龍陽の契り 龍陽の契り
──身体が輪郭を無くし、海に溶ける。まるで海月のように浮き沈みを繰り返しながら夢の狭間を漂う。ふと目の前を、一片の楓が舞う。手を伸ばすと、それは泡のように霧散した。
──瞬間、視界が白く塗り潰される。
目を開けると、眼前には海の中を模したような壮大な景色が広がっていた。柔らかなさざなみの音が響き、濃藍の空に満月が浮かぶ。その月明かりは、まるで見守っているかのように傍らに立つ人影と丹恒を照らしていた。
「──緊張しているのか?」
隣から声が聞こえた。その声は驚くほど優しい。こちらを気遣うような気配で、それが少しくすぐったい。
「緊張していないと言えば嘘になる。……けれど二人でなら、必ず使命を果たせると信じている」
口から勝手に言葉が滑り出した。自分が自分では無いような不思議な感覚。──これはきっと誰かの記憶だ。
「そうだ。我らは二人で一つ。陰陽を体現し、混じり合う事で真に完璧に至る。遥か昔から巡り合うことを定められた運命なのだ」
傍らの人影が手を差し伸べる。それを迷いなく取って共に歩き出した。
──視界が光に呑まれる。
そして目を開けると、辺りは薄暗がりに包まれていた。寝ぼけ眼を擦って欠伸を一つ。肩まで覆う布と身体を柔らかく受け止める感触にどうやら寝台に横になっているらしかった。
さらさらと頭を撫でる手が心地良い。もっと撫でて欲しくて、向かいから伸びる手に擦り寄ると吐息が笑う気配がした。
「もう少し眠っていろ。……まだ夜は明けていない」
何故かは分からないが、今言わなければならない事がある。そう思った。軽く頭を振って眠気を隅に追いやる。髪を撫でる手を取って唇を寄せた。軽く触れた後、祈るようにその手を額に当てる。途端、驚いたように気配が身じろいだ。
「どうかしたのか?」
「何となくこうしたくなった。……俺たちは、幼少の頃から巡り会う運命だと言われて来ただろう?」
「……そうだな」
「だから俺達がお互いを想い合うのは、運命に引き摺られているせいなんじゃないかと。──だが俺は、俺自身が、お前を選んだと断言出来る。……この想いは運命なんかではなく俺のものだ。お前を愛しく思う気持ちは、誰のものでもなく俺だけのものだ」
言い切った瞬間、翡翠の目に驚きが走り、すぐに柔らかな微笑みに変わった。視線が絡まり、胸が高鳴る。彼の手がそっと頬に触れると、まるでその温もりが心に染み込んでいくようだった。
引き寄せられるようにして唇が重なる。それは触れるだけの優しいものだった。角度を変えて何度も合わさる。その度に愛しさで胸がいっぱいになる。いっそ苦しい程に。
──抱き合ったまま、再び目を閉じた。直ぐに意識は深い海の底に沈んだ。
──そして、目を開けようとして上手く出来なかった。辛うじて僅かに開いただけだ。
その視界すらも、ぼやけて良く見えない。ふと視界に影が差した。
「──、──!」
何か声のようなものが聞こえる。轟々と頭を揺らすような耳鳴りのせいでよく聞こえない。
だが、叫んでいる事だけは分かった。雨でも降っているのか、ぽたりと雫が頬に当たって砕ける。だがその雫は、どうしてだか温かい。そこで気づいた。──涙だ。誰かが泣いているのだ。
「──!」
それは自分の名だった。その声はひどく聞き覚えがある。
その時、背中に温かな手が触れた。それはひどく自分に馴染んで、それだけで誰なのか分かってしまった。
泣かないで欲しいと思う。泣かなくて良いと声をかけてやりたいのに、血の塊が口から吐き出されるだけで意味のある言葉を作れなかった。
強く思う。どうにかして泣き止ませなければと。だって彼には、涙など似合わない。
凛と立つ後姿が眩しかった。弱音を吐く事もなく、常に前を向くその姿に幾度も救われた。
その光が翳る所は見たく無い。
だって、──どうしようもなく愛していたのだ。
自分の命が消えようとしている今この瞬間でも。
だから、感覚の乏しくなった腕に精一杯の力を込めて手を伸ばした。彼の涙を拭う為に。
その手が届いたかどうか。それだけが気がかりだった。
***
丹恒は夢から飛び起きた。まだ半分眠りの中にいたせいで視界がぐらぐらと揺れる。それと同時に、こめかみがぎりぎりと締め付けられるような不快感。思わず顔を顰めた。目覚めは最悪だ。
「…っは、……う、」
何故か息苦しい。肺がきりりと痛んで、激しく上下する肩に気づいた。どうやら呼吸も乱れているらしい。深く空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。何度か繰り返すと揺れる視界も痛みを発するこめかみも大分ましになった。もう一度大きく息を吐き出して辺りを見渡す。
テーブルの上に置かれた飲みかけのペットボトル。
布団の横に無造作に積まれた本の山。
窓際に昨夜干した洗濯物。
そこまで確認して、力を抜いた。見慣れた自室にいくらか正気が戻ってきた。枕元に置いてあるスマホの画面を開くと、五時と表示されている。窓から差し込む光はまだ弱い。
──あの夢は何なのだろう。
どうしてだか自分の隣には必ず同じ人物がいた。だがその人の顔は靄がかかったように思い出せない。唯一、翡翠の輝きだけが脳裏に焼き付いていた。
不可思議な夢は、以前はかなりの頻度で見ていたが、最近はめっきり見なくなっていた。だから油断した。いつものように布団に入って眠っただけなのに何故あんな訳の分からない夢を見る羽目になるのか。いくら考えても答えが出た事など一度もない。考えるだけ無駄だった。
もう一度寝直す事に決めて布団をまた被る。頭まで被って目を閉じた。視界が閉ざされた分、先程の夢の内容が脳裏に浮かんでくる。描き消そうとして、上手く出来ない。頭の中に誰か知らない人間が居るみたいだった。
頭の中にいる人間が言う。
愛しい。愛しい。
出来る事ならもっずっと一緒に居たかった。
──違う。それは自分の感情では無い。だからやめてくれ。
なのに言葉は止まらない。ぐるぐると頭の中に浮かんでは、我がもの顔で脳裏を埋め尽くす。
苦しい。
切ない。
恋しい。
会いたい。
違う。
違う。
違う。
違う。
その全てに否定を返しながら、首を振る。気が狂いそうだった。耳を塞いで、身体を小さく丸める。そうしないと、自分がばらばらになりそうだった。自分がばらばらになった先で生まれたものが何なのかなんて知りたくない。
頭の中はめちゃくちゃだし、胸の中もぐしゃぐしゃに握り潰されたみたいに痛くて苦しい。それと同時に底なしの海のように途方もない切なさも湧き上がって、苦しさに喘いだ。
──だから嫌だった。あの夢を見るのは。
見たら必ず動けなくなるほどの感情に呑まれてしまう。何とか苦しさに喘ぐ呼吸を落ち着かせようとしてみるも上手くいかない。その内に目の奥が熱くなって、熱いものがぽたぽたと目から溢れ出す始末だ。おまけに呼吸まで引き攣れるから、もうどうしようもなかった。
「っ、」
嗚咽が漏れそうになって、唇を噛んだ。ぴりりとした痛みが走る。もしかしたら血が滲んでしまったかも知れない。それでも、嗚咽が漏れるよりはましだ。こんな訳の分からない理由のせいで泣くのは悔しいから。
涙を流したせいか、少しだけ頭の中の人間も大人しくなったかも知れない。このまま流し続けたら、どこかに行ってくれやしないだろうか。
「……っ、く」
未だぼろぼろと溢れる涙は止まらない。流れる水滴のせいで目の周りの髪が張り付いて気持ちが悪い。まるで子供のようだと自嘲して、少し笑った。
訳の分からない夢なんてもう見たくないのに。どうして夢に見るのだろう。まさか前世の記憶だとでも言うのだろうか。だとしたら途轍もなく理不尽だ。その夢のせいで朝から涙を流す羽目になるのだから。
どれ程の時間が経ったのか。ようやく頭の中の存在も大人しくなり、涙が止まった。スマホの時計を見ると、六時と表示されている。軽く溜息を付いて、身体を起こした。泣きすぎたせいで頭は重いし、まぶたも重かった。すこし腫れているかも知れない。
「……ん、」
軽く伸びをして、空気を吸ったら咳き込んだ。喉がからからだった。
布団から出てテーブルに置いていたペットボトルを手に取る。蓋を開けて口を付けた。冷たい水が喉を通り過ぎる感覚が心地良い。一気に全部飲み干すと、大きく息を吐き出した。
そろそろ大学に向かう準備をしなければならない。確か今日は、一限から講義があったはずだ。
空になったペットボトルを袋に捨てて、洗面台に向かった。
***
「丹恒、おはよー」
「おはよう」
大学に着くなりすぐに声をかけられた。広場のベンチに座っていた穹が駆け寄ってくる。
同じ学部の彼は数少ない友人の一人だった。趣味がゴミ箱漁りという一風変わっている事は置いておいて、誰とでも分け隔てなく接する姿は好ましかった。
彼はこちらを見るなり何かに気づいたように首を軽く傾げる。
「あれ、ちょっと目腫れてないか?」
その言葉に内心ぎくりとする。
「いや、……少し夜更かしをしたんだ。腫れているのはそのせいだろう」
嘘をつくのは気が引けるが、流石に馬鹿正直に変な夢を見たせいで泣いたから、などと言える訳がない。彼は納得したように、そっかー、と一言呟いただけだった。
それに内心ほっと安堵の息を吐く。心優しい友人に自分の事で変な気を揉ませたくは無かった。他愛もない話をしながら講義室へ向かっていると、そう言えば、と穹がポケットからスマホを取り出した。
「丹恒って、SNSやってる?」
「いや、特には何もやっていないが……」
今流行っているいくつかのSNSの名前が脳裏に浮かんだ。興味が無い訳では無かったが、ニュースなら検索エンジンに入力するだけで大抵の事は知れるので必要性はあまり感じていなかった。
「そっか。ならあの事も知らないか……」
穹は何やら納得したように頷くと、スマホの画面を幾度か操作する。目的の所まで辿り着いたのか、ずいっとスマホを丹恒の眼前に差し出した。
「ちょっとこれ見て」
穹が指で指し示したのは、SNSのとある投稿だった。そこに書かれている言葉に瞠目した。
「『透明人間が出た』?」
その文章と共に、恐らくその瞬間を激写したであろう写真と文言が映し出されていた。中でも一際目を引いたのは中心にある人影だった。周りの景色に溶け込むように陽炎のようなシルエットが浮かび上がっている。
「……それが一体どうしたんだ?」
穹がその投稿を見せた意図が分からない。疑問をそのまま口にすると、穹はその言葉を待っていたとでも言うように話し始めた。
「実はこの写真が撮られたのは、この大学の近くみたいなんだ」
ほらここ、と穹が画像を拡大する。中心の人影に気を取られていたが、確かにキャンパスの近くの建物が写っていた。だがあまりにおかしな所が多すぎる。
「これは……合成では無いのか? 透明人間なのに写真に映るのはおかしいと思うが」
彼には悪いが些か信じるには不可解な所が多すぎる。
「俺も最初はそう思ったんだよ。でもこれが撮影されたのは一度だけじゃないんだ。何人もの人がこの透明人間を見てる。それに、……あった! この写真」
またも穹はスマホの画面を操作すると今度は違う写真を見せて来た。先程よりも解像度が上がったのか鮮明になっている。中心に捉えられたシルエットに目を見開いた。
「これは、」
驚いたのは人影が着ていると思われる服装だった。明らかにこの時代の人間が着ている服装では無い。昔の中国の兵士が着ているような服を彷彿とさせた。
「な? ちょっと色々と変だよな。それに目撃されている場所がどんどんこの付近一体に絞られているみたいなんだ。噂では誰かを探してるんじゃないかって話」
「……一体誰を探しているというんだ」
何となくこの後の展開が読めた気がして、呆れたように溜息をついた。そう言えば彼は、怪異退治隊というオカルトサークルに属していた事を今更思い出した。
「──もしかして透明人間が探してるの、……丹恒だったりして?」
思った通りだ。彼はたまにこう言った冗談を言ってくる事がある。いたずらっぽい笑みを浮かべた穹を軽く小突いた。
「穹、からかうのはやめてくれないか」
「ごめんごめん、怒んないでよ。……でも丹恒ってなんか不思議なふいんき?がするんだよね」
「それは、雰囲気の間違いじゃないか?」
「そうとも言う」
そう言った穹は何故か得意げに胸を逸らしていて、その姿に口元が緩んだ。ふと隣から視線を感じて目をやると、穹がイタズラが成功したかのように笑みを浮かべていた。
「……どうかしたか?」
「やっと丹恒が笑ったなーと思ってさ」
「あ、……」
無意識に笑っていたらしい。口元を触ってみたがそれで分かるものでは無かった。
だが唯一、彼に心配をかけてしまった事だけは分かる。
「その、……心配をかけてすまない」
「いーやー? 全然。だって俺たち友達だろ?」
穹の笑顔につられて自分も笑う。何だか心が軽くなったような気がした。
「そうだな。ありがとう」
「どういたしまして」
何だか少し照れくさい。そうこうしている内にいつの間にか講義室が見えてきた。
ここから先はお互い別の講義室に向かわなければならない。穹はスマホを仕舞うと、じゃあまた後で、と手を振った。
「ああ」
それに軽く手を振って応える。穹が講義室に入るのを見届けてから自分も講義室に入った。いつも座っている席に腰を落ち着けると、鞄から必要なものを取り出した。
***
スーパーから出ると僅かに冷たい風が頬を撫でた。空は夕暮れに染まり、鮮やかな茜色が広がっている。
遠くの方には夜を含んだ灰色の雲が見える。もしかすると雨が降るかも知れない。それに軽く息を吐いて、丹恒は自宅になっているアパートへと足を向けた。
幸いな事に自宅になっているアパートへは、ここから歩いて十五分くらいの距離だ。雨が降る頃には帰れるだろう。
片手に持ったエコバッグを揺らしながら、歩き慣れた道を進む。今日はバイトの予定も入っていないから久しぶりにゆっくり出来るかも知れない。
少し前に購入したはいいものの、未だに一ページも読んで居なかった本を読もうと密かに決意していると、ポケットから振動が響いた。どうやらスマホに何か連絡があったようだ。
ポケットから取り出して、画面を見るとメッセージが届いていた。それをタップして開くとどうやらメッセージを送ったのは穹だった。
その内容は、怪異退治隊がトップニュースを求めて大学周辺に一晩張り込むというものだった。その執念はさすがとしか言い様がない。
軽く苦笑して、メッセージをうち返そうとした瞬間、微かな違和感に丹恒は足を止めた。言葉ではっきりと説明するのは難しい。けれども見逃せない。そんな違和感が。
「……?」
反射的に背後を振り返った。背後には所々に外灯が照らす道路と、いつもと何ら変わらない住宅の群れがあるだけだった。
なのに一瞬、背中に不自然な視線を感じたような。だが特に変わったところは見当たらない。どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくるのもいつも通りだ。
「……気のせい、……か」
少し神経質になっているのかもしれない。それもこれも朝に聞いた例の透明人間の話のせいだろう。
そう結論づけて、住んでいるアパートへと足を向けた。
──途端、ぞわりと鳥肌が立った。
「っ、……!?」
腰骨から背中をゆっくりと何かが這うような、そんな得体の知れない気持ち悪さだった。違和感は先程の比ではない。異様な気配が背後で蠢いていた。
弾かれたように振り向いた先、陽炎のように景色が揺らいだ。ゆらゆらとまるで炎のように景色の中に溶け込む異物。──明らかに何かがそこにいる。
まさか、本当に透明人間なのだろうか。
そんな事あるはずが無い。そんなのは分かっている。だが、そうしたら目の前で起こっている現象は何なのだろう。
背に嫌な汗が伝い、頭の中で警鐘が鳴る。早く逃げなければ。なのに足が地面に縫いつけられたかのように上手く動かない。
そんな丹恒の目の前で陽炎の輪郭が鮮明になり、突如それは姿を現した。
「っ、……」
その姿に息を呑んだ。その姿は人間などではなく、どちらかと言うと獣に近かった。強いて言うなら狼。ただ似ているのは姿形だけで、金で出来たような飾りを身に纏っている。
──異形の狼獣。それしか言い様がない。
その獣は、後ろ足にぐっと力を入れたかと思うと勢い良く飛んだ。──それもこちらに向かって。
「なっ!?」
とっさに身体を捻って躱す。丹恒の立っていた場所に、大きな影が着地するのが見えた。その獣が再び飛び掛かるのを、今度は大きく後ろに飛んで避ける。獣は道路に着地すると、ゆっくりとこちらに向き直る。
その瞬間、丹恒は全力で走り出していた。
走り出した勢いでエコバッグの中の食材を幾つか落としてしまったが、それに構っている場合ではない。
恐らくこの世のものでは無いあの狼に捕まれば恐らく命は無い。出来るだけ遠くに逃げなければ。見つからないような場所に。
ちらりと後ろを振り返ると、やはり獣はこちらの後を追ってきていた。それもかなりの速度で。
──まずい。このままだと確実に追い付かれる。
「くそ、……っ」
どうする。このまま真っ直ぐ道路を走った所で追い付かれるのは時間の問題。
なら──。
丹恒は勢いよく方向転換をして、住宅の間に挟まれた細い路地へと入り込む。辛うじて人が一人通れるくらいの狭い路地だ。後ろを振り返ると、狼は追ってきているようだった。だが先程よりも明らかに速度は落ちている。狭い路地に苦戦しているようだった。
──よし。
そのまま全力で路地を駆けて行く。走りながら必死に思考を巡らせる。まず人通りの多いところに行けば間違いなく自分以外の誰かが被害に遭う。それならば人気が無いところに逃げるべきか。
だが、この近辺にそんな場所はあったか。
「っ、は……、」
心臓は五月蝿い程早音を打ち、呼吸をする度に脇腹が軋んだ。それでも足だけは止めなかった。狭い路地を抜けると、また道路に面した場所に出た。
必死に周囲を見回すと、比較的大きな公園が目に入った。あまり立ち入った事は無かったが、そこには確か複雑に入り組んだ森があるはず。この時間帯なら人も居ないだろうし、もしかしたらあの狼も撒けるかも知れない。
丹恒は迷わず公園の中に飛び込んだ。案の定、公園の中には人影一人見当たらない。夜に差し掛かった公園は昼間とは全く違う姿を見せていた。
「っ、はぁ……、」
荒い呼吸を整えながら辺りを見回すと、少し先の森に身を隠すのにちょうど良さそうな木陰があった。そこならいいかも知れない。
後ろを振り向くと獣の姿はまだ見えなかった。
行くなら今だ。急いでその場所まで走り、身体を滑らせて身を隠した。先ずは息を整えるのが先だ。
「っ、は、……はっ」
心臓はどくどくと五月蝿いくらいだったし、息をする度にひゅうと歪な音が胸の辺りで鳴った。それを何とか落ち着けるように、息を吸って殊更ゆっくりと吐き出した。何度か繰り返すといくらかましになった。
──あの狼は一体何なのだろう。どうして自分を追ってくるのか。腹が減っているのかと思ったが、途中で落としてきた食べ物には目もくれていなかった。なら理由はなんだ。考えても答えは出なかった。
静かに息を吐き出して、視線を周りに移す。夜の公園は闇に覆われ、不気味な程静まり返っていた。生き物がいるはずだが、一切何の音もしない。身を隠しているのだろうか。
月明かりのお陰で幾分か周りの状況は見えるがその程度だ。
もしかすると、上手く撒けたのは間違いで、むしろ追い詰められているのは自分の方ではないのか。そう思えてならない。この森の雰囲気が余計にそうさせるのかもしれない。
吐き出す息が震えた。胸元を握り締めてその考えを振り払う。大丈夫だ。きっと何とかなる。そう思わないと恐怖で身体が動かなくなりそうだった。
この公園は身を隠すにはうってつけの場所ではあるが、いつまでもこの場所に留まることは出来ない。いつまた、あの狼が現れてもおかしくはない。むしろ、この森の中に居ないと考える方が不自然だ。間違なく後を追って、この森の中に入って来ている。
──それならば、森から出た方がいいかもしれない。
辺りの様子を探ろうと木陰からそっと身を乗り出した。
──瞬間、再びあの気配を感じた。
咄嗟に身を隠した。
──が遅かった。
背後から風を切るような音が聞こえたかと思うと、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。
「うあっ……!?」
背中を強く打ち付けて息が詰まる。ぐらりと衝撃で視界が揺れた。
──まずい。見つかってしまった。逃げなければ。
何とか逃げようと身を起こすが、それよりも早く影が身体の上に覆い被さった。
「あ、……」
それはあの狼だった。その大きな前足が振り上げられて、肩を地面に縫いつけられる。そしてそのまま体重を掛けられた。
「っ、あ……ぐ、!」
強い力で押さえつけられているせいで、上手く身体が動かせない。
「くそ、…離せ……!」
自由に動かせる足で狼の横腹を蹴り飛ばすが、全くびくともしない。それどころか、余計に抑え付ける力が強くなった。何とか抜け出そうと身を捩るが無意味に終わった。
やがて狼は丹恒の身体を跨ぐようにして覆い被さると、鋭い牙を剥き出した。獣の生臭い息が顔に当たって、身体が硬直した。迫る死の予感に、身体から血の気が引く。
このまま自分は死ぬのだろうか。
全てが現実から遠いように感じられた。まるで走馬灯のように過去の出来事が頭を駆け巡る。
丹恒の記憶は、頭上で会話する大人達から始まる。
両親の葬儀の最中だった。大人達は、一人になった幼い丹恒をどうするかで揉めていた。耳に入った言葉で、どうやら両親は親戚から好かれてはいなかった事を知った。
丹恒を見る視線は、どれも好意など微塵も含まれていなくて、とても居心地が悪かったのを覚えている。
それから親戚の家を転々としながら必死に勉強した。それしか自分に出来ることはなかったから。
だが、そんな中でも気にかけてくれる人はいた。それが自分にとって大きな救いだった。何とか支援を受けて、やっと大学に通えるようになったのに。
友人と呼べるような人達にも出会う事が出来た。
それなのに、こんなところで終わってしまうのか。
大きく開けられた口が眼前に迫り、反射的に目を瞑る。
──刹那、水が弾けるような音と、衝撃音。
そして、獣の悲鳴が辺りに響く。身体にのしかかっていた重さも同時に消えた。
驚きに目を開けると、息を呑んだ。
何故なら、目の前に見知らぬ人物が立っていたからだ。
丹恒を背に庇うようにして立っていた人物が振り向く。
「あ、……」
その姿を見て丹恒は言葉を失った。
そこには、人間とは思えない程の美貌を持つ男性がいた。
満月を背に立つ姿は一分の隙もない。腰まで覆う艶やかな黒髪に、優美な着物を身に纏う姿は恐ろしく洗練されていた。
中でも目を引いたのは、全てを見透かすような翡翠の瞳と額から伸びる氷のような一対の角だった。それは彼が人間では無いことを示していた。
──彼の事を知っている。
そう思った。それと同時に脳裏にあの夢の人物が過ぎる。
──そうだ。あの夢の人物も輝くような翡翠の瞳を持っていた。
これは一体どういう事なのだろう。
その人物は、丹恒を何か懐かしいものを見るような目で一瞥した後、背を向けた。
一瞬彼が、小さく何かを呟いたような気がした。
「──下がっていろ」
彼の目の前には先程の狼の他に、いつの間にか複数の狼の姿があった。なのに彼は全く動じる素振りすら見せない。凛とした佇まいでそこに存在していた。その圧倒的な気配に知らず見惚れていた。
──空気がぴんと張り詰める。睨み合う両者の均衡を破ったのは、獣だった。複数の獣が彼目掛けて突進する。
瞬間、彼は掌を正面へと翳した。刹那、一陣の風が吹く。
──勝敗は一瞬で決した。虚空から現れた無数の槍が雨のように降り注ぐ。そして容赦なく獣達を刺し貫いた。獣は叫びを上げる間もなく、燐光に包まれたかと思うと空気に溶けた。
「な、……」
一体何が起こった。全く理解が追い付かない。唯一分かるのは、目の前の人物が助けてくれたという事だけだった。
「……すまない、助かった」
目の前の人物がゆっくりと振り向いた。全てを見透かすような翡翠の眼差しに射抜かれ、無意識に息を呑んだ。
男は丹恒を見るなり、僅かに目を見開いた。
「……怪我をしているのか」
「え、」
その言葉に身体を見やると、肩の部分の服が裂け、そこから血が滲んでいた。必死だったから全く気づかなかった。
途端にずきりと痛み出して思わず顔をしかめた。恐らく先程、押さえ付けられた時に出来た傷だろう。
「少しじっとしていろ」
「何を、」
男は丹恒の傷の上に掌を翳した。反射的に動こうとしたが、制される。一体何をするつもりなのか。疑問に思っていると彼の掌を中心にふわりと水の玉のようなものが湧き上がる。それはみるみる内に質量を増し、やがて肩を包み込んだ。
「な、……」
水のようだが温かく不思議な心地がした。それと少しだけくすぐったい。数秒程経ち、翳した手が退くと、負ったはずの傷は跡形も無く消えていた。先程まで感じていた痛みも綺麗さっぱり消えてしまった。
「傷が……」
「雲吟の力で癒した。もう痛みは無いはずだろう。立てるか?」
「ああ」
背を預けていた木から身を離して、立ち上がる。関節は痛むが動けない程ではない。身体を見るとあちこちが汚れていて、思わず溜息を吐いた。
──今日は色々な事が起こりすぎだ。先程から続く不可思議な現象に何だか疲れてしまった。
そんな丹恒を置きざりにするように今度は別の人影が現れた。
「──龍尊様。そろそろお時間が迫っております」
周りの景色に溶け込むように、陽炎のような人影が立っていた。淡い光を帯びた瞬間、人影が顕になる。
思わず目を見開いた。何故ならその人が着ていた服は、穹のスマホで見た透明人間と完全に一致していたからだ。つまりSNSを騒がせた透明人間の正体はこの人物という事になる。
思わず息を吐いて、こめかみを抑える。だんだん頭が痛くなってきた。
「む、そうか。では急がなくてはな」
何やら目の前で二人が会話をしているが耳に入ってこない。あまりの疲労と情報量の多さに気が遠くなってくる。もはや布団に入って眠りたい気分だった。
「──おい。何を呆けている。其方、名はなんと言う」
呆れたように言葉を発した男が腕を組む。その男の態度に、一体なんなんだと思いながらも名前を口にした。
「俺は丹恒だ」
それを聞いた男は、確認するかのように口の中で名前を転がした。
やがて、その男の翡翠が真っ直ぐ丹恒を射抜く。一瞬、その瞳が七色の輝きを帯びた気がした。
「── 丹恒。其方には、我らと共に来てもらう」
唇から静かに放たれた言葉に今度こそ思考が停止した。
「……は?」
遂に耳がおかしくなったらしい。目の前の男が何やらとんでもない事を言ったような気がする。
「……すまないが、俺の聞き間違いかもしれない。もう一度言ってくれないか?」
「何度も言わせるな。其方には我らと共に来てもらう。言っておくが拒否権はない」
間違いであって欲しいという願いは、容赦なく切り捨てられた。どうやら聞き間違いでは無かったらしい。状況が全く理解出来ない。何がどうしてこんなわけのわからない連中と共に行かなくてはいけないのか。
「断る。そもそもどうして俺なんだ。俺は普通の人間だ」
少なくとも、生まれてからこれまで自分が人間以外の何かと思った事はない。
「其方に一から状況を説明している時間はない。首を立てに振らぬのであれば──」
空気が変わった。思わず後退るが、それよりも早く男が動いた。男が自らの指を空に向かって穿つ。
瞬間、足元から湧き上がった水が意志を持ったかのように丹恒の脚に絡み付く。慌てて振り解こうと藻掻くが頑丈な鎖のように解けない。
「な、……っ離せ……!」
「大人しくしていろ。悪いようにはしない」
「この、……!」
藻掻く丹恒の目を男は自らの掌で覆い隠した。視界が暗闇に包まれた瞬間、丹恒の意識は闇に呑まれた。
──意識を失う直前、男が何かを呟いたような気がした。
***
「この、……!」
逃げようと藻掻く青年の目に掌を翳す。
『眠れ』
念じた瞬間、ぐらりと小柄な身体から力が抜けた。それを危なげなく抱き留めると、膝裏に腕を入れて抱き上げる。暗示のようなものだったが、片割れには殊更効いたらしい。先程までの勢いはなりを潜め、穏やかな寝息に変わった。
「……悪いがもう、其方を離してはやれん」
口の中だけで呟いて、円やかな額に唇を落とした。
「──丹楓様」
背後からの軽く咎めるような声に、丹楓は一つ息を吐いて振り返る。
「分かっている。……猶予はどれくらいだ?」
「半システム時間後です」
「そうか。──早く戻るぞ」
そのまま踵を返して歩き出す丹楓に慌てて駆け出す気配が続く。
──次の瞬間、二人の姿は闇に紛れて見えなくなった。
改ページ
「ん、……」
額にひやりと冷たい感触がして、丹恒はゆるりと目を開いた。辺りはまだ暗がりに包まれ、霞む視界に見慣れた翡翠の瞳が映る。それは幾度も夢の中で反芻した記憶だった。
──これはきっと夢だ。
翡翠のそれは視線が交わるとふわりと優しく綻んだ。伸びてきた手が髪をさらりと撫でる。少し冷たい温度が心地好くて擦り寄ると、吐息が笑う気配がした。
「もう少し眠っていろ。……まだ夜は明けていない」
「ん、」
それに頷いて再び目を閉じようとした瞬間、ふと気付く。何か言わなければならない事があったような。
いつもより意識がふわふわとして思考が上手く纏まらない。なんだったか。
──確か、手を取って口付けたような。
髪を柔らかく撫でる手を取り、唇を寄せると微かに息を呑む音がした。軽く口付けた後、額に押し当てると気配が身じろいだ。
「な、……」
どうしてだかとても驚いているのを感じる。あれ、違っただろうか。
でもこれは夢なのだから偶にはこういうこともあるのかも知れない。
何かを言わなくてはならなかったが、眠気が限界だった。ふわりと抗い難い波に意識が持っていかれる。それに抗う事無く意識を手放した。
改ページ
水底から意識が浮上する。ゆるりと目を開くと、ぼやける視界に見慣れない天井が映る。繊細な模様が入ったそれは、アパートのものとは明らかに違う。
「ん……?」
あれ、そういえば昨日、アパートに帰っただろうか。未だ寝惚けている頭を必死に回転させる。
そうだ。確か帰る途中で、よく分からない獣に襲われて、それで──
「……っ、!?」
一気に覚醒した。勢い良く身体を起こした拍子に何かが落ちる。見るとそれは濡れた布だった。誰かが額に乗せてくれたのかもしれない。それに軽く息を吐いて、周りに視線を走らせる。
自分が寝ていた所は、まるでどこかの歴史書に描かれているような寝台そのものだった。精緻な透かし彫りが施されたそれは、まるで小さな個室だ。
「……ここは、」
一体どこなんだ。呟いた瞬間、もぞりと近くで何かが動いた。
何気なく目線を向けた瞬間、息を呑む。
否、驚き過ぎて声が出なかったという方が正しいか。
椅子に腰掛け、寝台に上半身を預けるような形で誰かが眠っていた。長く艶やかな黒髪が絨毯のように敷布に広がっている。額には流れる水のように透き通る角が一対。
──その人物は紛れも無く昨日自分を攫ってきた男だった。
「……ん、」
動けずにいると、長い睫毛が震えてゆるゆると瞼が開かれる。緩やかに身体を起こした男は軽く伸びをした後、小さく欠伸をする。まだ少し眠たげに何度か瞬きをした後、丹恒に気づいて僅かに口元を綻ばせた。
「ああ、起きたのか。……身体は大事ないか」
柔らかな声音にどきりとする。寝起きのためか昨日聞いた声よりも幾分幼い。どうやら自分の事を心配してくれているらしい。
「ああ。平気だ」
それに頷きを返して、ふと手元を見る。彼に見えるように布を持ち上げた。
「これはお前が?」
「ん? ……ああ、気にするな。傷を負ったせいか熱が出ていたのでな」
「熱……」
思わず目を瞬く。以外だ、という言葉は飲み込んだ。昨夜会った時、傍若無人な振る舞いに一体何なんだと思ったが、もしかすると世話焼きな一面もあるのかもしれない。
「どうした?」
不思議そうに瞬く男に、慌てて何でもないと首を振る。
「いや。……その、助かった」
改めて礼を言うと、彼はきょとんとした後、直ぐに面白がるような表情に変わった。
「礼を言われるほどの事ではない。……無理に連れてきた故、起き抜けに文句のひとつでも言われるかと思っていたが」
「な、……」
揶揄うような視線に思わず眉を顰める。無理矢理連れて来られたのは事実だが、自分を助けてくれたのも事実だ。
「そこまで恩知らずではない」
思わずむっとして言い返す。それに彼は意外そうな顔をして、それからくすりと小さく笑った。
「そうか。それは悪かった」
「いや……」
少し揶揄われた気はするが、悪い男ではないということは分かった。何となくこの男に調子が狂わされてはいるが。けれども、決して嫌では無い。それに自分が一番驚いていた。
それと言い知れない懐かしさのようなものを感じていた。初めて会ったような気がしない、そう言ったら盛大に誤解を生みそうだが──
思考の沼に沈みかけた丹恒を現実に引き戻したのは徐に伸びてきた手だった。反射的に目を閉じる。
「何もせん。念の為、熱を測るだけだ。じっとしていろ」
恐る恐る目を開けると真摯な光を宿した目と視線が交わる。それに小さく頷いてみせると、額にひやりとした手が当てられた。
「熱は大分下がったようだな。念の為、安静にしていろ」
「……分かった」
こくりと頷くと手が離れる。それに一瞬名残惜しいと思ってしまった自分に驚いた。
「どうした?」
丹恒の様子に目敏く気づいたのか、男が首を傾げる。それに慌てて首を振る。
「っ、……何でもない」
気恥ずかしいような何とも言えない心地に思わず俯くと、宥めるように頭を軽く撫でられた。子供扱いをされているようで少し面白くないが、同時に安堵を覚えている自分に気付いて戸惑う。するりと直ぐに離れたそれを思わず目で追ってしまう。
そんな丹恒の様子には気づかぬ様子で男は口を開いた。
「そういえば、まだ名を名乗っていなかったな。──余の名は、丹楓という」
丹楓。胸に刻み付けるようにその名を口の中で繰り返した。
それは、とても口に馴染む気がした。理由は分からないが。
その時、部屋の扉が叩かれた。
「失礼致します」
「入れ」
丹楓が応えると扉が静かに開いた。そこにいたのは侍女らしき人だった。彼女は此方を見るなり、驚いたように目を見開いた。
「丹恒様、目が覚めたのですね。お加減は如何ですか?」
「ああ、特に問題はない」
それを聞いた彼女はほっとしたように息を吐き出した。
「良かった。昨晩は熱を出されていたので心配致しました」
どうやら彼女は自分の事を案じてくれていたらしい。
「済まない。心配をかけた」
「いいえ。丹恒様がご無事で何よりです」
彼女は人懐っこい笑みを浮かべると、それから思い出したように丹楓に視線を移した。
「丹楓様。朝餉は如何なさいますか? こちらにお持ちしましょうか?」
「いや、いい。……早々に片付け無くてはならない案件があるのでな」
彼はゆるりと立ち上がったかと思うと、こちらを振り返る。
「それでは、余は失礼する。夕刻には戻る」
「ああ、分かった」
去っていく後ろ姿を見送ると、侍女が此方に向き直った。その表情はどこか嬉しげだ。
「丹楓様ったら、夜中に付きっきりで丹恒様のお世話をされてたんですよ。よっぽど心配だったのですね」
丹恒は目を瞬かせた。丹楓がそこまで自分を気遣ってくれていたとは思わなかった。
「丹楓様は、本当は優しい方なんですよ。ただ誤解されやすいだけで」
「そうなのか、」
丹楓が自分を案じてくれたという事実が何だかむず痒い。その感覚は経験した事の無いもので。それが決して嫌な感覚では無いから余計に分からなくなった。
「……どうされました? どこかまだ体調が
優れませんか?」
心配そうに問うてくる彼女に慌てて首を振った。
「いや、大丈夫だ。……そういえば、昨日俺が持っていた荷物はあるか?」
「ああ、それならこちらに」
侍女は何かを思い出したかのように、部屋の隅へと足を向けた。そして何かを手にして戻ってくる。手に乗っていたそれは自分のスマホだった。
「済まない。ありがとう」
スマホを手にして、画面を開いてみると、圏外と表示されていた。もしかしたらと思ったが、そう上手くはいかないらしい。
今頃大学では友人が自分が来ないのを心配しているに違いない。だが、連絡が取れない以上どうしようも出来ない。思わず溜息を吐き出した。
「大丈夫ですか? お加減が優れないのなら、もう一度お休みになられては……」
「いや、平気だ」
──切り替えなくては。まだまだこの世界について知らない事が多すぎる。そもそも何故この世界に連れて来られたのか。
脳裏に丹楓と名乗った男の顔が浮かぶ。夢の中の人物と同じ翡翠の瞳を持つ男。彼は一体何者なのだろうか。
「俺は、……あの男を知っている」
どうしてだかそう思う。自分がというよりはどこか別の所で。
ぽつりと落とした言葉に侍女が不思議そうに目を瞬かせた。慌てて何でも無いと首を振る。
「何でもない。……それよりも聞きたい事がある。──この世界について教えてくれないか」
***
「……つまりこの世界は、巨大な船艦の中にあると言う事か。にわかには信じられないな……」
侍女が運んできた朝餉を終えた後、丹恒は侍女に尋ねた。まずはこの世界について知らなくてはならないと思ったからだ。
彼女の説明では、ここは六隻ある巨大船艦の内の一隻だという。驚くべき事に、この広い世界を収めた洞天と呼ばれるものが、幾つも存在するという。
「信じられないのも無理はありません。それほどこの仙舟の空間収容技術は進んでいますから」
「そのようだな。……つまりその技術を応用して別の世界から俺をここに連れて来たという事か」
そこで、ふと疑問が芽生えた。別の世界から連れて来れるという事はその逆も出来るのでは無いだろうか。
「なら、こちらの世界から別の世界に行く事は可能なのか?」
侍女は、気まずそうに目を彷徨わせた。
「それなのですが、……今現在は不可能となっております」
「……そうか」
何となく、分かってはいた。そう上手く事が運ぶ事はない。時間はかかるかも知れないが、いつか戻る事が出来るかも知れない。
軽く息を吐いて、気持ちを切り替える。そして、ずっと疑問に思っていた事を訊ねることにした。
「丹楓。──彼は一体何者なんだ」
侍女は何かを考えるような素振りを見せた後、口を開いた。
「丹楓様は、陽の龍尊でございます。龍尊とは、龍祖の力を受け継いだ持明族の尊長でございます」
そこで一旦言葉を区切ったかと思うと、力強く丹恒へと視線を向けた。
「──そして、丹恒様も龍祖の力を受け継いだ陰の龍尊でございますよ」
「俺が、陰の龍尊……? だが俺は、丹楓のように角なんて生えていないし、妙な術も使えない」
龍尊という事は丹楓と同じように角が生えていないとおかしいのではないだろうか。
「これを説明するのは難しいのですが、陽と陰の龍尊は代々離れていてもお互いの居場所が分かるそうですよ。お二人は、一つの卵を分かつ唯一無二の双子でらっしゃいます。ですから丹楓様が連れて来られたというだけで、それはもう間違いが無いのです」
「双子……俺と丹楓が兄弟……?」
侍女は頷いて、ただ、と続ける。
「……丹恒様。自分には角が生えていないと仰いましたよね。それはそのお姿以外に成られたことはないということですか?」
「ああ。……何かまずいことでもあるのか?」
彼女は、少し言いづらそうに眉を下げた。
「そうですね。……実は、丹恒様が羅浮にお戻りになったという事は既に龍師達に報告されています。そして、長年陰の龍尊が不在で行う事が出来なかった建木の封印の儀を七日後に行う事が決定したようなのです」
だんだん雲行きが怪しくなってきた。
「……つまり俺が、封印の儀を行う事が出来ないと問題が発生するという事か」
彼女は頷く。
「実は近頃、建木の周辺で不穏な動きがあるそうなのです。ですから、儀式の日程を変更するのは難しいかと思われます」
「……その封印が解けたら、何が起こる」
丹恒の問いに侍女は目を伏せた。
「……もしも健木が蘇った場合、薬王秘伝という組織と争いが起こるかも知れません。あるいは、豊穣の民が羅浮に攻めてくるかも知れません。今は一時停戦状態にありますが、油断は出来ないかと」
「……そうか」
息を吐いて、こめかみを抑えた。慌てて侍女がこちらの顔を覗き込む。
「大丈夫ですか? ……顔色が悪いです。少し休みましょう」
「いや、いい。平気だ」
心配をかけまいとできる限り微笑んで見せたが逆効果だったようだ。侍女はますます心配そうに眉を下げる。
「駄目ですよ。丹恒様は熱がおありだったのですから、無理は禁物です」
「……分かった」
半ば押し切られるようにして頷いた後、侍女に言われるまま寝台に横になった。
そこでふと、ある事を思い付いた。
「体調が落ち着いたら、外に出て見たいんだが」
侍女は目を丸くして、それから困ったように眉を下げた。
「申し訳ありませんが、それは駄目です」
「……何故だ」
「羅浮では今、持明族を狙った事件が発生しています。万が一の事態に備えて、外出を控えるようにとのご命令なのです」
「そうか……」
この世界でも色々と問題は起こっているらしい。
「私は隣の部屋におりますので何かありましたら呼んでくださいね」
彼女は布団をかけてくれた後に、そう声をかけて部屋から出て行った。その後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐く。
(思ったより厄介な事になっているな……)
陰の龍尊。果たして其れは本当に自分なのだろうか。やはり間違えて連れて来たのでは無いのか。
丹楓。彼は何か知っているだろうか。だが彼は今この場にはいない。
とにかく今は少しでも情報が必要だ。
そろりと寝台から抜け出して、部屋の壁に沿うようにしてある書棚の前に立つ。どうやらこの部屋の持ち主は読書が好きだった様だ。
様々な書物が所狭しと並んでいる。その中で目に付いたものを手に取ってみた。
表紙には『殊俗の民でも学べる生粋な仙舟の諺100句』と書かれてある。文字は全く見慣れないのに、どうしてだか書いている言葉が分かる。
例えるなら文字を目で見て、脳が認識する直前に翻訳されているような感覚だ。昨日から不可思議な事ばかりなせいかもう驚きはしなかった。
ページを捲ってみると、そこには見出しが書かれていた。
『旅行編・初めての仙舟』
どうやらこれは仙舟文化をまとめた冊子のようだ。目当てのものでは無い。棚に戻して、違う本を手に取った。随分と古びた本だった。所々擦り切れて表紙の文字が読めなくなっている。開いてみると辛うじて『天淵万龍の祖』という文字が見て取れた。
──恐らくこれだろう。
寝台に腰を掛けて、その本を開く。どうやらこれは、古い伝承のようだった。
曰く。持明と呼ばれる種族がおり、彼らは不朽の星神「龍」の末裔で、生まれた日から秘法を学び、龍身を顕現させ、死ねば輪廻転生により再び生まれ変わるという。そして、その一族には龍祖の力を受け継いだ龍尊と呼ばれる個体がいるという。
羅浮の龍尊は、他の舟の龍尊とは違い陽と陰の龍尊に分かたれるという。陽の龍尊と陰の龍尊は、血を別けた兄弟であり、伉儷でもある。そして、綯交じる事で真円に至ると書かれていた。
「待て、兄弟……伉儷だと、」
情報が多すぎる。伉儷。確か意味は、──夫婦だったはずだ。夫婦。誰と、誰が。
もう一度、文章に目を凝らす。
陽の龍尊は、丹楓だったはずだ。そして陰の龍尊、これは自分だ。
丹楓と自分が──兄弟であり、夫婦。
一気に鼓動が騒がしくなった。どくり、どくりと大きく鼓動する心臓が痛い。まさかそんな
(嘘だろう……!?)
思わず顔を覆った。ぶわりと顔が熱くなった。あり得ない。丹楓とは昨日会ったばかりだし、何より彼に対して恋愛感情なんて無い。──筈だ。多分。
あまりにも現実感が無い。これはもしかしたら現実では無い可能性もある。夢であってくれ。頬を抓った。普通に痛い。
「はあ、」
これ以上考えても埒が明かない気がする。
一旦考えるのは辞めよう。本を閉じて寝台に横になる。
「ん……、」
いつの間にか眠ってしまったようで、扉を叩く音で目が覚めた。
「丹恒。少し良いか」
丹楓の声だ。慌てて起き上がって居住まいを正す。
「大丈夫だ。入ってくれ」
「失礼する」
部屋に入って来た丹楓は、丹恒を見るなり心配そうに眉を下げた。
「体調はどうだ?」
「特に問題は無い。大丈夫だ」
「……そうか」
そう答えると彼は安堵したように息を吐いた。そして、丹恒の隣に腰を掛ける。
「……心配をかけたようで済まない」
「其方に何も無ければそれで良い。……それよりも、其方に確認したい事がある」
「確認したい事……?」
彼は頷いて口を開いた。
「先程、侍女から話を聞いてな。龍祖の力が戻っていないというのは、本当か?」
丹楓の問いかけに頷くと、彼は少し考え込んだ後に顔を上げた。
「そうか……」
「その力を使って封印をしなければ結界が弱まり、危険な状態になると聞いた」
丹楓は頷く。
「ああ、そうだ。……今は危うい均衡の上に成り立っている」
「何とか力を取り戻す方法は無いのか?」
丹楓は顎に手を宛て、考え込むように目を伏せた。
「……あるには、ある。……だが其方への負担が大き過ぎる。……加えて、このような事態は初めてのこと故、確証が持てん」
「具体的にはどうするんだ?」
「……其方の体内に陽の気を流し込むのだ」
「陽の気……?」
一体なんの事を言っているんだ。頭が疑問符でいっぱいになる。
「……分からぬのか」
丹恒がよく分かっていない事を察した丹楓は、呆れたように息を吐き出した。そして次の瞬間には、丹恒を鋭い眼差しで射抜いていた。
「──ならば教えてやる」
「え……?」
横から手が伸びてきたかと思うと、視界がぐるりと回転した。気づけば天井を見上げ、背中にはさらりとした敷布。──押し倒されている。それに気づいた途端、また心臓がうるさくなる。
ぎしりと寝台が軋んで、丹楓が覆いかぶさるようにして此方を覗き込んで来た。
「其方は隙が多すぎる。それでは先が思いやられるな」
「っそれは、どういう、……」
丹楓が薄く笑みを浮かべた。まるで獲物を前にした捕食者のように鋭い眼差しをしている。
長い指が、丹恒の心臓の辺りをとん、と突いた。
そして、つつ、とやけに艶っぽい仕草で下に下がり、臍の辺りで止まる。そして、もう一度とん、と叩いた。
「全く意味を知らぬのか? ──ここに男を受け入れる。──その意味を知らぬほど子供ではあるまい」
「な、」
かっと頬が熱くなった。同時に、丹楓が何を言っているのか理解した。それはつまりそういう事なのだと。だがそんな経験なんて一度も無いし、そもそも自分達は男同士だ。
「だが、俺は」
「男だと言いたいのだろう。だが其方は違う。ここに無いはずのものがある。強いて言うなら会陰に……そうであろう?」
ひゅっと息を吸い込んだ。──丹恒には、誰にも言っていない秘密がある。
自分だけが知っている秘密。身体は間違いなく男性でちゃんと男性器もついている。だが──会陰と呼ばれる場所に女性器があるという事を。
「どうして、」
「やはり……其方もそうか。案ずるな。歴代の陰の龍尊は皆そうだ」
目を見開いて、微動だにしない丹恒を安心させるように頬に指を滑らせる。
「そう怯えるな。さすがに昨日今日あったばかりの人間に無体を強いたりはせん。だが、其方が許すのなら。……余は一向に構わんが」
つぅ、と丹楓の指が丹恒の顎をなぞる様に滑る。耳元に吐息が掛かるくらい近くで囁かれた言葉はあまりにも熱っぽくて目眩がした。頭がくらくらする。
「〜〜ッ! 距離が、近いっ……!」
ぐい、と肩を押すと案外あっさり離れていく。思わず安堵の溜息を吐き出した。
「……まあ、これはどうにもならん時の最後の手段だ」
「っなら、口で説明すればいいだろう……!」
未だ煩い胸元をぎゅっと握り締めて、丹楓をじろりと睨み付ける。
丹楓は丹恒の視線など何処吹く風だ。この男に取ってはこんなのはきっと取るに足らない事なのだ。それが酷く腹立たしい。自分だけこんなに動揺する羽目になるのは。
「着いてこい。試したい事がある」
言うが早いか、先程までの雰囲気を微塵も感じさせない足取りで何事も無かったように部屋を出て行った。
「はあ、」
思わず溜息を吐いて、顔を覆った。何だったんだ、あれは。揶揄われたにしろ心臓に悪すぎる。丹楓と出会ってからというもの、心臓がうるさくて仕方がない。
「……っくそ、一体何なんだ」
どうにか深呼吸をして鼓動を落ち着かせ、仕方なく丹楓の後を追いかけて行くと、そこは中庭だった。
丹楓は、周りに何も無いことを確認すると、よし、と呟いた。
「良いか。よく見ていろ」
そう言うと、丹楓が瞼を伏せた。途端に、ふわりと髪の毛が舞いあがり、身体を淡い燐光が包み込む。
一拍遅れて、燐光が霧散すると、そこに立っていた丹楓の姿が異なっていた。角は消え、長かった髪は短くなり、尖っていた耳は丸くなっていた。
「どうだ。少し其方の姿に似せてみたが」
「な、……」
あまりの事に言葉を発する事も出来ない。
「この姿は、今の其方の状態を例えたものだ。見本だと思ってくれて良い。今から其方には、これと同じ事をやってもらう」
「……分かった」
──果たして、自分に出来るだろうか。
「龍祖の力の源は、額にある。龍の角こそが力の根源だ。そこに意識を向け、頭の中で描いたものを具現化するようにする。──すると」
途中で言葉を区切った丹楓の身体が淡く発光する。そして次の瞬間には元の姿に戻っていた。
「……この様になる。次は其方の番だ。集中しろ。……目を閉じて、額に意識を集約せよ」
丹恒は言われた通りに目を閉じた。額に集中するように意識を向けると、丹楓の指が眉間に添えられた。
「呼吸を深くして、意識をこの指に向けろ」
「ああ」
丹恒が集中し始めたのを見て、丹楓は額から指を離した。そして少し離れた所に立ち、腕を組んで見守る事にした。
(さて……上手くいくかどうか)
暫くして丹恒の眉間に皺が寄る。ふわりと空気が揺れて、髪の毛先がほんの少しだけ持ち上がった。けれど直ぐに、何も無かったように元に戻った。
「……どうだ?」
目を開けて、丹楓に視線を向けると彼は首を横に振った。
どうやら何も変化が無いようだ。額に指を伸ばして触れると、確かにそこに生えていなければならない角の存在が感じられない。
丹楓はふむと考え込んだ後、ゆっくりと口を開く。
「やはりそう簡単に上手くは行かぬか」
「……すまない」
謝る必要はない、と首を振る。
「ただ、幾らか気配はあった。焦らず続ければ何れ取り戻す事が出来るかもしれん。励め」
その日から、時間さえあれば丹恒は額に意識を集中するようになった。
時間を見つけては丹楓の指導を受け、何度も練習を繰り返したが、力を取り戻す気配は無かった。
そうして気づけば、儀式まで残り五日になっていた。
丹恒はぐたりと寝台に倒れ込む。
「……駄目だ」
全く成功する気配が感じられない。果たしてこのまま続けて龍祖の力を取り戻す事は出来るのだろうか。
大きく息を吐き出した時、扉が叩かれた。返事をする間もなく開かれると丹楓が入ってきた。
そして、手に持ったものをずいと丹恒の眼前に差し出す。それは、着物と薄布が付いた笠だった。
「この服に着替えて、これを被れ。今から出かけるぞ」