丹恒は夢から飛び起きた。まだ半分眠りの中にいたせいで視界がぐらぐらと揺れる。それと同時に、こめかみがぎりぎりと締め付けられるような不快感。思わず顔を顰めた。目覚めは最悪だ。
「…っは、……う、」
何故か息苦しい。肺がきりりと痛んで、激しく上下する肩に気づいた。どうやら呼吸も乱れているらしい。深く空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。何度か繰り返すと揺れる視界も痛みを発するこめかみも大分ましになった。もう一度大きく息を吐き出して辺りを見渡す。
テーブルの上に置かれた飲みかけのペットボトル。
布団の横に無造作に積まれた本の山。
窓際に昨夜干した洗濯物。
そこまで確認して、力を抜いた。見慣れた自室にいくらか正気を取り戻した。枕元に置いてあるスマホの画面を開くと、五時と表示されている。窓から差し込む光はまだ弱い。
──あの夢は何なのだろう。
以前はかなりの頻度で見ていたが、最近はめっきり見なくなっていた。だから油断した。いつものように布団に入って眠っただけなのに何故あんな訳の分からない夢を見る羽目になるのか。いくら考えても答えが出た事など一度もない。考えるだけ無駄だった。
もう一度寝直す事に決めて布団をまた被る。頭まで被って目を閉じた。視界が閉ざされた分、先程の夢の内容が脳裏に浮かんでくる。描き消そうとして、上手く出来ない。頭の中に誰か知らない人間が居るみたいだった。
頭の中にいる人間が言う。
愛しい。愛しい。
出来る事ならもっずっと一緒に居たかった。と
──違う。それは自分の感情では無い。だからやめてくれ。
なのに言葉は止まらない。ぐるぐると頭の中に浮かんでは、我がもの顔で脳裏を埋め尽くす。
苦しい。
切ない。
恋しい。
会いたい。
違う。
違う。
違う。
違う。
その全てに否定を返しながら、首を振る。気が狂いそうだった。耳を塞いで、身体を小さく丸める。そうしないと、自分がばらばらになりそうだった。自分がばらばらになった先で生まれたものが何なのかなんて知りたくない。
頭の中はめちゃくちゃだし、胸の中もぐしゃぐしゃに握り潰されたみたいに痛くて苦しい。それと同時に底なしの海のように途方もない切なさも湧き上がって、苦しさに喘いだ。
──だから嫌だった。あの夢を見るのは。
見たら必ず動けなくなるほどの感情に呑まれてしまう。何とか苦しさに喘ぐ呼吸を落ち着かせようとしてみるも上手くいかない。その内に目の奥が熱くなって、熱いものがぽたぽたと目から溢れ出す始末だ。おまけに呼吸まで引き攣れるから、もうどうしようもなかった。
「っ、」
嗚咽が漏れそうになって、唇を噛んだ。ぴりりとした痛みが走る。もしかしたら、血が滲んでしまったかも知れない。それでも、嗚咽が漏れるよりはましだ。こんな訳の分からない理由のせいで泣くのは悔しいから。
涙を流したせいか、少しだけ頭の中の人間も大人しくなったかも知れない。このまま流し続けたら、どこかにいってくれやしないだろうか。
「……っ、く」
未だぼろぼろと溢れる涙は止まらない。流れる水滴のせいで目の周りの髪が張り付いて気持ちが悪い。まるで子供のようだと自嘲して、少し笑った。
訳の分からない夢なんてもう見たくないのに。どうして夢に見るのだろう。まさか前世の記憶だとでも言うのだろうか。だとしたら途轍もなく理不尽だ。その夢のせいで朝から涙を流す羽目になるのだから。
どれ程の時間が経ったのか。ようやく頭の中の存在も大人しくなり、涙が止まった。スマホの時計を見ると、六時と表示されている。軽く溜息を付いて、身体を起こした。泣きすぎたせいで頭はどこか重いし、まぶたも重い。すこし腫れているかも知れない。
「……ん、」
軽く伸びをして、空気を吸ったら咳き込んだ。喉がからからだった。
布団から出てテーブルに置いていたペットボトルを手に取る。蓋を開けて口を付けた。冷たい水が喉を通り過ぎる感覚が心地良い。一気に全部飲み干すと、大きく息を吐き出した。
そろそろ大学に向かう準備をしなければならない。確か今日は、一限から講義があったはずだ。
空になったペットボトルを袋に捨てて、洗面台に向かった。
***
「丹恒、おはよー」
「おはよう」
大学に着くなりすぐに声をかけられた。広場のベンチに座っていた穹が駆け寄ってくる。
同じ学部の彼は数少ない友人の一人だった。趣味がゴミ箱漁りという一風変わっている事は置いておいて、誰とでも分け隔てなく接する姿は好ましかった。
彼はこちらを見るなり何かに気づいたように首を軽く傾げる。
「あれ、ちょっと目腫れてないか?」
その言葉に内心ぎくりとする。
「いや、……少し夜更かしをしたんだ。腫れているのはそのせいだろう」
嘘をつくのは気が引けるが、流石に馬鹿正直に変な夢を見たせいで泣いたから、などと言える訳がない。彼は納得したように、そっかー、と一言呟いただけだった。
それに内心ほっと安堵の息を吐く。心優しい友人に自分の事で変な気を揉ませたくは無かった。他愛もない話をしながら講義室へ向かっていると、そう言えば、と穹がポケットからスマホを取り出した。
「丹恒って、SNSやってる?」
「いや、特には何もやっていないが……」
今流行っているいくつかのSNSの名前が脳裏に浮かんだ。興味が無い訳では無かったが、ニュースなら検索エンジンに入力するだけで大抵の事は知れるので必要性はあまり感じていなかった。
「そっか。ならあの事も知らないか……」
穹は何やら納得したように頷くと、スマホの画面を幾度か操作する。目的の所まで辿り着いたのか、ずいっとスマホを丹恒の眼前に差し出した。
「ちょっとこれ見て」
穹が指で指し示したのは、SNSのとある投稿だった。そこに書かれている言葉に瞠目した。
「『透明人間が出た』?」
その文章と共に、恐らくその瞬間を激写したであろう写真と文言が映し出されていた。中でも一際目を引いたのは中心にある人影だった。周りの景色に溶け込むように陽炎のようなシルエットが浮かび上がっている。
「……それが一体どうしたんだ?」
穹がその投稿を見せた意図が分からない。疑問をそのまま口にすると、穹はその言葉を待っていたとでも言うように話し始めた。
「実はこの写真が撮られたのは、この大学の近くみたいなんだ」
ほらここ、と穹が画像を拡大する。中心の人影に気を取られていたが、確かにキャンパスの近くの建物が写っていた。だがあまりにおかしな所が多すぎる。
「これは……合成では無いのか? 透明人間なのに写真に映るのはおかしいと思うが」
彼には悪いが些か信じるには不可解な所が多すぎる。
「俺も最初はそう思ったんだよ。でもこれが撮影されたのは一度だけじゃないんだ。何人もの人がこの透明人間を見てる。それに、……あった! この写真」
またも穹はスマホの画面を操作すると今度は違う写真を見せて来た。先程よりも解像度が上がったのか鮮明になっている。中心に捉えられたシルエットに目を見開いた。
「これは、」
驚いたのは人影が着ていると思われる服装だった。明らかにこの時代の人間が着ている服装では無い。昔の中国の兵士が着ているような服を彷彿とさせる。
「な? ちょっと色々と変だよな。それに目撃されている場所がどんどんこの付近一体に狭まっているみたいなんだ。噂では誰かを探しているんじゃないかって話」
「……一体誰を探しているというんだ」
何となくこの後の展開が読めた気がして、呆れたように溜息をついた。そう言えば彼は、怪異退治隊というオカルトサークルに属していた事を今更思い出した。
「──もしかして透明人間が探してるの、……丹恒だったりして?」
思った通りだ。彼はたまにこう言った冗談を言ってくる事がある。いたずらっぽい笑みを浮かべた穹を軽く小突いた。
「穹、からかうのはやめてくれないか」
「ごめんごめん、怒んないでよ。ま、もし見かけたらその時は俺に連絡してよ。そういう時の怪異退治隊だからさ」
「ああ。恐らくそういった事にはならないと思うが覚えておこう」
そんな話をしている内にいつの間にか講義室が見えてきた。ここから先はお互い別の講義室に向かわなければならない。穹はスマホを仕舞うと、じゃあまた後で、と手を振った。
「ああ」
それに軽く手を振って応える。穹が講義室に入るのを見届けてから講義室に入った。いつも座っている席に腰を落ち着けると、鞄から必要なものを取り出した。