照葉樹林【オル相】「予約もなしで良いんですか」
「要らないよ」
オールマイトともなれば一流ホテルに予約なしで泊まれるのかと相澤は首を傾げ、それでも何の心配もいらないという態度でオールマイトがホテルに何の気負いもなく入っていくものだから、仕方なく着いていく。
ベルボーイの横を抜け、ここで待っていてというオールマイトの声に従い、煌びやかなロビーの天井の装飾を見上げて待つ。場違いな感じが否めない。居心地の悪さに思わず足踏みをしたくなる気持ちすら抑え込んで逃げ出さずに待っていると、キーを受け取ったオールマイトが相澤を振り返って片手を上げた。
しかし、ほっとして駆け寄るのは場慣れしていないように見えるのもどことなく癪に障る。相澤はエレベーターホールの方へ向かって歩くオールマイトの進路の先へ斜めにゆっくりと歩いた。
「本当に大丈夫だったんですね」
相澤の心配にオールマイトは軽く笑って指に挟んだカードキーを見せた。それをぴっとつまみあげ、相澤は片腕が吊られたオールマイトの代わりにエレベーターの行き先ボタンを押す。
「何階ですか?」
すぐにドアは開いた。二人だけが乗り込んで閉まった箱の内側で、聞くまでもなく一番上だろうと大きな数字を眺めながら念の為に問いかけた。オールマイトはボタンの前に立ち人差し指をスタンバイしてボタンを押すだけの姿勢を取っている相澤とパネルの間にするりと手を差し込んで最上階から一つ下の数字を押した。
「……」
「なあに、その顔」
「てっきり最上階かと」
「一番上はラウンジがあるよ。約束通り奢らせてくれる?」
オールマイトはタクシーの中での会話を忘れてはいなかったらしい。こちら側から労うつもりで口にしたはずなのに、オールマイトの目論見は相澤の意図とは逆向きになっている。
「奢ると言ったのはこちらなんですがね」
諦めに似た溜息を吐けばオールマイトは肩を揺らして笑う。いつの間にかこんな距離感で話ができるようになっていたことを驚いている暇はない。
オールマイトのことだからスイートルームでもキープしたに違いないと思いながら鍵を開けて入った部屋は相澤の想像を超えていたからだ。
「……何ですかこの部屋」
「どの辺が?」
「何で部屋がこんなにあってあちこちにベッドがあるんです?何人用ですか。経費で落ちませんよこんな宿泊費」
相澤の発言にオールマイトは懸念を理解して僅かに肯首した。
「大丈夫、お金はかかないよ」
「は?」
更に訳がわからず騙す気かと眉を顰める相澤にオールマイトは落ち着いてと手を掲げる。
「ここ、うちの事務所で借りてるセーフハウスだからさ。お金がかかっていない訳じゃないけど、その辺は今回は気にしないで」
「セーフハウスって……」
近づいた距離がまた遠ざかる気配を振り払いたくて相澤は不機嫌を装った落ち着かない気分のまま全ての部屋を念入りに見て回る。セキュリティチェックが主目的ではあるが、単純にあと一生入ることのないであろう作りの部屋に興味もあった。うろうろと動き回る相澤をオールマイトは備え付けの機械でコーヒーを淹れながら微笑ましく見守っている。子供扱いされていることに気付いて睨み返すも、その視線は既に効力を失っていた。
「どのベッドに寝る?」
「一番チープなのがいいです」
「じゃあそれ。寝てごらん」
オールマイトが指差したのは、大仰な木枠に囲われた馬鹿でかいものだった。どう見てもチープではない。しかし、否定する根拠もないのでジャケットとネクタイをソファの背もたれにかけてそのまま寝転んだ。
ぎしぎしというスプリングの反発を想定していたのに、ベッドはゆらりと見えないさざなみを広げるように相澤の体を受け止める。
「……なんですかこれ」
「ウォーターベッド。すごく疲れが取れるよ」
「あんたが使うべきでしょう」
「君も疲れてる。折角の機会だから君と語り尽くしてみたいけど、ご飯を食べて一杯奢らせて貰ったらそこでぐっすりとおやすみよ。明日、早めに帰るんだろ」
オールマイトは言い出したら人の話を聞かない。
この場所に地の利のない相澤にはオールマイトの論拠を崩すだけの説得材料もなければ、反駁する理由もない。
(……まさか俺にこのベッド使わせるためにこの部屋に来たとか……考えすぎか?)
オールマイトともなれば、こうして借りている部屋がひとつとも限らない。緊急時に使用する前提のセーフハウスならば、マンションも含めてあちこちにあるだろうに、ここを選んだのは何故だろう。
形式ばった場所が苦手な相澤はホテルのレストランより適当な居酒屋の方が好ましかったけれど、今のオールマイトを不特定多数の目を晒すわけには行かないと夕食を譲歩すれば、ホテル側も気を遣ってくれて、レストランは個室を用意してくれた。
簡単に食事を済ませ、エレベーターに乗り込む。オールマイトは迷わず最上階のボタンを押し、一杯だけならいいよね?と確認をとる。
順番が逆ですよとは言わなかった。
照明の控えめなラウンジの、景色のよく見える席を案内される。窓に向けられたテーブルに二人並んで腰を下ろした。茶を頼むのかと思ったら、オールマイトが店員に告げたのはカクテルの名前だった。
「……飲めるんですか」
「折角だからね。一口だけでも雰囲気味わいたいじゃないか。君が奢ってくれるって言うんだし」
やがてオールマイトの前に運ばれて来た酒は、烏龍茶がベースらしく、見た目はほとんどお茶と変わりなかった。縦に細長いグラスを取って、乾杯と傾けてくる仕草に見惚れ、慌てて真似をする。きめ細かな泡の浮かんだビールは全く味がしなかった。
(……緊張してんのか)
オールマイトと二人で酒を飲む。去年の自分では想像もできない未来にいる草臥れた顔の自分が、綺麗な夜景を透過する窓ガラスに朧げに写っている。
くぴ、と本当に一口だけ飲んだオールマイトは、喉を流れるアルコールに酸っぱい梅干しでも食べたみたいに眉に皺を寄せ耐えているようだった。
「ちょっ……無理しないでください」
「んん。大丈夫。ひとくちなら」
静かな店内には会話を邪魔しない程度のピアノの曲が流れている。他のテーブルの声はこちらまで届かない。
並んで沈黙が訪れて初めて、業務時間外に話すことなど何もないのだと相澤は口下手な自分を嘲るようにビールを煽る。
「ペース早くない?」
「……飲んだなら帰りますよ。あんたには休養が必要なんです」
「せっかちだな。もう少しだけ、いいだろ?」
相澤の分のビールの追加をオーダーして、オールマイトは何を話すでもなく穏やかに笑みを浮かべて景色を眺めていた。
「……安心するよ」
「何がです」
「光がある、ってことに」
地上から放たれる光は、そこに人々の営みがあるということだ。どこかで事件は起き、どこかでヒーローが駆けつけている眼下の世界は、これからオールマイトという唯一無二の太陽を失ってどう変化して行くのだろうか。
「……そうですね」
何度おかわりしてもかぱかぱとビールを飲み干し、さっさと帰るぞと言う意思表示をする相澤にオールマイトは根負けして席を立った。ほぼ手付かずのグラスは、触れらることもなく氷は溶けて表面にたっぷりと汗を掻いている。
「残すなら貰います」
手を伸ばしてグラスを取り一息に飲み干す。炭酸のない茶はアルコールを感じさせない口当たりだった。
「うわあ……君本当に大丈夫?」
怯えた顔のオールマイトに大丈夫だと告げる。会計もなくただ店員は頭を下げて二人の退店を見送った。
財布に手を伸ばしたまま訝る相澤に、オールマイトは精算は一括なんだと悪びれず告げる。
「なんですかそれ。払います」
「請求書来たらね」
これは絶対に払わせる気がないと確信した相澤は今から戻ってメニュー表のオールマイトの酒がいくらだったか確認してやろうと振り返る。その相澤の首根っこを掴んでオールマイトは有無を言わさずエレベーターに引き摺り込んだ。たたらを踏む足に酔いを感じ、相澤はよろめいた体をエレベーターの壁に預けて恨みがましく睨みつけた。
「オールマイトさん」
「次回に持ち越してくれよ。楽しい約束は、終わらせたくないからさ」
相澤に背を向けたまま発した言葉に、どこか、目の前の人がふといなくなってしまうような錯覚に襲われる。
生き残った。
オールマイトは、勝ったのだ。
(なのにこの不安感は、なんだ?)
部屋に戻り、あとは眠るだけだ。一度浮かんだだけなのに掻き消せない不安が、蜘蛛の糸のように絡みついている気がして相澤は己の体をぱっぱっと手で払う。
「じゃあ、君はそのベッドで寝るといい。よく眠れるはずさ」
ベッドの縁に腰掛けた相澤がぼんやりしていると、バスローブに着替えたオールマイトがおやすみの挨拶をしに来た。
見上げた体は細い。
「あんたは、どこで?」
「私?そうだな、向こうの……」
あっち、と持ち上げて伸ばしかけた手を相澤が掴む。
「ん?」
「ここで、寝てください」
痛めた右腕に負担にならないよう引き込んで、前のめりになった体を上手くいなしてベッドに横たえた。ぽよんとベッドが揺れる。
「でも、ここは君の」
起こしかけた上半身は肩に手を添え動きを阻害した。
「体を休めるに効果的なベッドなら、この方がいいでしょう」
男二人が寝てもまだゆとりのある幅だから、何の問題もない。
「ううん、相澤くん、ウォーターベッドって互いの身動ぎで揺れちゃうから二人で寝るのあまり向いてな……うわもう寝てる」
オールマイトが真向かいで何やらぶつぶつ言っているのは聞こえたけれど、相澤は伸ばした手を引っ込める気はなかった。
それが最後に飲んだ薄いカクテルのせいだとしても。
世界が光を失った絶望感よりも、目の前の彼が生きている、ただそのことだけがどんなに嬉しいかを声にすることができない。
「……来週、絶対奢り、ます。そしたら、また……」
約束を叶えるのが怖いなら、何度だって繰り返せばいいだけだ。眠気に逆らいもごもごと動いた口が発した言葉がオールマイトに届いたかわからないまま、意識は急速に眠りに吸い込まれて消えた。
手のひらは、ずっと温かかった。