……その館、と言うより城は、緑の森の奥深くにあった。
人喰いの魔物が出るから近づくな、と近隣の村の子供達は言い聞かされて育っていたが、彼は信じていなかった。
なぜなら。
少なくともこの100年ほどの間に、実際に件の城に向かって帰らなかった者も、人喰い鬼に喰われたと思しき亡骸も発見された事実はなかったからだ。
興味があるのは、ただ一つ。
その城には何があるのか。なぜ、そのように言い慣わされているのか。
また別の伝承によれば、その城では永遠が手に入ると言う。
殊更に不老不死など興味はないが、学ぶには人の一生はいかにも短い。
もし永遠という時間が得られるのならば、それこそあらゆる森羅万象をしゃぶりつくし、未知の謎を解き明かしたい。
……知りたいことは山ほどあるのに、時間は有限で。なかなか思うように知識の探求を進められない。
この世の全ての知恵、知識、先人たちの偉業とその足跡に触れることが出来るのならば。
科学の世界に神は初めから不在だ。
だから、魔物の手を取ることだってやぶさかではなかった。
城の敷地内に足を踏み入れると、森と見紛うほどに広い広い庭園があって。
さまざまな、見たこともない植物が自生していた。……なるほど、それで緑の城なのか。
薬草、毒草の一角があるかと思えば、色とりどりの薔薇の生垣やアーチまである。
全部で何種類の植物が並んでいるのか、見当もつかなかった。
アーチの先には小さな白い四阿があり、そこで喫茶を楽しめるようにティーテーブルが設られている。ということは、この城のあるじが太陽の光を恐れる魔物というのもおそらく眉唾なのだろう。
古びた城ではあったが、品の良い、静謐な雰囲気で。村の連中が言うほど、気味の悪い建物だとも思わなかった。
「 ……君」
ふいに、背後から声がかかる。
気配を感じさせない声の主に驚いて振り返ると、彼より少し年長と思われる青年が立っていた。左半分がサラサラとした肩を覆う白髪……いや、銀髪だろうか。きらきらと陽を弾く、なんだか不思議な色の髪だった。右半分が、短く刈り揃えられた黒髪という、特徴的な髪型をしている。ほんの少し高い目線から見下ろす瞳は、夜の青。
しろいしろい肌に、ドレスシャツとシャボを纏い、淡い紫色の上衣を羽織っていた。
「 ……あ"〜、勝手に入って悪かったな」
「 いけない子ね、ここには化け物が出るって、パパやママから言われなかった?」
困ったような笑顔を向けられて、素直に謝罪する。人が住んでいるのなら、これは不法侵入だ。
「 親父はもうずっと遠くで働いてるし、お袋はいねぇ。……魔物っつうのは特に信じちゃいなかったが、村の奴らはそう言ってんな」
「 そう、ここには人喰い鬼が出るの。……いい子だから、このままおうちに帰って忘れちゃいなさい」
どこか女性的な、やわらかい口調で紡がれる言葉に、頷きそうになって。
はっとして言葉を返した。
「 いや、それはねぇよ。……少なくともこの百年、実際にこの城での失踪者も死者もいねぇ。それは調べがついてる。それに、テメーはここに住んでんじゃねぇか」
まさか自分の城の庭先に人喰い鬼を飼ってるわけもねぇだろ。
そう言うと、男はまた困ったようにわらう。
「 ……君は」
「 千空だ。君とか言われんのはなんか据わりが悪りぃ。名前でいい」
「 ……そう。じゃあ、千空ちゃんは、どうしてこの城に来たの?言い伝えの真相を暴きに?それとも、宝探しにでもきたの?」
残念ながらここには、こんな胡散臭い男が一人で住んでるだけよ。そう言われて。
「 永遠があるって聞いたんだ。……俺は、山ほど知りたいことがあって、そのための時間はいくらあっても足りねぇ。だから、本当にそんなものがあるのなら、ほしいと思った」
正直に伝えると、男は少し目を見開いた。
「 ……本当にいけない子。永遠を手に入れるってことは、ヒトじゃなくなるってことよ。
離れて暮らしてるパパとも、お友達とも、村のみんなとも。二度と同じ時間の中で生きれなくなってしまう、それでもいいの?」
「 普通に生きてたって、ずっと一緒に居られるわけじゃねぇ。……少なくとも、俺が先に死ぬこたぁねぇってことだろ?構わねぇよ。……先に死なねぇなら見届けられる」
「 ……それは、その代わりに君が彼らに置いていかれる…ずっと、取り残されるってことなの。本当に、それでいいの?」
「 ほーん、テメーはそれで外界と交流を絶ってんのか。……人喰いの魔物とか、スゲー言われ方してんぞ」
繰り返される問いに、目の前の男が辿ってきたであろう人生を思い浮かべた。
……そうか、コイツは。
俺を、自分と同じにしたくないんだ。
噂の食人鬼は存外に感傷的で。
……そして、臆病だった。
「 俺はそれでいい。……俺に永遠をくれ、
……あ"〜、名前聞いてなかったな、何てんだ?」
「 ……ゲン」
「 おう、じゃあいっちょ頼むわ、ゲン」
す、としろい手が伸びてきて、長い指先が唇に触れる。
ちくりと、わずかに痛みが走った。
「 とりあえず、眷属にはまだしないけど。……まあ、おまじないみたいなもの。
ちょっとだけ、血をもらったよ」
「 チッ、お預けかよ」
「 ……俺は花からマナ……魔力……うーん、生気?を補給出来るし、基本的に人は襲わないし殺さない。今みたいに、ちょっとだけ生気を分けてもらうことはあるけど。
このとおり、太陽の下も歩ける。でも、死なないし歳も取らない。
……しばらくここにいて、それでも気が変わらなかったら、改めてプロポーズして」
揶揄うように言って、男はまたわらう。
「 なんだプロポーズって。……テメーの手を取って跪いて、永遠の愛でも誓えって?」
いらえに、きょとんと夜空の色の目が見開かれた。それから、ふふっと小さな笑い声が漏れる。
「 ジーマーで?
……うん、じゃあそれで行こっか。千空ちゃんが、本当に俺と同じ時間を生きてもいいって思ったら。
……俺の手を取って跪いて、……ずっといっしょにいるって言って」
「 そんなんでいいのかよ?」
すかさず切り返されて、え、と顔を上げると、千空はゲンの手を取って。
跪くと、軽く指先にくちづけた。
「 ……俺が、ずっとテメーのそばにいる。
約束だ」
言葉に、そして真摯な眼差しに。
久しく感じたことのない感情が流れ込む。
「 ……困った子だね、ジーマーで」
後悔しても知らないよ?
そうつぶやいて。
身を屈めると、ゲンはそっと千空の首筋に触れた。そのまま、口の中でちいさく、呪文のようなものを唱える。
ふいに、額から瞼にちいさく痛みが走って。
差し出された鏡を見ると、瞼の上からひび割れたような刻印が刻まれていた。
「 これで、契約は完了。……千空ちゃん、こちら側にようこそ」
そう言って、妖しげにわらうゲンに手を伸ばして。抱き寄せると、そっとやわらかいくちびるにくちづけた。
「 ……プロポーズなら、誓いのキスで締めるもんだろ」
ニヤリとわらいながら嘯くと、ゲンのしろい頬が、ほんの少し。
朱を差したように染まった。
「 ……あ"ぁ、そうだ」
ふと、思い出したように切り出されて、戸惑いも覚めやらぬまま小首を傾げる。
「 永遠が手に入ったら、もうひとつ。してみてぇことがあったのを思い出した」
「 ……なあに?」
「 恋だ」
言葉とともに、千空はふっと皮肉げに目を細めた。予想外の、そして端的すぎることばに、ゲンはきょとんと目を見開く。
そのくらい、不死者とならずとも……生者のままでも十分に謳歌できることだ。
こんなリスクに見合うことではない。
そう思ったけれど、どうやら千空の考えは違うらしい。
「 テメーみてぇに時に飽いてるヤツには、意味がわからねぇかもしれねーが、俺にとってはヒトの一生は短すぎる。知りてぇこと、学びてぇモノ、やりてぇことが山ほどあって、一生かけてもたどり着けるのはそのうちの一握りだ」
「 だから、恋愛なんてのも非合理的なトラブルの原因程度にしか捉えてねぇし、実際そこにリソースを割いてる時間もねぇ。
……だが」
そこで一拍置いて、千空は続けた。
「 永遠に生きることができるなら、無尽蔵な時間を得られるのなら……ダレカを好きになる余裕だって出来んだろ?」
そう言って、今度はひどくやさしい目でほほえんだ。
「 ……まさか、両方いっぺんにゲットすることになるとは思わなかったけどな」
まっすぐでやさしい、篝火のようなあたたかな眼差しに、この数百年、感じることのなかったやわらかい感情が胸を満たす。
この胸の高鳴りはなんだろう。自分は一体、どうしてしまったんだろう。
……けれど、彼ならばきっと。
数千年をともに生きたとしても飽くことなく知の探求を続けるのだろう。
そして、ことばどおり。
かたわらにいてくれるのだろう。
ああ、それはまるで。
……夢のような。