ラベンダーはあなたの中に「お前たちふたりに、保管室4の処分を頼みたい」
サングラスに軍帽の出立ちで、初老の男は言った。姿勢正しく靴音を立てる彼の後に、青年ふたりが続く。ひとりは緑色の隊服を、もうひとりは薄水色の作業服を纏っていた。
「副官に頼んでいたのだが、生憎急な出張が入ってな。保管期限が迫っているため処分を遅らせることもできん」
みっつの人影が廊下を進む。人気のない、廊下の終点の少し手前にある扉の前で男は足を止めた。
「ここだ。処分対象はGの棚だ」
男は扉の横にあるオートロックに手をかざす。シュンと音を立てて、グレーの味気ない扉が左右に開いた。
「承知しました」
緑の服の青年が応える。作業服の青年程ではないが、言葉とは裏腹に困惑の表情が滲み出ていた。
「よろしく頼んだぞ……そうだ、ひとつ言い忘れていた」
その場を立ち去ろうとした男だったが、青年らの方に向き直って言った。
「処分方法はお前たちに任せる……どんな資料であってもだ」
「……処分、っつてもなあ」
緑の隊服の青年は、困ったように頬を掻いた。
今し方仕事を依頼してきたのは、自分の上官の上官のそのまた上官……つまりは組織のトップに君臨する男、ドラコルル長官だ。
対してこちらは、数年前に就職したばかり、まだまだ下っ端のいち職員である。
とはいえ面識がない訳ではない。母が彼の側近を務めている関係で家族ぐるみの付き合いがあった。雲の上の人というより、スマートでカッコ良くて、ちょっと意地悪なところもある、頼れるおじさんという認識だ。そして、父の「秘密」を教えてくれた人である。
しかし、保管室に立ち入ったこともない人間をわざわざ呼び出して、資料の処分を依頼するというのは一体どういうことだろうか。しかも……。
「処分方法は任せるって、どういう意味なんだろう」
隣に佇む作業服の青年は、つい1年前にピシアに技術者として就職ばかりの弟だ。母に似て丸い顔に大きな体に育った自分とは違い、彼は中性的な見た目に成長した。大柄な両親と並ぶ程の背はあるが、切れ長の目にラベンダー色の髪色は、両親とは似ても似つかない。母方の親戚に似た人もおらず、父方の遺伝子が強く出たのではと思うが、それを確かめる術はない。
父の名はテル……というのは表向きの話で、その正体は、かつてこの星でクーデターを起こしたギルモアだ。極刑を宣告されたものの極秘に若返り効果のある薬品を飲まされ、体の年齢が巻き戻った。数年の観察期間を経て母の元へ帰還し、以来家族で暮らしている。
母に頼むはずだった仕事。代わりに呼ばれたのは自分と弟。長官直々の依頼。よって導き出されるのは。
「父さん絡みの何かってことか」
指定されたGの棚に並ぶファイル群の背表紙には、どれも父の本名が刻まれていた。
棚に置かれていた資料自体は、数は多くなかった。一冊を手に取りパラパラとページをめくって見れば、父の生育歴についての調査報告書であった。
近くの椅子に座り、同じように資料を読む弟が口を開く。
「日付はクーデターの日以降……父さんの国民情報を捏造するのに調べたのかな」
「多分そうだろうな」
報告書に書かれている内容は、子供の頃、ドラコルルおじさんに聞いた話をより詳細にしたものだ。
父は、政界で名を馳せる有名な一族に生まれた。しかし、当時の当主が使用人に無理な関係を強いた結果生まれた子供で、当主の妻はそれは激昂したらしい。身寄りのない使用人は、屋敷の離れに息子と住まわせてくれるよう当主に頼み、当主はそれを了承した。
しかし父がまだ3歳の頃、母親はこの世を去ってしまう。他の使用人たちは、残された父の食事や洗濯の世話をしていたが、当主の妻が恐ろしく必要最低限のことしかできなかった。
父が学校に通っていた記録はあるが、家族写真などは残っていなかった。当主の妻の息子、すなわち異母兄の話によると家族としての交流は全くなかったらしい。当主が、離れに暮らす父に何か干渉したという話も聞いたことがなく、異母兄の母は父のことを酷く嫌っていたという証言が得られたそうだ。
そして父は防衛大学に入学、軍人の道を歩むことになり……星に反乱を起こした。
読んでいて眩暈がする。まるで小説か何かを読んでいるようだが、これは紛れもなく調査報告書。限りなく信憑性の高いものだ。
子供の頃に想像していたものより、父の人生は壮絶だった。幼い頃に母を亡くし、寄り添ってくれる人もおらず、ただ必要最低限に生かされるだけの日々。おじさんが言っていたいたように他人を信じられないわけだ。
こんな異常な環境で育った父が、ごく普通の父親として俺たちを育てるに至るまで何があったんだろう。調査報告書はあくまでもクーデター前の話しか書かれておらず、その後については記述がない。あっけらかんとしつつ思いやりと胆力のある、母のおかげなんだろうか。
物思いに耽っていると、弟の声が触覚に届いた。
「兄さん、これ!」
弟が読んでいる資料を指差す。背後から覗き込むと、それは父の母親、すなわち自分たちの祖母についての調査報告書だった。
報告書に添付されている画像は、彼女の写真だ。おそらく20代の頃だろう。俺は祖母の写真を見て目を見開いた。
鷲鼻が特徴的な初老の男は、ファイルを手にソファに腰掛けた。息子ふたりから先日手渡されたものだ。中身を聞いても「開けてのお楽しみだよ」とはぐらかされた。全く、サプライズが好きなあのふたりらしい。老眼鏡をかけ、ファイルを開く。
そこにあったのは数枚の写真と、何かのレポートだ。一番手前の写真を見て、男は一瞬、次男の写真だと思った。ラベンダー色の髪に端正な顔立ちをした、自分にも妻にも似ていない我が子だと。
だがよく見れば、写真の人物は女性だと気づいた。よく見れば瞳の色も違う。
誰だ、この女性は。2枚目の写真で、女性が赤ん坊を膝に乗せて満面の笑みを浮かべていた。端末を使って自撮りしたものだ。最後の写真では、先程より少し成長した赤ん坊が立っていた。撮影主の方へ笑顔を向ける赤子は、今にも歩き出しそうだった。
この女性は、この赤ん坊は。
男はすぐさまレポートに目を向けた。女性の生まれや経歴が技術されている。家庭の事情により児童養護施設で育ち、大学を卒業してからは名家の屋敷に使用人として就職。その後に書かれていた文章に、老人は目をまん丸に開いた。
男児を出産。ギルモアと命名。
ドクドクと心臓が鼓動を打つ。と、ファイルから何かが落ちた。老人が下を見ると、便箋が収められたクリアファイルだった。手に取り、中の便箋を取り出す。優しい丸みを帯びた手書き文字が並んでいた。
──こうして手紙を書くなんて初めてで、ちょっとドキドキします。実は、嬉しいお知らせがあるの。なんと私、子供が生まれました! 元気で可愛い男の子です。「ギルモア」と名前を付けました。私の名前から一文字とったの。生まれた直後は本当にドタバタしていて、知らせるのが遅くなってごめんなさい。ギルモアが離乳食を食べるようになってやっと時間が取れるようになったから。昔から赤ちゃんは可愛いと思っていたけれど、自分の赤ちゃんは世界で一番可愛いわ。寝顔だけでもとっても可愛くて、携帯で写真を撮りまくっちゃうの。寝顔だけでアルバムが作れそう。今はまだお座りしかできないけど、そのうち立って歩いたり、簡単な言葉を喋れるようになると思うと楽しみで仕方ないわ! それじゃあ、またね。
レポートに目を戻すと、手紙についての補足情報があった。同じ養護施設で育った友人に宛てたもので、この手紙に同封していたのが2枚目の写真だったらしい。便箋は何枚かあり、どれも赤ん坊の成長を喜ぶ内容のものであった。日付が最も新しい手紙には、ついにママと呼んでくれたと、一段と喜びに溢れた文章が書かれていた。
その後の手紙はない。レポートによると、この手紙を最後に、彼女はこの世を去ったようだ。彼女は、自身の勤めていた屋敷の当主に望まぬ関係を強いられ、その結果ギルモアを妊娠、出産したこと、当主の妻から酷く恨まれており、他の使用人も彼女の育児の手助けができずにいたこと、病歴はないが、ひとりで仕事と育児をこなしていた無理が祟り過労死したのではと記されていた。
ぽと、ぽたりとズボンの上に雫が落ちる。男は慌ててファイルを机の上に置いた。目頭が熱を持ち、次から次へと涙が滲み出しては零れ落ちてゆく。袖で目元の水を拭っていると、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま〜」
気の抜けた声と共に、リビングルームへ大柄な人間が入ってくる。
「……将軍?」
彼が不思議そうに首を傾げると、空色の髪の毛がひょこりと揺れた。しかし机の上に開いたまま置かれたファイルに気がつき、ハッとした表情を浮かべた。
鞄と上着を床に放り、涙を零す男のすぐ隣に座る。男はおもむろに大きな男の体に寄りかかり、その腕にしがみついた。
まるで子供のように泣きじゃくる男を、空色の髪の男は優しく抱きしめ、ゆっくりと背中をさするのだった。
1ヶ月後、ピリポリスから遠く離れた田舎の墓地を訪れる一家の姿があった。
「ええ、何でもピリポリスのあの──っていう有名なお家、ありますでしょう? あそこのお家にお勤めしていたらしいんやけど……若くして亡くなったと、母からは聞いております。何でも天涯孤独だったとかで、母が一番の友達に寂しい思いさせちゃいかんってね、うちの墓地に埋葬したんだそうで」
管理人の老婆からそんな説明を受けながら、一家は墓地の中を歩いた。
「あちらがお墓になります」
真っ白な墓石に刻まれた名前は、家族皆が知っている名だ。
「お花、一体どなたが?」
一家の中で最も大柄な、初老の男が口を開いた。墓にはラベンダーの花が供えられていた。
「私です。母から、手入れとお供えを欠かさんよう言われてましてね……とても優しくて、明るくて、綺麗な人やったと聞いとります。確かお子さんがいてはったはずなんやけど、母は行方が分からんかったとずっと悔やんどりましてねえ。父親に引き取られてるんならええけど、頑なに父親のことを教えてくれへんかったそうで」
「……そうでしたか」
大柄な男が相槌を打つ。と、老婆は不思議そうな顔をした。
「皆さん、この方のことをご存知で?」
「……まあ」
鋭い目つきをした、初老の男は言葉を濁して答えた。その隣にいる大柄な男が口を開く。
「いやあ、つい最近、この人が我が家の縁者って知りまして。せっかくだしお墓参りでもと」
「はあ、さいですか。そりゃあ良かった。母も喜んどるでしょう」
老婆はにこにこと微笑み、「では後はご家族でごゆっくり」と言って去った。
「……ってことは、今の人は、おばあちゃんの友達のお子さんってことかあ」
のんびりした口調で、紫色の髪を靡かせ青年は言った。
鋭い目つきの男は、墓の前で膝をついた。
今まで、母親に会いたいと思ったことはなかった。何故母親がいないのか、教えてくれる人は誰もいなかった。後々、父親が使用人に関係を強いた結果自分が生まれたと理解し、父親が親らしいことを何もしてこなかった屑なら、母親も碌な人間ではないのだろうと勝手に思い込んでいた。生きていようが死んでいようが良かった。どちらにしろ、自分のそばにいやしないのだから。
でも違った。父と呼びたくもないあの男とは違い、母は確かに自分を愛してくれていた。自分の名前から文字を取って命名し、友人への手紙に子供が可愛いと惚気ていた。ピシアが調査資料として集めた物品は多くはないが、彼女の愛情深さを知るにはそれで十分だった。
生まれて初めて母に会いたいと思い、生まれて初めて母に謝りたいと思った。自分の名前なんかどうでも良いと、重要なのは名前の後に称される地位や肩書きの方だと考えていた過去の自分をとっちめてやりたかった。あの男と同じ過ちを繰り返し、まだ結婚前の妻に体の関係を強いたあの頃の自分を殴ってやりたかった。
様々な過ちがあって今の自分がある。今の家族がある。だが、過ちそのものがなかったことにはならない。
妻は許してくれた。母は許してくれるだろうか。地位に固執するあまり愚かな行動に出た己を、その結果、授けてもらった名前すらも失った己を。
膝の上で拳を作り、俯く。すると、墓石の方からふわりと風が吹いた。まるで頬を撫でるような、優しい風だった。
「……かあさん?」
男の呟きに応える者はいない。ただ静かに、供えられたラベンダーの花が揺れていた。
「モルっておばあちゃん似だったんだな」
「いや〜見事にそっくりだったね」
「俺、おばあちゃんの写真見た時、一瞬モルかと思ったもん」
「そんなにぃ!?」
けらけらと笑いながら前を歩く息子ふたりの後を、ギルモアと副官は歩いていた。墓地からの帰り、自然あふれるのどかな田舎の道だ。
「今日の夕飯何にしましょうかねえ」
思案に耽っていたギルモアは、妻の言葉に気づかず黙々と歩いていた。もし母が死なずに生きていたなら、自分はどんな人生を歩んでいたのだろうか。屋敷の皆から厭われはしただろうが、自分を大切にしてくれる人がひとりいるだけで、今とは違う人生になっていたに違いない。
「ギ……お父さん?」
うっかり夫の本名が口をついた副官は、慌てて呼び直した。そこでギルモアの意識は、ようやく現実世界へ戻ってきた。
「……ん、何だ」
「今日の晩ご飯、どうします?」
「あ、ああ、晩飯か……」
陽は沈みかけ、空は次第に赤めいていく。家に帰る頃にはもう真っ暗だろう。
と、副官が前方を歩く息子たちに向かって声を上げる。
「おーいふたりとも! 今日はウチ泊まるんだよな!?」
くるりと同時に振り向いた青年たちは、声を重ねて叫び返した。
「そーだよー!!」
また副官が叫ぶ。
「晩ご飯どうするー!?」
今度は、青年たちはそれぞれ別の言葉を叫んだ。
「焼肉!」
「コース料理!」
「却下だ!」
副官が即返答すると、息子たちは楽しそうに笑い合った。
「全く、ここぞとばかりに高い飯を指定して」
呆れる副官の横で、ギルモアは頬を緩めた。
「まあ、焼肉くらい構わんぞ」
「じゃあ焼肉にします?」
「いつものあの店……久しぶりだが、あそこにするか」
「じゃあ焼肉にしますかあ……おーい! 今日は焼肉にするぞー!」
息子たちが嬉しそうな顔で振り向き、やったやったとガッツポーズをする。喜び合うふたりの息子を見て、ギルモアの脳裏にひとつの文が浮かんだ。
生物は、遺伝子の乗り物に過ぎない。
確かテレビで見たのだったか。人間も含め全ての生物は、どんな人生を送ろうと、遺伝子を遠くの未来へ連れていくための乗り物でしかないという話だったように思う。
己が母から受け取ったのは、名前と、それから遺伝子。自分では分からないが、きっと母に似た部分がどこかにあるはずだ。
そして自分の名前と遺伝子は、ふたりの息子へと受け継がれた。特に次男の方は、見た目が本当に母そっくりだ。ギルモアという方舟を介して、確かに母の遺伝子が受け継がれた証だ。
母はいない。でも、母が遺したものは沢山ある。
夕陽の眩しさに目を細めていると、左手があたたかいものに包まれた。副官の手だ。少し驚いて隣を見ると、副官がにひ、と笑顔を浮かべていた。
「何だ、いつかの仕返しか?」
「ふふーん、何のことですかね〜」
ルンルンとした様子で弾むように歩く副官だったが、ギルモアはふと気づいた。彼の横顔にほんの少しだけ、哀しみの色が見える。
彼には調査レポートを見てもらった。ずっと昔から、己の生い立ちが普通の人間とは違ったものであると察していたらしいが、色々なことに合点がいったと教えてくれた。
望んで子を持ったとはいえ、彼は2年の間たったひとりで長年を育てていた。似たような境遇だった母に同情しているのだろうか。
「お墓の場所、分かって良かったですね」
副官の声音は、とても穏やかだった。
「……ああ」
そういえば昔、彼が言っていた。「ギルモア」が処刑された後、直接繋がれる何かが欲しいと、写真でも墓でも何でも良いからと思っていたと。
「これから、ちょくちょく墓参りに行きますか? 次はお花も供えたいですし」
「お前も来るのか?」
「そりゃあだって、自分の旦那のお母さんですよ。挨拶が一度っきりだなんて薄情じゃないですか」
「……そうか」
胸の奥がこそばゆいような気持ちになり、ギルモアは副官と繋いだ手に力を込めた。
「花は……」
ギルモアが呟く。
「ラベンダーを、供えたい」
母の髪と同じ、灰みがかった美しい紫色を。
「そうですね、ラベンダーにしましょう」
柔らかく微笑んだ副官を見て、ギルモアも表情を和ませた。
次回、墓参りに来た時には、ちゃんと家族のことを紹介してやらねば。
明るくやんちゃで、でもどこか抜けたところのある長男のことを。のんびりした性格だが頭のよく回る次男のことを。そして、己の人生に初めて彩りをくれた、我が最愛の妻のことを。
ギルモアはちらりと後ろを振り向いた。そして、ほんの少し気恥ずかしそうに微笑み、また前を向いて歩き出した。
夕焼けの反対側、夜が顔を覗かせる空の向こうで、小さな星が瞬いたのだった。(終)