幕間の楓恒㊱ 視線が合ったかと思えばすぐに逸れ何処かへと去っていく丹恒の後ろ姿を丹楓は何か言いたげな顔で見つめていた。
丹恒の様子がおかしくなったのはここ数日のことだ。
何かを言いたげに此方へと視線を向けて、普段であれば名を呼んでくるがここ数日は口を閉ざし慌てたように何処かへと走り去ってしまう。
それが丹楓に対してだけのことならば良かったのだが、白珠や応星、景元…果てには鏡流までもが同じような丹恒を見かけたというのだ。
何かが起こったのだと考えたほうが良いだろう。
丹楓と丹恒が住んでいるこの屋敷は二人だけではなく、頻繁に龍師が出入りしている。
丹恒にも近づかぬようにと伝えてはあるが、何かの拍子で出会い、龍師が何かをしてくるかもしれない。
どうにも龍師という存在を信頼することはできないと丹楓は考えていた。
丹恒に確認しなければと、急ぎの案件のみを裁き丹恒が去っていった方向へと足を向ける。
屋敷の外へと出ることは無い丹恒のことだ。おそらく普段一緒に過ごしている一室か、白珠や応星がよく来る一室にいるだろうが、去っていった方向から考えれば普段過ごしている一室の方だろう。
扉を開け、中を覗くと敷いたままになっていた布団がこんもりと小さな山を築いていた。
すーすーと聞こえてくる小さな寝息と一緒に起伏を繰り返しているそれに近づき、傍へと腰を下ろす。
小さな体を丸め、眠りに落ちているその頬に当たっている髪を丹楓は指先で払う。擽ったさを感じたのか、もぞもぞと小さな山は小さく動いたが起き上がることはない。
「丹恒」
決して大きくはない声で名前を呼んだのは、起きなくても良いとすら思っていたからだろう。
安心したように表情を和らげながら眠っている姿を見ると無理に起こすことは忍びないとすら思ってしまう。
丹楓が髪を払った指先で丹恒の頬に触れると、丹恒の小さな手が丹楓の手を掴む。
「丹恒?」
「う、ゅ……」
起きたのだろうかと丹恒の名を呼んでみるが丹恒は言葉にならない声を漏らしながら丹楓の手をきゅぅっと掴んでいる。
まだ丹恒は眠っているのだろう。小さな声を漏らしながら、掴んだ手に顔をすりすりと擦りつけている。
それだけのことをしているのに、起きる気配も離す気配もない丹恒に丹楓は小さく息を飲みながら丹恒の名をもう一度呼ぶ。
「…丹恒」
「む……、…あむっ…」
「……、…」
名前を呼んだ丹楓に返ってきたのは目を覚ました丹恒からの返事ではなく、自分の手にかぷりと嚙みついた丹恒の歯の感触だった。
かぷかぷと丹恒が口を動かし小さな歯が親指の腹に当たっているのは感じるが特に痛みは感じない。感じるのはくすぐったさと、何故丹恒がこんなことをしているのかという疑問とその疑問に対する自分の回答だけだ。
流石にここまでされれば起こさなければいけないと、今までよりもはっきりとした声で丹恒の名を呼ぶ。
「丹恒」
「むぅ……、う……? ……?」
丹楓の声に気づいたのか、眠そうな目をぱちりぱちりと瞬かせながら丹恒の瞳がゆっくりと開く。
目の前にあるものがなにで、自分が今なにを口に含んでいるのか気づいていない様子の丹恒はぱちぱち、と瞬きを繰り返しながら目の前の丹楓の手をじっと見つめている。
「丹恒」
もう一度丹楓が名を呼ぶと、丹恒の視線が手から丹楓の顔へと移り、そしてもう一度手へと向けられる。
「…!! ふ、ふーにぃ…」
自分が何を口に含み食んでいたのか気づいた丹恒は丹楓の手から口を離す。
僅かに震えた声で丹楓の名を呼ぶ丹恒は、まだ掴んだままの丹楓の手についた自分の歯形をじっと見つめている。
「傷にはなっていない」
「…ぅ……、…」
怪我などないと伝えても、丹恒にとっては丹楓の体に傷を残してしまったように見えているのだろう。泣きだしそうな程に顔を歪めながら、丹楓の手についた自分の噛み痕に舌を伸ばしぺろぺろと舐め始めた。
「丹恒」
「うゃ…、ふ、ふーに……、ご、ごめんなしゃ…」
「よい、傷にはなっていないと言っておるだろう?」
止めなければ永遠に舐め続けてしまいそうな丹恒の頬を両手で包み込み、丹楓は己の顔を見るように顔を向かせる。
眉を下げ、僅かに瞳に涙を浮かべている丹恒に丹楓は気にするなと首を振る。
「丹恒…其方、歯に違和があるのだろう?」
「……う…」
丹楓の言葉に、こくんと頷いた丹恒はまだ顔を歪めながら丹楓をじっと見つめている。
「…は、むずむず……しゅる…」
「其方の歯も生え変わり小さな牙になるのだろう、おかしなことではない」
「きば…?」
「そうだ、余にも生えている」
丹楓の言葉に丹恒はぱちりぱちりと大きな瞳で瞬きを繰り返す。
丹楓に牙が生えていることも自分に牙が生えることも気づいていなかった様子で、先ほどまで泣きそうだと思ってしまう程顔を歪めていたのに今はきょとんとした顔で首を傾げている。
「ふーにぃの……きば…」
「…見たいのか?」
「……ん」
「…、他の者には見たことは言ってはならぬぞ」
「ん」
じっと丹楓を見つめながら小さな声で呟いた丹恒の言葉を丹楓は拾い上げ、小さく息を吐き出すと丹恒が見やすいようにゆっくりと口を開く。
丹楓の口の中、上の歯に他のどの歯よりも尖っている歯が二本。
これが牙なのだと、丹恒は丹楓の牙を瞳を輝かせながら眺めていたが丹楓はすぐに口を閉じてしまい丹楓の牙は見えなくなってしまった。
見えなくなってしまった丹楓の牙に、少しだけ物足りなさを感じて尾を下げた丹恒は丹楓の羽織をきゅっと掴む。
「こーも、はえる…?」
見上げるように丹恒に問われた丹楓は暫し考えるような素振りを見せた後、丹恒の頬を掴んでいる手をむにと動かした。
「ふむ…丹恒、口を開けてみよ」
「あ」
丹楓に言われるまま丹恒が口を開けると、丹楓は丹恒の口の中の小さな歯をゆっくりと見まわす。
見られていることに恥ずかしさのようなものを感じているのかぷるぷると体を震わせながら、目元を僅かに紅く染めた丹恒の口の中の小さな小さな牙になる為の歯に丹楓は頬を包んでいた手を離し指先で触れる。
「この歯が、牙になるだろう」
「ふぁっ…」
むずむずとしている歯に触れられた感触に驚いたのか丹恒は小さく声を上げると、体をぴくんっと震わせる。
丹楓はそれ以上のことはせずに、すぐに丹恒の口の中から指を抜くと丹恒の口が勢いよく締まる。
「ふ、ふーに…」
丹恒の目尻に溜まった小さな涙に、やりすぎてしまったかと丹楓は息を吐き出すと丹恒の髪をゆるりと撫でた。
丹恒の背中で無意識にふるふると震えていた尾は丹楓が何度も髪を撫でていると徐々に緩やかな動きに変わる。
丹楓は丹恒の目尻に溜まった小さな涙を唇で舐めとりながら、落ち着いてきたのかまた眠そうにしている丹恒の頬を撫で小さく呟いた。
「歯に違和があっても他のものには噛みついてはならぬ、わかっておるな?」
「…ん、……ふーにぃ」
「なんだ」
「ふーにぃは?」
「……其方ならば、よい」