PN利き小説 エントリー作品①「ダブルチョコレート」 ニールが彼と会わなくなってから二ヶ月が経った。正確に言うなら〝直接〟会わなくなってからである。
モニターの向こうの彼はぱりっと糊のきいたシャツを身に付け、髪も髭も相変わらず整っている。下もおそらく折り目の入ったスラックスであることは想像に難くない。袖をまくって覗いた腕からは逞しい筋骨と熱意を感じられ、さながら脂の乗ったビジネスパーソンといった風貌である。
そんな彼と話していると、ニールは自身もまともな生活をしているような気になった。しかし、実際は昼夜の区別も危うい体たらくであり、昨日買ったドーナツで遅めのランチにありついたところだ。
「建物図面と出入り業者のリストを送るよ。よく使われてるデリバリーもおまけしておく」
「悪いな」
よれよれの格好で食べながら話していても咎められることはなく、きちんと労ってもらえる。役割を果たしているからと言えばそれまでだが、モニターに映し出された眼差しは少し柔らかいように思え、ニールは僅かな期待を込めて口を開いた。
「僕が行ったら早いと思うんだけど。彼には休暇を与えてさ」
まだ半人前の自分を追いやろうという提案に対して、彼は首を横に振った。白い歯を見せながらジョークとして片付けようとしているが、それを不服とも思わなかった。彼がここでイエスと言わないことをニールは知っている。
とは言え、あっさり通信を終えるのも面白くなく、また気懸りもあった。
「怪我の具合はどう?」
「問題ない」
彼は軽く肩を回しながら涼しい顔で答えた。銃弾によって肩の肉が削られたことは、本人にとってはただのかすり傷、古傷が一つ増えただけなのだろう。だが、ニールからすると不幸中の幸いと言うには深過ぎた。そこに至る過程を思い返した時、問題がなかったとはとても言えなかった。
「これからやろうとすることに対して、今の規模じゃ全然足りないよね。常にメンバーを募集中だ。でも、だからっていつまでも君が前線で仕切る訳にはいかないだろ」
自分でなくして誰が盾となるのかと言いたいところだが、本筋から外れるのでぐっと堪えた。
組織の中でボスの顔を知っている者はごく僅かである。彼は身分を明かさないまま兵士として件の作戦に参加して、危険に晒された部下を助けた。何も知らなければそれを英雄的行為として讃えただろうが、ニールの目にはボスとしての非情さ——合理的判断の不足に映った。彼を輝かせる美徳には死の匂いが漂っている。
「少しは体を休めて、ボスには一番後ろで見届けてもらわないと」
「わかった。お前の言う通りだよ」
彼は過ぎた干渉に眉を顰めることもなく頷いた。表情から徐々に緊張が抜けて、今はニールだけの彼でいてくれる。もう少しと願いながら自ずと口数は減り、彼もまた何か言いたげに視線を送ってきた。
沈黙を破ったのは彼の方だった。
「なあ、明後日会えないか?」
涅色の双眼がじっと待っている。数秒の間を置いて、ニールは声を絞り出した。
「勿論。ああ、とっても久し振りだ」
彼はしばしの別れを告げた。指の腹を自身の唇に当てると、見せるように手を翻す。唐突でいて流れるような仕草に、それが投げキスだと遅れて気付いた。
「ちゃんと寝て食え」
息を呑むニールを余所に彼は今度こそ通信を切った。
一人取り残されて、ニールはしばらくその場を動けなかった。チョコレート色の弾力を思いながら、モニターに触れてみる。味気ない感触にやるせなくなったものの、甘い匂わせがうら淋しい心を慰めた。
※
「ご注文はお決まりですか?」
窓際のテーブル席に落ち着いて程なく、店員がやってくる。待ち合わせの時間まで残り三分を切っていた。
「一緒に注文するよ」
向かいの席を指差して言うと、ニールはまた一人になった。他の誰かの関心から抜け出して、思いの外大きなため息が漏れる。彼を待つこと以外に夢中になれることはないが、気もそぞろでそれすら敵わない。
朝の気配が消えないうちに小綺麗なカフェにいる。ここしばらくの自身の生活を省みると、何とも愉快な状況に思えた。起きるなりワードローブから服を引っ張り出し、破れかけの服は投げ捨てた。櫛を握ったのは数日ぶりであったし、足の爪から耳の裏まで体の隅々を洗った。部屋を出た時、まともな人間に生まれ変わったようだとニールは確かに感じていた。しかし、燦々と射しこむ光は誤魔化せず、今はこうして思わず目を細める有様である。
あと二分、一分と数えながら、腕時計を見る間隔が縮まっていく。針が約束の時間を指してからは入り口付近をただじっと見つめ、時計のことは忘れた。相手よりほんの一秒でも早く気付けたら、今日一日は幸運に恵まれる。いつの間にかそんなルールを自らに課して、彼を待った。
信用とは武器だ。仕事では二人とも必ず時間を守ることにしているが、プライベートでは必ずしもそうでない。遅刻で関係を波立たせる時期はとうに過ぎて、片方が笑いながら謝ることはざらにある。だから時間を指定した本人が連絡の一本も寄越さず遅れていることに、ニールは特段疑問を抱かなかった。ただ、十分を過ぎた頃には集中力が途切れ、周囲のテーブルを観察するようになった。そう広くない空間に大小のテーブルが間を空けて配され、客の入りは疎らだ。妙に穏やかな雰囲気から半数は店の常連と思われた。年配の二人組と若い二人組の他に、一人で本を読む女性と彼を待つ自分。皆が思い思いに過ごす中、ニールのテーブルだけが不揃いだった。
手持無沙汰になり、聞き耳を立ててしまいそうになったところでタブレットが震えた。相手は一人しかいない。
「やあ」
一呼吸おいて彼は話し始めた。よくない知らせだという予感は当たり、開口一番、謝罪の言葉が飛び出す。残念というより仕方がないという気持ちで、ニールは耳を傾けていた。仕事とプライベートの両立だなんて、社会規範の外で生きている者には望むべくもない。それを不満と思うなら、とっくに引退しているだろう。
作戦は当初の予定より大幅に早まった。彼の声からは事態の切迫が窺え、これ以上の通話はできそうになかった。
「そう。君は行かないんだろう?」
怪我を負ったばかりで、と言外に言うと、沈黙が返ってきた。その僅かな間だけでも十分であったが、彼は掠れた声で答えた。
「行かない」
彼は自分に嘘をついている。ニールは目の前が暗くなるのを感じ、言うべき言葉を見失った。
「傷ひとつでも負ったら許さない」
恨みがましい物言いで通話は終わった。タブレットを置いてからニールは胸につかえたものを吐き出そうとしたが、ため息は鬱憤を燻らせるばかりだった。ふと切ない気分に襲われたかと思えば、胸の内に浮かぶ後悔に気付いて、自身がひどく混乱していると自覚した。
宙を見つめていると、通りがかった店員と目が合う。足を止めて訊いてきたので、無理矢理口を開いた。
「振られちゃった」
しばらくしてテーブルの上にカップが一つ置かれた。
彼のもとに駆け付けることもできず、だからといって自由を満喫する気にもなれない。カフェを出たニールは真っ直ぐ部屋に帰り、黙って報告を待つしかなかった。
歩き始めて間もなく、いつものドーナツショップが見えてきた。昼食の時間帯に差し掛かり、思い出したように空腹を覚える。気分は地を這っていても体は活力を維持しようとしており、半ば惰性で中に入った。
二段に別れたケースは空いており、選択肢は限られていた。特にこだわりのないニールはトラディショナルかオールドファッションを普段選ぶ。しかし、今日はもっと刺激的な、うんと濃い味でないと足りない気がして、チョコレートでコーティングされたカカオ色のものにした。ぶかぶかの紙袋を受け取った時、今まで繰り返してきたことなのに虚しさに襲われた。それは家路を辿る間もニールを捕まえて離さなかった。
部屋に着くや否やジャケットを脱いで、ソファに倒れる。タブレットの音量を上げ、傍らのテーブルに置くと天井を仰いだ。祈りが銃弾の軌道を逸らすこともなければ、向こうの声を聞かせてくれることもない。今のニールはいるはずのない名無しの人間だ。起きていようが寝ていようが誰にも関係ない——つらつら考えていると瞼が重くなっていった。
意識を取り戻し、また眠る。何度か繰り返している間も連絡はなく、窓の外は翳りを帯び始めた。無為な時が早く終わればいいと願いながら横たわっていると、ドアの向こうで俄かに音がして、ニールは頭を上げた。
目的はこの部屋のようだが、相手はすぐに行動を起こさず、まるで中の様子を窺っているかのように沈黙している。ニールは片足ずつ床に降り、音のした方は忍び寄ると、壁に背を預ける格好で耳を澄ました。何も聞こえはせず、依然として気配だけが強い。そして暫しの膠着状態の後、向こうは勿体ぶった様子でドアを叩いた。
蹴破ってくるような輩ではないものの、意図の読めない相手に警戒を解くことはできない。何もわからない以上、正面からの掴み合いは避けたくて、ニールが先手を取ることを考え始めた時だった。
「俺だ」
どうしてと思う間もなく鍵を開けていた。ラフな格好の彼が苦い笑みを浮かべて立っており、ニールはまたしても言葉を失う。
「どうしてここに?」
尋ねてもここにいるはずのない人は答えてくれず、ただニールの許しを待っている。道をあけると彼は借りてきた猫のように入って、今度は所在なさげに立ち竦んだ。厚く美しい背中が少しだけ小さく見えて、ニールの胸をつき、掻き乱す。
ソファに腰掛けて、どうぞと声を掛けると、漸く彼も落ち着きを見せた。
「それで一体どうしたの?」
ちゃんと笑えているか、お茶でも勧めるべきだったか。そう幾ら冷静な自分に諌められようとも、彼の口から聞くまで引くことはできそうにない。せめて穏やかにと思いはすれど、存外に強い口調となって隣の彼を問い詰める形となった。
彼はじっとこちらを見つめ返し、何かを探しているようだった。
「頼んでない情報まであったぞ。裏帳簿なんて」
「どうしたしまして。わざわざそれを言いに?」
「おかげであまり手荒な真似をせずに済んだ」
「うん」
「——お前に会いたくなった」
一線を越えて、声は切実に、甘く響いた。彼を彼たらしめる熱情がとぐろを巻いてニールを飲み込んでいく。
ずるいと思った。側にいたいと願うのはいつも自分の方なのに、彼はたった一言で優位に立ってしまう。幾らか溜飲が下がり、歓喜が胸に漲りつつあるものの、何事もなかったかのように振る舞う気にはなれなかった。
前を向いて黙ったままのニールに彼は話し続ける。
「今日はすまなかった」
怒っているのかと自問してみる。自身からは遠い感情に思えるが、今最も相応しく、もう少し怒っていることにした。
「どうして怒ってると思う? 約束を反故にされたからじゃないよ。わかるだろ」
目を合わせると、彼は心底申し訳なさそうに言った。
「嘘をついて悪かった」
「僕にまで嘘ついて。ひとりになるつもりか」
単なる不満のポーズのつもりが拗ねたような声が出てしまい、とちらからともなく口元を綻ばせる。
「すまん」
「いいよ。この話はこれで終わり。……無事で安心した」
「ニール」
怒っている振りをやめた途端、ふと思い出したのは彼との約束だった。こうして会いに来てくれて、他に何を望むことがあるのだろう。
それから彼は今日までのことをぽつぽつと語り始めた。組織を育てながら、トップに何かあっても機能不全に陥らないように、と彼なりに必死だったらしい。水臭い態度の理由に触れることはなかったが、自分に対する暗い負い目がそうさせたのかもしれないとニールは漠然と思った。共に地獄を見る覚悟はとうの昔にできているのに、何ともつれないものである。
次第に夜の帳が濃くなってきた。ついでに食事でもと思い、少し外に出ようと誘ってみたところ、彼は傍らの紙袋に目線を移した。
「何も食べてないのか?」
今は甘いものよりも酒が欲しい気分だった。満たされたような気分になってしまい、チョコレートの二段重ねにはどうも食指が動かず、同じくまともに食べていないであろう彼に譲ることにした。
「買ったんだけど、かなり甘そうなんだよね。食べてくれたら助かる」
「いらないのか? 本当に?」
「ああ。紅茶でも淹れようか?」
彼は首を横に振ると、紙袋を手に取り、中身を取り出した。そのまま齧り付くと思いきや真ん中で綺麗に割ったので、変わった食べ方をするものだと見ていたら、片割れをニールに差し出してきた。
「いつもは選ばない。食べたかったんだろう?」
艶やかな光沢がやたら美味そうに見えた。それに照れ笑いのような顔で言われて、断れるはずもない。抗い難い魅力に吸い寄せられ、ニールは濃褐色のご馳走に手を掛けた。
待ち焦がれた肌触り。指先で滑らかな感触を味わってから、掴んだ手を口元に引き寄せる。齧った途端、濃厚なカカオの香りと共にほろ苦さが口内に広がるが、咀嚼するまでもなく舌には鮮烈な甘さだけが残った。
「やっぱり甘い」
彼もまたもう一方の片割れを口に運んだ。悩ましい流線を描く両眼はニールをとらえたまま、その熱で理性を溶かし、甘露に変えていく。
「ああ、甘いな。一人じゃ無理だ」
舌が微かに覗いたかと思うと、唇に残ったチョコレートを舐め取った。目を奪われているうちに喉がごくりと鳴って、熱いものが体の中心を流れる。
「今日は泊っていく?」
真っ二つになったドーナツはそれぞれの口の中に消えていった。
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11/17追記 作者コメント
初めての利き小説、書き始めはドキドキしました。自分の文章の特徴というものを未だ把握できていないのですが、何か個性があるとして、読んだ方に当ててもらえたら嬉しいなと思ったので、文体を変えずに書いてみました。一つだけ意識したのは、いつも大体2,000字ほどの短い話を書いているため、ボリュームでバレバレにならないよう少しだけ長めにしたことです。その分書くことにゆっくりと向き合うことができて、楽しかったです。主催者様、そして読んでくださった皆様、楽しい時間をありがとうございました。
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