真夜中の来訪者サァ…サァ…サァ…
天から地に還ってくる水の音がする。
太陽も月も星もない。ただ黒で塗りつぶされた窓にポツリポツリと水滴が宿る。それに気づいてようやく雨が降っている音が耳に届いた。
軽く目を通すつもりが思いのほか時間が経っていたらしい。開いていたページを閉じて目と目の間を軽く揉む。間接照明を頼りに字を追っていた眼球は休息を求めていた。
「もう寝るか」
薄暗い部屋の空間に向けて癖になりつつある独り言を放る。勿論、相槌も合意も返ってはこない。ここには一人しかないのだから。フッと力なく笑って寝室へと移動した。
雫が断続的に当たる気配がする。コンクリートに、屋根に、草木に、窓に。
サァ…サァ…。チョロ…チョロ…。タン…タン…タン…タン…。どこかに降り注がれた雨粒が集まって流れになり、高い所から低い所へまた粒になって点々と落下していく。
男はベッドに入って窓の外からする音の変化に耳を傾けていた。夜の雨は静閑としているのにどこか優しい。ベッドに一人きりでいるので殊更それを強く感じてしまう。
控えめな微細音を子守唄にしてうつらうつらと微睡んでいると、その音が少しの間止んだ気がした。
スッと目を開けて横たえていた身を起こす。耳には変わらず雨音が聞こえていた。けれど、もうそれを気にする意識は別の方に向いている。
音もなくベッドから下りて玄関へと進んだ。明かりも点けずに到着すると迷うことなく扉を開く。
すると扉の向こうには予想していた通りの人物が立っていた。
「…すっかり濡れてしまったな」
金に黒のインクを被せたような色合いの頭へ手を伸ばせば水飛沫が弾けた。撫でられるがままの青年は生気のない顔で立ちすくんでいる。愛好や嫌悪どころか、なんの反応も見せないニールに男は苦笑するしかない。
「毎回も言っているだろう。どんなに時間がなくても少しでいいから睡眠は取れって」
聞こえていないのを承知で苦言を呈する。今回もニールは懸命に頼んだ仕事をこなしてくれたらしい。それを命じているのは他ならぬ自分である。微かな罪悪感が胸を刺した。
「中へ。体が冷える」
腕を掴んで中に引き込む。背丈の高い体は意思のない人形のように力が作用した方へふらふらと従った。部屋に上げるため跪いて靴紐を解いてやり、ずぶ濡れになった靴を脱がせる。氷のように冷え切った手を引いてカウチに座らせるとタオルで濡れた髪をわしゃわしゃと柔らかく拭いた。
続いて無抵抗をいいことにシャツのボタンを上から下まで全て外して遠慮なく引っ剥がす。ベルトの金具も慣れた手付きで取り外していった。
途中、確認するように顎に手を添えて自分の方へ向かせれば淀んだ色をした二つの蒼と遭遇する。しかしながら焦点が合っていない。今はきっと夢うつつの状態なのだろう。
それならいいか…とズボンのボタンをくつろげてスルスルと下に下げていく。水を吸って重くなった服を次々と脱がせていった。そうして下着姿の無防備な体を近くにあった毛布で包む。
「ろくなものを口にしてないな?横になる前に何か腹に入れさせてやりたいが、これじゃ無理か」
返答は期待していない。するりと頬に手を滑らせれば骨の感触に当たった。一体何日間食事も睡眠も疎かにしたのか。正気に戻ったら消化にいいものを与えながら説教でもしよう、と男は心に決めた。
(どうせ何度も何度も叱ったところで結局聞かずに無茶を通すんだろうけどな)
だからといって言わずにはいられない。言うのを止めてしまえば、ニールの無茶に歯止めがかからなくなるからだ。今虚な目をして座っている戯け者は兎角名前すら失った男のためなら生命維持ギリギリまで自身を酷使してしまえる。ニールがニール自身を粗雑に扱うならば、ニールを大切に扱えるのはその隣にいる自分しかいない。男はそれを自身に課している。
(せめて温かい飲み物でも飲ませてやりたいが)
果たして飲めるかどうか悩んでいると、ニールの頭がガクンと重力に負けた。男が慌てて手で差し出して支える。どうにか床に着地させずに済み、ふぅと安心の息を漏らすとカウチに横たえた。目蓋は半眼の状態から完全に閉めきっている。
「仕方ない」
支えていた頭から気取られないよう慎重に手を抜き去る。冷蔵庫の前まで来るとチョコレートを探し当てて一欠片ぱきんと歯で噛み砕いた。それを口内で更に小さくする。それから微睡むニールのぴたりと閉じた口唇を舌でこじ開けて甘い塊を中にコロリと押し込む。ニールはもごもごと口を動かして甘露を嚥下した。
「…あ…まい」
味覚が刺激されたせいか覚束ない譫言がニールの口からこぼれる。
「シィー…。いい子だから。目を閉じていて。もう大丈夫だ。さぁ、ゆっくり眠るといい」
口に残るチョコレートの甘さを声に作り替えてしっとりと唱える。それを耳に流し込まれたニールは「…うん」と素直に頷いて寝息を立てた。寝かしつけに成功した男はニールの顔にかかる前髪を整えてから、良い子に与える褒美とばかりにもうひとつ啄む。カカオの味がする唇に微笑んで自身のふっくらと厚みのあるソレをペロリと舌で舐めた。
それから足下でくしゃくしゃにまるまった衣服や濡れた床を見回して軽く肩を落とす。
(後片付けは全部明日にしよう)
今やらなければならないのは眠った坊やをベッドまで運ぶことだ。肩に腕を差し込んで、もう片方の腕を足裏に回す。自分より背の高い男を横抱きにするのは骨が折れるが、こんなことが頻繁に起こればコツが分かってくるというものである。
腹に力を込めて持ち上げると寝室まで移動して無事ベッドに横たえることができた。
一仕事終えた男は身につけていたものをニール同様スルリスルリと床に滑り落とす。見る者もいないと恥じる様子もなく一枚も残さずに、すっかり脱いでしまう。何も身につけていない素肌でニールを包み込む毛布の隣に収まった。
抱き上げた体は芯まで冷えていた。
「なにも雨の中帰ってくることもないだろう」
渋く言い放つ言葉とは裏腹にその顔は喜色を浮かべている。いち早く己の元へ戻りたいと本能から願われているようで男はほんの少しだけ嬉しかった。
男は包んでいた毛布の裾からスッと手を入れてニールの体に這わせると両腕を首に、室内で暖められていた足を氷みたいな足に絡ませて隙間なくニールの体に抱え込む。この愚かで愛しい男を少しでも温めるように。
腕の中の体は震えるほど冷たかったが、しばらくすると同じ体温に馴染んでいく。
そうなる頃には雨の音はすっかりなくなっていた。
【END】