奥底まで愛して 着替えてリビングを出ようとした時、ニキの手が胸元に伸びてきた。
「あの、椎名さん……」
ニキは、視線だけで先を促す。
「最近よく私の服のボタン留めようとしますけど、何かありましたか?」
ニキは器用にマヨイのシャツのボタンを留めていく。胸元をきっちり閉じてから、しばらく黙ってマヨイの目を見て、それから首を傾げた。
「なんか、嫌なんすよね」
「嫌……あ。私などの肌を視界に入れるのは見苦しいという意味ですかぁ? すみませぇん、今すぐ一番上までボタンを留めますぅ!」
「いやいや、そうじゃなくて! 僕が嫌なんすよ! マヨちゃんの素肌が、他の人に見られるの!」
「それは……何故ですか?」
「マヨちゃんの素肌を見てると、色々思い出すんすよね。昨日の……日付変わってたから今日っすかね、ほら、夜のこととか。他の人が、マヨちゃんがどんな風だったかなんて知るはずないんすけど、それでも、マヨちゃんが減っちゃうみたいで嫌っす」
つい数時間前のことを、マヨイも思い出した。
今いるのだって、いつもの寮の自室ではない。ニキが、正確にはニキの両親が借りているアパートの一室だ。今日はふたりとも休みだから、一緒に買い物でも行こうかと話し合って、それならと前の晩からこの部屋に泊まり込んでいた。
シャツの下、見えないところには、まだいくつか夜の名残が残っているはずだ。今は見えないそれらの存在を思い出して、マヨイは顔が熱くなるのを感じる。
「へ、減りませんよぉ! それに、椎名さんだっていつも通りに前を開けていたら見えてしまうような場所には、何も残さないくせに」
「じゃあ次はちゃんと見える場所に跡つけるっす」
ニキは口を尖らせて、すねた口調で答えた。今日のニキは、なんだか不機嫌なようだ。
「つけないでくださぁい。もし誰かに見られたら、週刊誌に何書かれるか分かったもんじゃありません。どうしたんですか、椎名さん。椎名さんはいつもこんな、駄々こねたりする人ではなかったと思いますよ」
よしよしと抱きしめて頭を撫でてやれば、ニキはぐりぐりと頭を押し付けてきた。
「……キスしたでしょ」
「お芝居でしょう」
「うん」
なるほど、とマヨイは理解した。ニキは嫉妬しているのだ。昨日放送されたドラマで、マヨイはキスシーンを披露した。ついばむような、可愛らしい児戯のような軽いキスだったけれど、それがニキにはショックだったらしい。昨晩、寝る前にドラマを見た後で、やたらとキスをねだってきたのだって、きっと同じ理由だろう。
「マヨちゃんが他の人のものになっちゃうような気がしたっす」
「私は他の誰のものでもありませんよ。私は、私のものです。椎名さんが、椎名さんのものであるように」
「……僕の好きって気持ちはマヨちゃんのものっすよ」
「ずるい人。それなら、私の好きって気持ちも椎名さんのものです。大切にしてくださいね」
「うん」
ニキの辞書に、嫉妬という文字はないらしい。嫉妬している自分に気づけず、ぐるぐる悩み続けて、疲れて、少し不機嫌になってしまったらしい。
こういう時のニキが、最近可愛らしく思えることがある。愛おしく思いながら広い背中を撫でてやれば、ニキが弱々しく鼻を鳴らした。
「マヨちゃんは、みんなのものって思おうとしたんすよ」
「アイドルですからね」
「そう、アイドルだから。でも、やっぱり僕のものにしたくなっちゃったんすよね。不思議っす。大好きなご飯はみんなと食べたら美味しいのに、みんなに美味しいって思ってもらえたら嬉しいのに、大好きなマヨちゃんの良いところは全部、僕だけが知っていたくなっちゃったっす」
嫉妬、独占欲。そういう名前がつく感情を、マヨイはよく知っている。だから、今のニキが欲しがっているものも、手にとるように分かる。
「私はアイドルとして、私を切り売りしていますけれど、それは目に見えるものだけのこと。私の視線も、歌声も、ダンスだってファンの方々に切り売りしてきましたし、心の表面だって切り売りしてきましたけど、心の一番奥深くの、柔らかいところまで切り売りした覚えはありませんよ」
「……どういうことっすか?」
「私の心の奥深くは、私自身と、椎名さんにしか見せないということです」
ニキがそわそわする気配を感じた。腕の中でニキが顔を上げた。縹色の瞳が、まっすぐにマヨイを見つめる。
「満足ですか?」
「……マヨちゃん、好き」
返事の代わりに唇を奪われる。何度もキスしているうちに壁際に追い詰められる。
「……椎名さん?」
上手く呼吸が出来なくて、息が苦しくなってきた頃、ようやくニキが体を離した。
「満足したっすけど、でも、やっぱり、マヨちゃんの素肌を誰かに見られるのは嫌っすね。キスシーン見るのも」
「……そうですか」
ふふ、と微笑みかければ、ニキが申し訳なさそうに、泣きそうに、眉尻を下げた。
「僕、おかしくなっちゃったんすかね」
「いいえ? それが恋というものなのでしょう」
もう一度、ニキを抱きしめた。
「私だって、椎名さんの素肌を他の誰かに見せたくはありませんもの。キスシーンだって見たくありません」
ニキが安堵したように息を吐いた。マヨイは、その気配だけで満たされるような気がした。