ヘイワノショーチョー・イエローキャブ【オル相】 自分の部屋にオールマイトがいる。
その光景は何度瞬きしても消えないので、妄想でも夢でもなく現実なのだなと相澤は思う。
何もない部屋の真ん中でオールマイトは天井につきそうな頭を下げるように背を丸めて、何もない部屋の天井の四隅から床の四隅までをゆっくりと見回している。
「……だから何もないって言ったのに」
お付き合いしている人のお家に行ってみたいと言うオールマイトの申し出を相澤が頑なに拒み続けてきたのは、家には何もないからだった。
フローリングの上に直に敷かれた薄い布団。床に直置きされた二十一インチの薄型テレビ。パソコンを置くための小さなテーブル。それだって、使っていれば猫背になって背中が痛くなる。そういう理由でパソコンを持ち帰るよりは今は職員室に泊まった方が断然いい。高さの合う机と椅子があって、寝袋に包まれば出勤時間の無駄も睡眠に充てて省くことができる。
オールマイトと付き合いを始めてからは彼のマンションに引っ張り込まれることも多く、最近ではもう住所のためだけに借りているような自分のアパートの部屋にオールマイトがいる。
やはり相澤には現実味のない光景だった。
「本当だねえ」
それでもオールマイトは念願の恋人の部屋にお邪魔するミッションを達成したことが嬉しいようで、何もない部屋に何もないことを確認してはにこにこと笑っていた。
たまたま夕飯を食べに行った店がアパートの近くで、うちすぐそこですと口を滑らせてしまったばかりにこんなことになっている。
「見たならもういいでしょう。行きますよ」
「え? 私もう少し君のお家探検したいな」
「探検するほどのものがどこにありますか」
八畳ワンルーム。トイレと風呂は別。台所は玄関を入ってすぐで廊下と一体化している。何の変哲もない一人暮らしのアパートの何が面白いのか。
「だってこれとか、あんまり君らしくないから。コーヒー好きなんだね」
台所のシンクの上に無造作に置かれたコーヒーメーカー。
「これも。モデルは古いけどいい機種だね」
洗面台のコンセントに刺さったままの黒いドライヤー。
オールマイトが指摘するそれを見て、相澤の呼吸が一瞬止まる。
「……相澤くん?」
「貰いもんなんで、俺らしくないってのはわかります」
貰いもんと言葉を濁したところで、オールマイトが感じ取った違和感を拭い去れるはずもない。彼のあおい目が一瞬翳ったのを相澤は見てしまった。
「そうか」
それは何を納得した声だったのか。
「……ん。どうしよう。私は自分で思うより嫉妬深いみたいだ」
「物に罪はないと思いますが」
「わかってる。わかってるよ相澤くん。君ならそう考えるし、君は割り切ることのできる人だ。プレゼントの贈り主と君が今どんな関係であろうが、勿論物に罪はないし思い入れもない。その主張は理解する」
「……捨てれば満足ですか?」
多少の苛立ちと共に相澤がそう言い返すと、オールマイトは途端に漂わせた嫉妬の空気を萎ませて首を横に振る。
「君が大切にしている物だ。私にそれを取り上げる権利はない」
「……何がしたいんです? 人のプライベートにずかずか踏み入って過去の男の痕跡探して勝手に嫉妬して勝手に傷付くのやめて貰っていいですか」
「返す言葉もない。ごめん」
生活感のない台所でオールマイトが悄気ている。
口論を含めてやはりどこか遠い世界の、夢の中のような出来事に感じる。
「君の部屋に来られて舞い上がって配慮を忘れてしまった。……今日は帰るよ。これ以上何か変なことを言って君を怒らせるのは本意じゃない」
「ホント何しに来たんですかあんた」
「うう。ごめん怒らないで相澤くん」
「悪いと思ってないくせに謝るから腹が立つんですよこっちは」
「だって私だって知らなかったんだ、君だって三十路だから恋愛経験のひとつやふたつやみっつあったってそれを含めて今の君が好きなんだから全部丸ごと愛そうって思ってるのに元カレから貰ったもの大事に使ってるのかと思ったら、こんな、こんなに醜い気持ちになるなんて」
ぴゃっと長い指と大きな掌で顔を覆うオールマイトの声に相澤は台所の下からゴミ袋を取り出してコーヒーメーカーとドライヤーを放り込んだ。まとめて玄関に適当に置いたところで手を払って埃を落とす。
「他には?」
「……相澤くぅん」
相澤の質問には答えず、オールマイトは相澤に手を伸ばして緩く抱き締める。すんすんと鼻を啜りながら側頭部と耳元に擦り付けられる頬と、繰り返されるごめんねに大仰な溜息を吐いた。
「私も自分で吃驚してるんだ……」
「あんたが嫉妬深いの今に始まったことじゃないでしょ」
「えっ?」
言われて驚いたのはオールマイトの方だ。本当に何を言われているのかわからない表情を浮かべる男の掴むのにちょうど良い前髪を引っ張って顔を下ろさせる。
下から押し付けるだけのキスをしたのにまだしおしおとした顔で元気が出る気配がない。
「自覚無かったんですね」
「……うん。え? いつ? どこで?」
「気が付いてないならいいです。捨てられるようなものでもないし」
「相澤くん、なんのこと」
「知りたいですか」
「当たり前じゃないか」
教えてくれるまで逃がさないぞと相澤に回る腕に力がこもる。
「……教えてあげてもいいですが、あんたの部屋の方が良いです」
「何故?」
「この部屋、バスタオル一枚しかないんで」
相澤の言葉に何が嫉妬深かったのかを理解してしまったオールマイトは神の名を呼びながら片手で顔を覆った。
「私は君にそんなに失礼なことを?」
「だから自覚ねえのかって言ったでしょ」
「……君が私に愛想を尽かしてないのが奇跡だね」
「愛されてるとは思ってますんで」
「愛があれば何をしても許されるわけではないだろう?」
「あのオールマイトもただの男で今は三十路で髭面の小汚い男に夢中だと思うとなんでも許せる気がしてきます」
「そう。恋人の過去を気にしないと言いながら気にしてしまう甲斐性のない心の狭い男の私が、こんなに可愛くて優しい素敵な恋人に夢中なんだ」
「事実誤認甚だしいな」
「人は自分の見るものが真実さ」
くちづけをねだるオールマイトにちょんと触れるだけで返す。深く触れることを許されなかったとオールマイトは悲しそうにするが、それは決して否定や拒否の意味ではない。
「思い出づくりしたいならここでヤってもいいですけど、ローションもゴムもワセリンもサラダ油もありませんよ。あなたの家に行けば装備も万全準備はすぐに整えられて俺を抱けると思いますけどどうします?」
「……近くのドラッグストアは」
「徒歩十分」
活動時間を残したオールマイトにとってはここからマンションに帰るなんて十分もかからないが、人通りのあるドラッグストアへマッスルフォームで駆けつけてローションとゴムを買って帰らせるわけにはいかない。相澤の許せる範囲のオールマイトの世間体と言うものがある。例え店の外でオールマイトを待たせて一緒に行った相澤がローションとゴムをレジを通しても、待っているオールマイトに抱えられて帰る絵面は相澤としてNGだ。平和の象徴はタクシーじゃない。
(いや、それはそれで面白いか)
んんんんと目の前で選択肢に揺れるオールマイトの耳元で相澤は意地悪く囁いてやる。
「この部屋で俺を抱いた男はいませんよ、俊典さん」
「……ドラッグストアに行く…………」
簡単に誘いに乗ったオールマイトの素直な返事に相澤は笑いを堪えきれない。
オールマイトタクシーは使わずに二人で歩いてドラッグストアに向かう。ローションとゴムと、スポーツドリンク、それにふかふかのバスタオルを二枚。
オールマイトの手足がはみ出る薄い布団にぎゅうぎゅうに体を寄せ集めて見上げた天井の景色はすぐにオールマイトに覆い隠されて、何も見えなくなった。