ティータイム 二つで一つだった世界が一つきりになった。
自分は少ししか変わらない。
世界は全く何も変わらない。
…変わってしまったのは彼だけだ。
チチチッと愛らしくさえずる鳥の声。
目蓋越しでも明るい午後の日差し。
陽光に温められた椅子と膝掛け。
白雲がゆったりと流れる晴天。
気まぐれに吹き抜ける涼風。
舞い上がる乾いた木の葉。
ぶつかり合う茶器の音。
気遣わしげな忍び足。
置かれる盆の気配。
次の動作は多分。
そうなる前に。
口を開いた。
「パンケーキと…なんだろう?紅茶?じゃない?」
ニールが目を閉じたまま話しかける。すると瞬時に後ろへ下がる動きがあった。咄嗟のことでテーブルにぶつかり茶器からガシャンッと不穏な音が響く。怪我していなければいいのだけれど。確かめるために重たい目の蓋をゆっくり開く。
音の方へ首を向ければ盆で何かを運んで来たであろう男が半眼でこちらを睨んでいた。
「…これは『起こして悪い』と謝るべきか?それとも、『空眠りとは随分良い性格をしている』と怒るべきか?」
「数分前までは本当に寝てたよ」
証拠とばかりに椅子の背から伸び上がり小さく欠伸を漏らす。男は気まずさを誤魔化すように舌打ちをしてニールが座る椅子の対面にあるもう片方へ腰掛けた。
「よく分かったな、名探偵」
顎で示した銀盆には口に出したメニューが湯気を立てながら揃っていた。
「君がつくってくれる料理は今のところパターンが限られてるから」
「…悪かったな」
今度は本格的に機嫌を損ねてしまったらしい。眉間にみるみる皺が深く刻まれていく。
「悪くない。どれも美味しいよ。最近はレパートリーも増えてきてるじゃないか」
混じりっ気の無い本心を口にしても表情に変化は見られない。
(しまった。ちょっと口が滑ったなぁ)
猛省して没収されないうちにパンケーキが盛られた皿に手を伸ばす。男は不機嫌ながらも無礼を許して親切にカラトリーを配給してくれた。
厚くもなく薄くもない綺麗な焦げ目のついた二枚重ねのパンケーキ。トロリと熱で溶けたミルク色のバター。黄金色した甘い甘いハニーシロップ。
思わず皿の前で深呼吸をしてしまう。
「あぁ、幸せの匂いだ」
何も考えずに零した言葉に男が吐息で笑った。損ねた機嫌が僅かに回復したらしい。
ニールは男の準備が整うのを大人しく待ってからフォークとナイフを両手に構える。そして二人同時にフォークを突き立て行儀良くナイフを入れた。
「相変わらず焦げ目が均等できれいだよね」
「慣れだ。初めの頃はほぼ炭だっただろ」
「僕は今でも真っ黒になるよ」
「…なんでだろうな」
「なんでだろうね」
絶妙に焼かれたパンケーキの切れ端を口に運びながら顔を見合わせて首を傾げる。
ふいに何かを男が思い出したように腕時計を見てからティーポットを取った。
「気になってたんだけど、いつもの紅茶…じゃないよね?」
男がパンケーキをつくると、もれなく紅茶が付いてくる。しかし今回は慣れ親しんだ茶葉の匂いがしない。
「たまには違うものもいいかと思って」
そう言って注ぎ口から出てきたのは見慣れた琥珀色ではなかった。鼻孔をくすぐったのは不思議な香りである。
正体が分からず手渡されたティーカップを眺めてみた。うっすらと緑がかかった透明な液体。鼻を近づけると庭の芝に寝転んだ時を彷彿させる。
「ハーブティー?」
「ご名答」
柔らかい声は紅茶に入れるミルクのように穏やかな空気に溶けていった。ニールはその声を記憶のメモリにしっかり仕舞い込んでからカップの縁に口を付ける。
それはコーヒーや紅茶がすっかり染みついた舌にスッと馴染んでいった。
「どうだ?」
「なんだか体に良さそう」
正直な感想を口に出せば男がアハハと声に出して笑った。ニールに続いて啜ってから納得したように頷いている。
「なるほど、言い得て妙だな。改良の余地がある」
「ん?もしかして君がつくったのか?」
「あぁ。庭先にいくつか知ってるハーブを見つけたから乾燥させて煎じてみた。初めてにしては中々だろ?」
男は茶目っ気を出して片目を閉じながら、もう一口啜る。ニールもつられるように口に含んだ。さっきよりも数段美味く感じるのは愛慕という隠し味のせいだろう。
「美味しい」
「気を遣わなくてもいいぞ?」
「本心だよ。本当に美味しい」
作り手の気持ちがふんだんに込められたパンケーキとハーブティーである。不味い訳がない。それどころか、この世にあふれるどんな三つ星料理だってこの膳の前では全て霞んでしまうだろう。
ニールは再びフォークを握ると幸福でできた食べ物を噛みしめる。
「ねぇ」
「うん?」
「あんな風に確かめなくてもさ、ちゃんと息してるだろ?」
なんでもない、まるで世間話を始めるように軽快な口振りで切り出す。
そこでティーカップを傾ける男の手がピタリと止まった。飲むはずだったお茶は静々とソーサーに戻される。男は珍しくあからさまに弱った顔でニールと向き合った。
男の瞳はピカピカに磨かれた大理石だ。向かい合うと鏡を見ているように自分の姿がよく映る。そこに映る顔には本来あるべきものが一つ欠けていた。
ニールは無くなってしまったものを気にしない。でも男は違う。
(…まぁ、気持ちは分かるよ。逆の立場なら…いや、やめよう。考えたくない)
生来から二つの目で世界を見ていた。そして大事なモノを救う代償に一つ失った。
けれど、言い換えるなら一つで済んだのだ。本当だったら全て失っていたところなのだから。
目の前で不相当に沈痛な面持ちをした男が、歯を食いしばって、足掻いて、策を練って、死体同然のこの身を抱えて走ってくれたおかげで己は全て失わずに済んだのである。
問題なのは、その後だった。
優しい人に後遺症が残る人間の世話をさせ続けるわけにはいかない。そんなこと望んでない。ただ一人のためだけに終える人生を良しとしたから、わざわざ逆行したのだ。
命を拾ってくれたのは、ありがたいと思っている。しかし、重荷になるのだけは我慢ならない。庇われた恩義と罪悪感だけで己の人生を背負い込んでほしくなかった。やめてくれと言ったって聞いてくれないなら、と男の前から姿を消すことも考えた。
だが男は必死に離さなかった。頑固もここまでくると見上げたものである。
なにより、逃がさないとばかりに背に回された男の腕をニールは引き剥がせない。忸怩たる思いはあれど、この腕の中に囲われることはニールにとってまさに桃源郷で暮らすことと同意義なのだから。
以降、弾痕で塞がった左目はニールの誇りになった。後悔の疵にできない以上、開き直るしかない。大切な者を守った盾には丁度いい勲章である。
平衡感覚と距離感はまだ訓練が必要。家の配置は壁や柱にぶつかりながら体で覚えた。長時間の読書は控える。料理は火さえ気をつければ問題ない。頭痛が起きる場合は無理をしないで休む。段々と一つ目との付き合い方を覚えていき、日常生活に支障は出なくなった。
唯一残念なことといえば、愛しい人の姿を映すには眼球一つでは全然足りないということだけ。
世界は人ひとりから目玉を奪ったところで何も変わりはしない。今日も正常に時間は刻一刻と流れている。
だけど、世界を救ったヒーローは未だあの場所あの時間で止まっている。この人にとって人ひとりの目玉は思ったよりも重要なようだ。
「分かってる。お前は、生きている。…分かってるんだ」
「言っておくけど責めてるわけじゃないよ」
「あぁ」
寝ている最中、口元に手を翳されている時がある。
常にではない。でも、頻度は高い。
夜の淵。朝の訪れ。こうした午睡の合間。
ふとした瞬間、震える手が伸びてくる。手に温かな息吹を感じて安心するような溜息も。
そうされる度、男の心がまだあの仄暗い地中のフェンスに閉じ込められているのだと思い知らされる。
そうしたのは、他ならぬ失態を犯した過去のニールだ。
だから、男を閉じ込めているフェンスの鍵を開けるのもまた己の役目である。
「寝てる姿は嫌い」
テーブルの上に手の平を上にして置けば意図を汲んで男がやんわりと重ねてくる。触れた肌から脈と手の温度が直に伝わってきた。
男は首を振って否定する。
「まさか。口から垂れる涎すら愛おしいよ」
「え?ウソ?そんなだらしない顔してる?」
「あぁ。額に入れて飾りたい安らかな寝顔をな」
「やめてくれ。そういうのは見て見ぬ振りをするのがマナーってやつだろ」
イーッと歯を剥き出しにして子供じみた威嚇を茶化すようにすれば、上に乗っている男の手が笑い声と共に揺れた。けれど数秒震えて収まってしまう。
「…頭では分かっているんだ。お前はここにいる。俺と一緒にいてくれている。こんなにも温かい手で」
「そうだよ。今こうして君の手を握ってる」
ニールが親指で撫でれば男は握る手に力を込めた。縋るように。もう離れ離れにならないように。
「でも、怖くなる時もある。この日常が実は全部俺の作り上げた幸せな夢で、ある日突然シャボン玉が割れるみたいにパチンと目が覚めて現実に戻ると隣にニールがいなかったら…なんて」
恐怖が音になって男の喉から絞り出される。手がまた微かに震え出した。でもこれは笑いのせいではない。
「そういう時に限ってお前は目を閉じていたりするから…」
「確かめられずにはいられない?」
ニールが代わりに継いでやれば言葉なく首が縦に振られる。
男に右手をそっくり預けてしまったので空いた左手で頬杖を突く。ついでにもう機能を果たさない左目をサリッと小指で引っ掻いた。
『コレ』が彼に掛けた呪いはどうやら相当根が深いらしい。
(これはもう長期戦だな…)
勿論、受けて立つ所存だ。時間はいくらでもある。何せ、もう二度とこの手を離すつもりはないのだから。
一旦は手放すつもりでいた手をこの人が自ら繋ぎ留めたのだ。ならば、こちらは遠慮する必要がない。例え嫌だといっても離してやるものか。
呆れるほど傍に居て、いつの日かあの地下に横たわる死人もどきの影から解放してみせよう。
「分かった‼君は気が済むまで僕の生存確認をしてくれ」
「ニール?」
重い空気を払拭するように声を上げるとニールは左手でフォークを握り彼の皿に乗っている一枚目の残りに刺して彼の口元に運ぶ。
男は訳も分からずといった顔で差し出されるまま一口で収めるには大きすぎる一切れをかふっと歯で咥えた。
「これを食べ終えたらこの心臓が動いてるってこと、心ゆくまで教えてあげるね」
ニコニコと上機嫌でニールが宣えば、もふもふと食べ進めていた口がピタッと止まる。再び咀嚼を始めてカップに残ったハーブティーをグイッと飲み干した。
「…もう充分だ」
「本当に?足りなくない?」
男は暫し無言で睨み付けていたが重ねていた手を振り解き黙々と二枚目のパンケーキを小さくしていく。その沈黙を誘いの了承と見做してニールは心中で盛大にガッツポーズをかました。
(言ってみるもんだな)
食後にお楽しみが待っているのだ。早く皿を空っぽしてしまおうとニールも手を動かし始める。
そんな、とある午後のひとときであった。
【END】