フィッシングテクニック【オル相】 ずきん、と痛みの走る頭に手を当てる。ほんの少しの時間で過ぎ去ったそれに、止めていた息を長めに吐き出せばこちらをじっと見ている眼差しに気付く。
「今日中に提出のものは終わっていましたよね」
私の返事を待たず、相澤くんは自分の机の上のものをてきぱきと片付け始めた。
「終わってるけど……どうしたの?」
「頭痛いんでしょう。無理しないでください」
それでなくとも、今日は気圧の落差が激しい。
先の大戦をなんとか生き延びた私達は互いに傷を抱えてしまっていて、天候によってあちこちに痛みや言葉にしづらい不調が出てきてしまう。とはいえ、そんな体にも鞭打って駆けずり回ったおかげで日常生活を取り戻しかけるくらいには回復してきたのだけど。
時計は二十時を過ぎた頃。普段なら遅めの夕食を職員室で済ませて、またもう一踏ん張りする時間だ。しかし先の宣言通り相澤くんは今夜はもう帰るつもりらしい。勿論私一人が残っても何ら問題はないのだけれど、帰り支度もせず突っ立っている私に相澤くんは早くしろと言わんばかりの強い視線を投げて来た。
私達は、一緒に住んでいる。
破壊された街には安全な住居の絶対数が少なかった、最初はそんな建前で彼を私の家に引き摺り込んだようなものだけれど、今では相澤くんの意思を確認した上でうちに住んでもらっているので名実共に同棲と言える。
家に帰るなり、相澤くんは私を玄関に置き去りにしてマンションの中をぱたぱたと歩き回って忙しそうにしている。私はマフラーとコートを脱いでハンガーに掛け、ご飯の支度をしようとキッチンに向かった。
何を作ろうか、取り敢えず味噌汁を……と小鍋に水を入れ火にかけようとしたところで真横に立った相澤くんに手首を掴まれる。
「ん?」
「あんたは座っててください」
私は彼の態度が何に起因するのかをようやく思い付いた。
「やだな、大丈夫だよ。さっきのは」
確かにさっきの箇所はまだ痛むけれど、家事を放り出して体を丸めるほどのものじゃない。笑って心配性な相澤くんを安心させようとしたのに、相澤くんの眉間の皺は深くなるばかりだ。
「落ち着いたら血圧測りましょう。問題ないようなら風呂沸かしてますからゆっくりあったまってください。頭痛薬もばあさんから貰ったやつがあります。お粥作ってる時間はないから今からおじやを煮ます、それを食べたら薬をどうぞ。ベッドに布団乾燥機もかけて来ました。今のあんたに必要なのは充実した睡眠です」
捲し立てられたフルコースに私はなんと言葉を紡げば良いかわからなくなって、消極的な肯定のような吐息だけが鼻から漏れた。
「ひょっとして、君が具合が悪いなら先に帰れって言わなかったのって、そのため?」
相澤くんは大きな溜息を吐く。それが照れ隠しの仕草だと知ってからは愛しさは増すばかりだ。
「一人で帰るのヤダ!とか相澤くんも一緒がいい!とか駄々こねるの目に見えてましたし」
「私そんな我儘じゃないよ?!」
「正直俺も足は痛んでましたしね。でもあんたの方が辛そうだった。一人で帰すのは容易いですけど、あんたを一人で家に帰しても真っ暗な部屋の中で自分を労ってくれるとは思いませんでしたから」
相澤くんは少し屈んで義足との繋ぎ目の膝の内側を撫でながら軽く笑う。それは、自嘲じゃない。
「あんたを帰すにゃ、俺で釣るのが一番効果的です」
上げた顔の、私に優しい酸いも甘いも知り尽くした相澤くんの仕方ねえなって表情は私だけが知り得る、宝物だ。
「本当にかっこいいね、君は」
「惚れ直したらまずは血圧から」
「私まだおじいちゃんじゃないよ」
「片足突っ込んでるでしょう」
キッチンからリビングに連れ出され、ソファの上で真剣な顔で相澤くんは私の腕に引っ張り出して来た血圧計のベルトを巻いた。
これも愛情の成せる技。
ぎちぎちにベルトを締め上げてスタートボタンを押して去っていく相澤くんを眺め、今夜も彼を抱き締めて眠れる喜びを余すところなく享受するために早く痛みが消えるよう祈りながら目を閉じた。