流水の果て【オル相】 家庭科室の窓を閉め忘れたかもしれない、と別れ際に緑谷が突然慌てたのを聞いた。
「それなら、職員室に戻りがてら見て行ってあげるよ」
「え、でも」
まさかオールマイトの手を煩わせるわけにはと顔色を曇らせる緑谷に、いいから行きなよとオールマイトはなんでもないことだと笑う。
「職員室と同じ方向なんだから私が行く方が合理的だろ。皆と自主練する約束をしていたろう?早く行かないと遅刻するぞ」
「す、すみません!ありがとうございます!」
(合理的だなんて相澤くんの口癖がうつっちゃったな)
何度も頭を下げてぱたぱたと廊下を走り去る背に、廊下は走らなーい、と声を掛けオールマイトは周囲を見回し誰もいないことを確認するとや緑谷とは逆方向に歩き始めた。
訓練の進捗や体調確認のわずかなヒアリングのための会話だったけれど、誰かに、特に相澤あたりに見られようものなら『また緑谷を特別扱いですか』などと強烈な説教が飛んで来ることに間違いはなく、かと言ってその理由を堂々と説明はできないのが歯痒い。
放課後の校舎は大半の生徒が既に帰宅済みだ。一部の自主練を行う者は運動場や体育館に場所を移している。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った建物の中を歩いて、家庭科室の後ろ扉を開けた。
窓は開け放たれた様子もなくきちんと閉まっている。念の為近づいてひとつひとつ施錠を確認していると、眼下に広がる中庭の片隅に人影が見えた。
黒い塊に相澤を連想すれば、それは果たしてその通りだった。もう一人は女生徒だ。
家庭科室は三階にある。相澤の視角にこの窓は顔を上向かせないと入るまい。オールマイトという目撃者がいることにも気づかず、二人は会話を始めた。
(……あの子は……確か経営科の三年の)
名前を思い出せずオールマイトはうんうんと眉を寄せつつその光景をなんとなく眺め続けてしまう。
施錠は確認できたのだからさっさと立ち去ればいいのに、どうしてか、人目を避けるように放課後の中庭で相澤と名も思い出せぬ女生徒が二人きりで会話をする事実に、胸が騒いだ。
相澤はポケットに手を突っ込んで猫背のまま、無表情で女生徒が何かを話しているのを黙って聞いていた。
時折、首を横に振って否定の意思を示しつつ、女生徒は質問か訴えか、畳み掛けるのを止めない。しかしながら相澤の表情が不機嫌になることもなかったから、おそらく有意義な議論が交わされているのだろう。
やがて、ふうと大きく息を吐き肩を落とし、根負けしたのは相澤のようだった。反対に女生徒は喜色満面、万歳と両手を挙げて歓喜の舞を踊り始めている。
(……まさか相澤くんに限って、生徒と交際なんてことは、ないだろうけど)
どうしても二人が何を話しているのか気になった指がクレセント錠のつまみをかちりと押し下げた。
音を立てないように隙間を開けた窓から飛び込んで来たのは夏が近い風と。
「じゃあ、お付き合いの程、宜しくお願いします!」
という、女生徒の声で。
ピシリと全身が強張り、オールマイトはぎこちなく窓から一歩後退った。
(……え?)
『オールマイト、オールマイト。至急校長室まで』
校内放送のチャイムと共に根津校長の声が教室のスピーカーから溢れ出た。
(やば!)
隙間から漏れ出る音に気付かれてはいけない。
急いで窓を閉め鍵を掛け直してオールマイトは家庭科室を飛び出る。急いだくらいでびくともしないはずの体は校長室に駆け込んだ時には信じられないほど心臓がばくばくと激しく動いていた。
全てを見通す根津の目が、お呼びでしょうかと笑みを作ったオールマイトの逡巡をスキャンしている。
「お邪魔だったかな?」
「何がでしょう?」
「話を始めてもいいかな?」
「勿論です」
そうして始まったのは何故かそうめんの蘊蓄で、話が主題に辿り着く頃にはオールマイトは今晩の食事をそうめんにするしか選択肢がなくなっていた。
暮れなずみ夕と夜の半ばの色の空になる頃、やっと解放、もとい有難い校長の話が終わったオールマイトが職員室に戻ると、オールマイトの入室に気付いた相澤がまだ入り口に立つオールマイトを見て眉を顰めた。
まさか覗いていたことを気付かれてはいるまいな、とオールマイトはやあお疲れ様相澤くんと当たり障りのない挨拶をして席に着く。
(あの子とお付き合い)
邪念と好奇心、そしてよくわからない痛みが胸にある。特定の生徒に肩入れをするなど注意するその口で?と刀を返したくなるけれど、それとこれとは問題が別だ。
(交際は……ええと、倫理的に、良くないけど)
人を好きになる気持ちは止められない。
(相澤くん、あの子のこと好きなのかな)
ちら、と視線を向ける。
(う)
相澤は、それよりも先に、じっとオールマイトを睨め付けていた。見たことを誤魔化せない。視線を合わせたままぎくりと表情を強張らせたオールマイトの前で相澤は席を立った。
「ちょっと良いですか」
「……う、うん」
他人に聞かれなくない話はいつしか仮眠室で行う暗黙の了解ができている。距離を保って相澤の後ろを歩く、この三メートルが今の相澤とオールマイトの心の距離だ。
「あんた、わかりやす過ぎるんですよ」
ドアを閉めて開口一番相澤が文句を言って来た。
「な、なんのことだい」
「さっきの見てたんでしょう」
心臓が締め付けられた。やはり、窓を閉める際に気付かれたのだ。相澤の周辺察知能力に感心しつつもオールマイトはあれは故意ではないと弁明した。
「覗くつもりはなかったんだよ。君があの子と交際するんだとしても私は誰にも口外する気はないよ!でも、教師と生徒の交際はその、君的にいいのかい?」
相澤のこめかみが引き攣った。
「何の話をしてるんです」
腹の底から湧き上がる低い声。個性を発動していないのに髪の毛が逆立ち兼ねない迫力だ。
「あの子は新聞部です。次号の教師インタビューの枠が俺だというのを断っても食い下がって来たんで仕方なく受けただけです」
「新聞部?じゃあ、お付き合いの程、ってのは」
「取材に、でしょう。断片的に切り取って勝手に誤解して勝手に態度をおかしくしないでください」
「……そうなんだ」
相澤が生徒と交際に前のめりになるような人でなくて良かった。そもそも交際の事実がなくて良かった。
ほっと胸を撫で下ろす吐息とじわりと指先まで染みていく安心感。
「そっかあ。良かった」
繰り返されるオールマイトの安堵の言葉と笑みに相澤は徐々に表情を困惑に変えた。
「生徒と付き合うように見えますか」
「そうは思わないけど、人の心は止められないからさ。恋に落ちたら綺麗事なんか言ってられなくなるものなんだろ?」
「……そうですね」
「良かった。ほんと、良かったよ」
良かったどころか誤解だったことがこんなにも嬉しい。相澤がきちんと否定してくれたことも。
「ああ、安心したらお腹空いちゃった。相澤くん今晩何食べるの?私さっき校長に呼ばれてずっとおそうめんの話聞いてたらもうすっかりおそうめんの口になっちゃったよ」
「なんですか、それ」
脈絡のない話の流れに相澤が僅かに笑う。口元に指を当てて撓められた目にオールマイトが見惚れると、リアクションの薄さで呆れられたのかと勘違いした相澤は姿勢を正した。
「……たくさんあるんだけど」
「はあ」
「お付き合いしてくれる?」
「誤解を招くので言葉を省かないでください」
教訓から学べと相澤が苦言を呈す。
オールマイトは、先程からの浮かれ気分が何に起因するものなのかをやっと理解しながらもう一度告げた。
「お付き合いして欲しいな」
「そうめんにね」
真意に気づかない相澤は話も済んだしさっさと戻りますよと仮眠室のドアに手を掛ける。
言葉遊びを躱せないくらい心の距離が近付いたら、相澤は同じ問いかけに何と答えるのだろうか。
「……行きますよ?オールマイトさん」
「うん」
「ちなみに流しそうめんの機械あります?」
「ないなあ」
ないんですか、と相澤が残念そうに呟いたので、オールマイトはこの夏、流しそうめんの機械を買って二度目のお付き合いを申し込もうと心に決めた。