幕間の楓恒㉝ 丹楓が居る部屋へと走り寄ってくる音が聞こえ、丹楓は重く息を吐き出しながら筆を走らせていた手を止めた。足音の大きさからして、丹恒ではない。今日は客人を呼んだ覚えも許した覚えもないことから龍師の誰かの足音だろう。
何か急ぎの案件か、それとは別の事柄か。どちらにしようとも今処理している仕事の手を止めなければならない。
部屋の前で止まった足音は急ぎ早に扉を叩く。返事を待っているのは、この部屋を無断で開けてはいけないという禁則事項があるからに他ならないが返事を待っている時間も惜しいのか扉がガタリと揺れた。どうやら、既に扉に手を掛けているようだ。
「入れ」
「失礼します! 飲月君、申し訳ございません、丹恒様が!」
「…近寄るなと余は言っていなかったか」
目を細め、丹楓は部屋に入ってきた龍師へと視線を向ける。此の龍師に限ったことではなく、誰も丹恒には近づくなと言っていた筈だ。丹恒もそれがわかっているからか自分から龍師に近づくことはない。
そんな丹恒が、龍師が慌てながら丹楓へと知らせるような事態を起こすとは思えず丹楓は目の前の此の龍師が丹恒に何かをしたのだと判断をして、じとりと見つめた。
自覚があるのか、それとも丹楓が部屋の温度を数度下げてしまっているかはわからないが冷や汗を流し顔色を悪くした龍師は丹楓の前に座り込むと額を床に擦りつけてくる。
そんなことをされたところで丹楓の視線の温度は上りはしないというのに。
「も、申し訳ございません…脱皮の時期が近いとお伝えをしようとしただけなのです」
「は…、もうよい。其方は明日からこの屋敷に踏み込むことを禁ずる」
「飲月君…!」
「いつまで余の目の前に居るつもりだ」
「…っ…」
丹楓が手を翳す素振りをすると、顔色を更に青くし目の前に居る龍師は転がりながらも部屋から出て行った。
身の内に残る怒りを吐き出すように丹楓は息をつくと、途中まで書いていた書類を端へと寄せる。本日中に此れの続きを書く余裕はないだろう。
生まれてからまだ数度しかしてはいないが、丹恒は脱皮がどうしても苦手らしい。一番初めにした頃の感覚がまだ忘れられないようで『脱皮』の言葉を聞くとすぐに何処かへと行ってしまうのだ。
だからこそ丹楓は丹恒が脱皮に慣れるようにあれこれと手配を進めていたのだが、考えなしの龍師のせいでそれすら無駄にされてしまった。
重い息を再度吐き出しながら丹楓は席を立つと、部屋の扉を潜る。丹恒が何処迄行ってしまったかはわからないが、誰からも連絡が来ていないということは仲間の誰かの所ではないのであろう。
それならばまだ近くに居る可能性もある。あの龍師はいなくなった丹恒を探しになど行っていないだろう。何処かへと逃げだした丹恒を見て慌てて知らせに来たに違いない。
以前、脱皮から逃げ出した丹恒を見つけたのは屋敷の中だった。屋敷の裏手にある大きな木に登り隠れようとしていたが降りられなくなったのか木の上から名前を呼ばれた覚えがある。
同じところに隠れているとは思えないが、屋敷の裏手の方へと足を向けるがやはり木の上にも影にも丹恒はいないようだ。
となればやはり屋敷ではない所まで行ってしまった可能性が高い。
近場に居た龍師に先ほどの龍師は二度と敷居を跨がせてはならないと伝え、屋敷の外へと向かう。
丹鼎司内を歩き、数分。やはり丹楓が考えていたように丹恒はそこまで離れたところまでは行ってはいなかった。鱗淵境へと向かう途中の道中の木の影に隠れるように座り込んでいるのが見えるが不安げに揺れる尾が隠しきれず見えてしまっている。
ふ、と息を吐き出して丹楓は丹恒の方へと歩み寄る。
自分に近づいてくる足音に気づいたのか、ピンッと尾を跳ね上がらせた丹恒が木の影から顔を覗かせる。
「ふーにぃ…」
「出かけるならば一言伝えてからにするようにと、余は其方に言わなかったか?」
「……う…」
丹恒も何も言わずに屋敷を飛び出したことを反省しているのだろう。でなければ屋敷から然程遠くないこの場所で、不安気に尾を揺らしながら待っているとは考えづらい。
だが、現状の丹恒が脱皮を苦手としていることは変わらず丹楓が再び脱皮の話をしようものならまた何処かへと逃げだしてしまうかもしれない。追いかけ合うのも、無理に引き留めるのも丹恒の精神上良くはないだろう。
元々手配をしていたものから逸れてはしまうが、このままではいつまで経っても丹恒の脱皮が進まない。
丹楓は息を吐き出すと木の影から出てこようとしない丹恒の体を抱き上げる。対して抵抗せず抱き上げられた丹恒はぱちぱちと瞬きをすると、丹楓の着物を紅葉のような小さな手できゅっと握りしめた。
「ふーにぃ…ごめんなしゃい……」
「今後繰り返さぬように…其方ならできるであろう?」
「…ん」
「ならば、良い」
丹恒の体を支えるように丹楓は丹恒の背中に手を回す。このまま屋敷に帰ることもできるが、脱皮のことも意気消沈している様子からも屋敷に真っすぐ帰ることは得策ではないだろう。
今回の脱皮で連れていくつもりではなかったが、今後の脱皮でいつかは連れて行こうと考えていた所へ丹恒を連れていくのも良いかもしれない。屋敷に戻るのはかなり遅くなってしまうだろうが丹楓からしてみれば其れは既に知ったことではなかった。
「ふーに?」
屋敷の方向とは別へと足を向ける丹楓へ丹恒がこてんと首を傾げる。丹恒へ何処へ向かうとは告げず丹楓は丹恒の頭を数度撫でると、屋敷とも鱗淵境とも違う方向へと足を進めた。
歩みを止めることなく歩き続け、丹楓は人影が無く周りにあるものは植物のみの地へと足を踏み入れていく。始めて来る場所に丹恒は興味はあるようで丹楓に抱え上げられながら目だけはきらきらと輝いているように見えるが、離れないようにか丹楓の着物を握る手の力は緩まなかった。
「ふーにぃ、きらきら!」
丹恒が指で示した方向の先に人工の光を反射し輝いている湖面が見える。丹楓が丹恒を連れてこようと考えていた湖が見えてきたようだ。丹楓も禊等をする際にしか来ることはないが、丹恒の尾が興奮仕様にぶんぶんと振られているところを見ると連れて来たのは間違いではなかったのだろう。
湖の側迄来た丹楓は丹恒を地面へと下ろし、服へと手を伸ばす。
「ふーに、あれ」
「蓮だな、初めて見るか?」
「ん!」
際限なく興奮している丹恒は丹楓が服を脱がさなければそのまま湖の中へと飛び込んでいってしまいそうだ。自分で脱がせることもいつかは覚えさえねばならないと丹楓は考えながら丹恒の着物を脱がした。
「ふーにぃ」
「好きにせよ」
「ん!」
こちらを伺うように大きな瞳で見上げられ丹楓は僅かに口角を上げて其れだけ言うと丹恒は大きく頷きそのまま湖の中へとぴょこんっと飛び込んでいってしまった。
着水する際の水しぶきが丹楓にまでかかってきたが、湖の中で気持ちよさそうにしている丹恒を見ていると怒ることも憚られた。
丹恒の着物を畳み、濡れない場所へと非難させると丹楓も己の着ている着物の羽織を脱ぎ去り、湖へと足をつける。
丹楓がこの場に丹恒を連れて来たのはただ丹恒に水遊びをさせる為だけではない。丹恒の脱皮の為でもある。
「丹恒」
ぷかぷかと湖の中で心地よさそうに泳いでいる丹恒の名前を呼ぶと、尾を揺らしながら丹恒が近づいてくる。数刻前の意気消沈していたことが嘘のようだ。
「脱皮が其方にとって必要なことだとはわかっているな」
「…う……」
脱皮の話題を出すだけで表情を曇らせる丹恒に小さく息を吐き出しながら、丹楓は水の中で丹恒の尾に己の尾を巻き付けた。
丹恒が通常の持明族とは違うせいか、脱皮を定期的に行わなければ体調に影響を及ぼす。なればこそ、丹楓も丹恒が脱皮に苦手意識をもたないようにと手配を繰り返していた。
この場もその一つだった。普段は禊で使われる神聖な場所であれば、鱗が剥がれる時の痛みも幾分か緩和されるだろうと。
丹楓が尾で撫でただけでも丹恒の尾には既に剥がれそうな古い鱗が何枚かある。その鱗さえ剥がれてしまえば体調を崩すことはないだろう。
「苦手であろうと逃げてはならぬ、わかるな?」
「……ん、」
小さく頷いた丹恒の尾へと丹楓はゆっくりと手を伸ばした。自分の尾に伸ばされる丹楓の手を視線で追いかけてしまっている丹恒はこのまま鱗がはがされてしまうことを想像しているのかぷるぷると震えている。
「この水の中ならば、普段よりは痛くないだろう…だがあまり見つめていると痛く感じるかもしれん」
「…う」
「余が鱗を剥がしている間、他のものを見ていれば良い」
「……ふーにぃ」
「なんだ」
「こー、ふーにぃみてる」
「…、そうか」
そう言った通り、丹恒は丹楓の顔をじっと見つめてくる。思わず丹楓は小さく笑みを零しながら、丹恒の鱗へと指を伸ばす。
一枚目がぽろりと落ち。
「……う…」
二枚目がぺり、と剥がれる。
「…ふ、にぃ…」
そうして何枚かの鱗を剥がし終え、丹恒の尾へ視線を向けた後手で触れ、尾でも触れる。古い鱗はどうやらもうないようだ。
己の方をじっと見つめていた丹恒へと視線を向けると涙で潤んだ瞳にはなっているが以前の脱皮の時のように泣きはしていないようだ。痛みもあったはずだが、我慢したのだろう。
丹楓はそんな丹恒の頭を数度撫でると、ぱちぱちと丹恒が瞬きをする。
「全て剥がれたぞ」
「う、…ふー、にぃ…」
「前回よりは成長したな」
「ん……ふーに…ありあと…」
「ふむ」
まだ痛みがあるのかはわからないが、ぎゅっとくっついてくる丹恒の頭を丹楓は撫でながら視線を空へと向けた。気づけば月が空高く昇っている。
丹恒が風邪をひく前に湖から出さなければといけないと考えながらも、腕の中にある温もりと離れがたく感じていた。