤く染まっていた。だがそれはコリント人を怯ませることはなく、むしろその心にある種の高揚感すら覚えさせた。もし王が立ち上がって掴みかかるなら、望むところだ。だが、モルフェウスはこの生意気な悪夢に見下ろされたまま冷たい石の段に腰を据えたままだ。今度はその薄い唇に冷たい笑みが浮かんだ。
「お前のように欲にまかせて人間たちと交われば人間がわかると? どうせまた好きなように愉しんできただけだろう?」
「ええ、まあ」コリント人は小さく肩をすくめる。「クリスマス休暇に入ってしまう前に、大学を覗きたくて。あそこはいいですよ。俺たちくらいの人間がいっぱいいて、夢と悪夢で溢れている」あの甘美な空気を思い出して小さく唇を舐める。
モルフェウスは小さく目をぐるりと回しコリント人から目を逸らした。その目線を逃すものかとコリント人も目の前の階段にどさりと座った。床から一段目、モルフェウスのローブの裾が広がる段の一段下。
「あなたは俺を悪夢としてつくった。それにこたえるために人間を知るには最高の場所だ」
モルフェウスの細い顎は、脚を抱えた手の上に置かれている。
「君も行けばいいのに」思わず口から漏れた。虚空を見つめていた夢の王はすっくと背を伸ばし、ひき結んでいた口を開いた。
「いいや。私には責任がある。ここで人間たちの無意識を束ねる責任が。エンドレスの名に恥じないように私はその責任を果たさねばならない」
自分に言い聞かせるように彼の口から出る責任という言葉が、彼の細い首を、体を締め付けている。コリント人はその目を覗き込むように身を乗り出した。
「少しくらい留守にしても壊れやしない。君が——あなたが作ったんだから」
少し肩の力を抜いてもいいのだと優しい言葉をかけようとしながら、コリント人の中でもう一人の自分が暗く嗤う。
一緒に目覚めの世界に行って愉しみたい。その気持ちには、この気高い王を自分と同じ場所に引きずり下ろしたいという気持ちも混じっている——。絶対的に正しい場所から踏み外さない、そのことが癪に障る。若い人間たちから教わった感情だ。
「いいや、私はお前とはちがう」
だがこの強情な王はそんな自分には靡かず、いつだってこの話は平行線に終わるのだ。
コリント人は上を仰ぎ見る。そしてふと思い出してジャケットのポケットに片手を入れた。
「そういえば、これ」
ポケットから出した手をモルフェウスに差し出すと、彼はじろりとその手元を見た。
「クリスマスマーケットを覗いたら見つけて」
白く細い指に渡したのは、小さな台座に乗ったガラスの球体。
「なんて言ったっけ……ああそうだ、確かスノードームとか」
モルフェウスが指先でぐるりとまわすと、中の小さな白い粒がふわりと動く。コリント人がもう一度手を差し出すとモルフェウスはその手に返した。受け取った台座を掴んでひっくり返してからゆっくり戻して見せる。中の粒たちがフワフワと四方に舞う。モルフェウスは瞬きもせずにその様子を見つめている。もう一度ひっくり返して底の小さなネジを巻く。手を離すとポロンポロンとオルゴールがメロディを奏でる。
「どうぞ」もう一度彼に渡す。「あげますよ」
雪の粒が舞うドームの中に佇む黒猫。同じような商品が並ぶその小さな屋台で、なぜそれが欲しくなってしまったのか自分でもわからないが、モルフェウスの手の中にあると、まるでそこに来るべくして来たような気がした。
「人間たちもなかなかやるでしょう? こんな綺麗なものを作るなんて」
コリント人がそう言うと、手元をじっと見つめていたモルフェウスがコリント人のほうを見た。その口元は笑っている。冷たい笑みではなく、にやりと面白そうに。
「これくらいなら私だってできる」
そう言うとモルフェウスは空いている手をすっと掲げた。掌を真上に向ける。華奢だが意思の強い指先と関節を一瞬強張らせ、そしてふんわりと掌を返すとそれに導かれるように高い天井の闇からゆっくりと白いものが舞い降りてきた。冷たい空気に耐えられず降りだした雪のようにぽつりぽつりと静かにおりてくる雪の粒。だがそれは床につく直前で消えていく。
モルフェウスはまた手の中に目線を戻した。その手から流れる静かな音。この大広間に響かせるには控え目なその音を聞きながら、コリント人はそのメロディの歌詞を思い出していた。
Silent night, holy night
All is calm, all is bright.
二人しかいないこの空間で静かに流れる時間。舞い降りる雪がその時間を永遠に感じさせる。さっきまでの苛立った気持ちは雪の粒のように消えていく。
モルフェウスは、吸い寄せられたようにまだガラス玉を見つめている。見開いた目。その目玉に映りこむのは彼の手から生まれた雪。
こっちのスノードームのほうが綺麗じゃないか。思わず見惚れていたコリント人は、その目が自分を見ていることに気づいた。
「どうした?」
「別に」
急いで目を逸らす。すると、うねりながら高く伸びる階段の先が目に入った。そこにそびえる黒く冷たい王座。
いつか、彼はあそこに行ってしまうのだろうか。一創造物の自分には手の届かないところへ。
時にまだ脆く幼く見えるその顔に目を戻す。
「別になんでもないですよ」
コリント人がもう一度言うと、夢の王は不思議そうに小さく首を傾げた。