ニールが荷造りをしている最中、視界の端で何かが蝶の飛来のようにヒラヒラと揺蕩っていた。
此処は高級ホテルの高層部にあたる一室。窓はピッタリと閉め切ってあり、闖入者が一匹も迷い込んでくるはずがない。そこでニールはスーツケースから視線を一ミリも外さず、大体の勘を頼りに前振りもなく手だけを動かした。
忽ち片手に捕まった蝶らしきものは上品な淡い青の色彩を放ってたが、あろうことか四角い形の翅をしている。
手にしたものを得意げに振って見せると側に立っていた男が悔しがるそぶりも見せずに空っぽの手を軽く上げた。
「もう少し遊んでやろうと思ってたのに」
「それは残念。僕だって日々鍛えられてるんだよ、優秀な先生のおかげでね」
冗談めかして片目を瞑ればフッと軽やかな笑みと吐息が返された。眼前の教師が生徒の成長を喜んでいるのでニールも頬を綻ばせる。
捕獲したのは勿論、蝶ではない。モルフォチョウの翅を彷彿させる綺麗な色合いの包装紙に包まれた箱である。ソレは空気の冷たさにようやく体が慣れてきた頃、互いの恋慕と感謝を伝えるために贈り合っているものだった。中身はチョコレート以外にもその時々で異なるが、込められる想いの温もりだけは何年も変わらずに心を温めている。
今回は二週間ほど早い登場だが当日はニールが任務中の予定になっていた。今日を逃せば渡す機会はずっと先になってしまう。
「随分と可愛い抜き打ちテストだね。もしかして放っておかれて寂しかった?」
日頃いいようにやられている相手から珍しく一本取れたニールは調子に乗って言を重ねる。ここ数時間、ニールは一つのスーツケースに長期滞在の荷物を収めようと格闘していた。その間、いつもなら同じ空間を共有しているはずの片割れから離れていたのである。
てっきり「バカ言うな」と素気無い返事が来るだろうと踏んでいた。けれど予想に反して言葉は返って来ず、ただ小首を傾げられるだけだった。
「え?まさか当たり?」
「君に任務を命じた奴が頷くと思うか?」
ニールの回答に正解を匂わせる男は、けれども寂寥を少しも表に出さず冷徹な組織の統率者の顔をする。感情の起伏が乏しい雰囲気のせいで冗談なのか本音なのか判別ができない。
それができるのは常に行動を共にしているニールくらいなものである。
「なら一緒に来てくれればいいのに」
「いや、君にしか頼めない任務があるように俺には俺のやるべきことがある」
自分の心よりも使命を優先する男が迷いなく言い放つ。
まったく、なんて融通の効かない。ニールは苦く笑った。世界の裏に君臨する組織の上に立ち、多くの駒を操るプレーヤーだというのに、その手腕に公私混同がない。私利私欲もない。あるのは己が胸に宿る正道と信念だけだ。
身震いするほど強い心の輝きが丸ごと映し出された美しい瞳に求めれられればニールは諾々と最後まで付き合うまでだ。
従うことに異論はない。が、男が寂しさを抱えたままにしているのはニールにとって大変許し難い事態だった。
だから丁重に持っていた大切な贈り物を名残惜しげに返す。男は一拍置いたあと一瞬悲しげに眉尻を落とした笑みを浮かべて手に取った。しかし事の仔細を説明をするためニールは包みを持つ手に力を込めて引き留める。
「あぁ、勘違いしないで。悪いけど返すためじゃないんだ。預かっていて」
「どういう意味だ?」
「だって今日は14日じゃないだろ」
「……何を言ってるんだ?その日は」
男が言い切る前にニールは手で制した。
「予定はあくまでも予定。目的を達成したら任務完了でいいんだろ?だったらすぐ終わらせてくるよ」
難しい案件をなんてことないように飄々と言い退ける。そんなニールを男は意表を突かれた表情で見返した。
「安心してくれ。誓って雑な仕事はしない。でもご褒美が待ってる方が俄然やる気が出るから僕はコレを14日に君からもらうために必ず帰ってくる」
まるで未来が決定付けらているような自信に満ちた宣誓を前に聞き手は目を瞬かせた。
何故目の前で笑う相棒は無謀な話を、さも楽しそうに語るのだろう。そして、男は知っているのだ。語る無謀の全てを、その器用に動く手で確実に実行してしまうことを。
男は手に握らされた代物に目を落とす。ニールがまじないをかけたチョコレートは今この瞬間から未来の願いを叶えるのに必要なアイテムに変わっていた。
「……分かった。じゃぁコレは預かっておく」
期待した言葉を得てニールは手を離し、宝物を頼りになる守り人に託した。
「帰ってきた時に僕の方も渡すね」
無傷で帰ってきてくれればいい、という返事を飲み込み男は静かに首肯した。
粛々とした約束が二人の間で交わされる。するとニールが音もなく顔を寄せてきた。何事かと目線を合わせれば額が接するほど近くに整った容姿が覗き込んでくる。
「ねぇ、頑張ってくるからさ。帰ってきたらチョコよりもっと良いもの、強請ってもいい?」
幼子が親にせがむような稚拙な要求だった。けれど双方成人したいい大人であり、何よりも聖なる日に贈り物を交換するような間柄である。男は物言いたげに流し目でニールを見た。
当の本人は無言の非難もどこ吹く風で甘いカカオの匂いが漂ってきそうな色の頬に人差し指を滑らせて、誘われるようにチュッと唇で吸い上げる。
味見をされた男は大人しくされるがままになりながら「……約束通り早く帰って来れたらな」と囁き声で了承した。
【END】