紫苑 ─reunion─「ギルモアくん」
鈴の音のような優しい呼びかけの声に、深い底から意識が浮上する。
目を開けると、誰かがこちらを覗き込んでいた。ぼんやりとした世界が、カメラのピントが合うように明確な輪郭を形作る。
これは夢だろうか。
にこりと微笑んでこちらを覗き込むその人物は、もうこの世にはいない男だ。
さっきまでは子供や孫たちに囲まれていたはず、と起き上がる。あんなに重かった体が、嘘のように軽くなっていることに気づき、目を丸く見開いた。
ふと手を見ると淡い光を放っている。右手には何故かシオンの花が一輪あった。いつの間に持っていたのか。
傍で膝を立てている男に、そうっと右手を握られる。その温もりは、ずっと昔から知っているものだ。
「ありがとう。忘れないでいてくれて」
男が言う。
シオンの花は、夫への墓参りにいつも持参し、季節の花と共に供えていた。花言葉は「君を忘れない」。自分を忘れないでくれと泣いた夫への、返事でもあり誓いでもあった。体が思うように動かなくなりいよいよ家から出られなくなってからは、墓参りに行く子供たちにシオンの花を託していた。
男が目を細めて微笑む。そんな笑顔を自分に向ける人間は、ただ1人しかいないはずだ。
「ダンダ?」
「うん」
男が頷いた。
その声は、その眼差しは、その微笑みは。
思わず頬が緩む。
ずっとずっと、焦がれてやまなかったものだ。
「ダンダ!」
体を捻り、男に向き直る。膝立ちのまま2人は両手を広げ、お互いの体を抱きしめた。
自分より少し背が低く、細身で、そして温かい体。それを腕の中に収め、強く力を込めた。
「約束通り、迎えに来たよ」
夫の言葉に顔を上げる。
「ワシは……死んだのか?」
「うん。ほら、そこに体あるよ」
夫が足元を指差す。そこには自分そっくり、いや自分そのものが箱の中に寝転がっていた。自分の足は、その物体の腹の中を、まるでバグを起こしたゲームキャラのようにすり抜けていた。
「ウワアッ!?」
足をもつれさせながら箱から飛び出す。箱だと思っていたのは棺で、その中で自分の体は沢山の花に埋もれていた。
かつて、夫の体を棺に収め、花を供えたことを思い出す。
「そうか……」
ぼんやりと光る自分の体を見つめて呟く。
元々、幽霊も死後の世界も信じていなかったが、迎えに行くという夫の言葉だけは信じられた。夫がどこにもいない現実を受け止めるのは辛かったが、夫は「またね」と言ったと、いつかは会えるのだと自分を慰めていた。
「ギルモアくん、見て」
夫はご機嫌な様子で立ち上がると、その場でくるりと回った。すると、服装が普段着からグレーのキッチリしたスーツに変わる。皺だらけの顔も、青年の頃の若々しい肌に変化した。
「昔の姿になれるんだよ! すごいでしょ?」
夫に手を引かれ立ち上がる。正面に立つ彼の上から下までじろじろ見る。
「ギルモアくんもやってみてよ」
まるで手品か魔法のようだが、夫がそう言うのならばと、頭の中で念じる。
目を開けると、自分の手には白い手袋、それから深い緑色の袖が見てとれた。頭にはちゃんと軍帽が乗っている。イメージ通りに姿を変えられたようだ。
夫に顔を向けると、きらきらと目を輝かせていた。晩年はずっと青白かった頬を桃色に染めて、にっこりと笑っていた。
2人は見合い結婚だった。苛烈な軍人ギルモアと虚弱な優男である夫との出会いは、何も特殊な出来事ゆえではなかった。見合い自体お互いに親から言いつけられたもので、ギルモアの方は渋々向かったぐらいだ。最初から気が合ったわけでもなかった。だが、少しずつ互いの凹凸がはまっていく感覚は心地良く、気がつけば離れられなくなっていた。
深緑の軍服とグレーのスーツは、そんな2人が初めて出会った見合いの席での服装だ。
夫はギルモアの手を取り、そのまま駆け出した。つられてギルモアも走り出す。満面の笑みを浮かべて後ろを振り向いた夫の顔を見て、ギルモア青年は嬉しそうに笑った。(終)