忠実なる、「かみさまはそんなことしなくてもいいんですよ」
　フォークを拾い上げた手が空中で止まった。はた、と動きを止めた主人に、小さな従僕は首をかしげる。
　仔鹿の運んでいた食器がぐらりと揺れて、上に乗せていたカラトリーがいくつか落ちてしまったのを、シルバーアッシュは後ろから見ていた。まだ幼い妹たちとそう変わらない背丈で使用人の真似事をするのが、どうにもかわいらしく思えて手を差し伸べたにすぎない。申し訳なさそうにするのは予想のうちで、けれど、口からこぼれた言葉は範疇の外だ。
「…かみさま、とは」
　それはなんだ、と問えばクーリエは目を丸くした。そうして眉尻を下げ、口をもごもごと動かす。
「シルバーアッシュさまのことです」
「私は神ではない、クーリエ」
　屈み込み、目線を合わせれば、その瞳がゆらゆらと揺れていることに気付いた。見たことのない瞳の色。他の誰とも少し違う耳の形。クーリエは吹雪の日に拾ってそのまま着いてきた異郷の子供だった。イェラグの国境を超えたわけではないが、それでも他者の踏み入れない場所で育ったイトラなる子供は、どこか浮世離れしている。無論信仰が異なってもおかしくない。だがシルバーアッシュはまだ一人の若い当主で、あの山々に成り代わるなどと豪語したことはなかった。
「えっと、…おこってますか？」
　不安げに目を伏せる。仔鹿の耳は垂れ下がっていて、所在無げだ。困らせているとわかり、シルバーアッシュは次の言葉が出なかった。
　答えを聞く代わりに、妹たちへするように柔らかい髪を撫でた。くすぐったそうにする顔は年相応に愛らしい。
「腹を立ててなどいない。不思議に思っただけだ」
「…そうですか。ごめんなさい。ぼく、お食事のじゅんびがあるので」
　主人が拾ったフォークを受け取り、これはあとで洗わないと、と呟くと、クーリエはまた危なっかしく歩いていく。それを少し眺めて追いかけ、手の中の皿を半分奪うと、役目を取られた使用人は、あー、とかわいらしく声を上げた。


「神様はそんなことしなくてもいいんですよ」
　むせ返るような鉄錆の匂いがした。内臓から切り離された青白い脂肪が、赤い池の中に浮いている。
「栄誉ある戦いは、この先いくらでもあります。手を汚す価値のない者には僕の牙を使ってください」
　かつて仔鹿だった使用人は、血に塗れたサーベルを一度見遣ったが、主人に気を遣ってそれを振るうことはしなかった。血を拭えるものは生憎何もない。
　仕込み杖を握る手から力が抜けた。それと同時に、クーリエの笑顔もゆっくりと消えていく。ほう、と安堵のため息が室内に響いた。
「そう呼ばれるのは久しぶりだな」
　ふ、と笑みを浮かべると、イトラの青年は照れたように頬を掻く。
「イェラグの地で気安く神などと口にできません。あの頃の僕はまだ、分別がついていませんでした」
　サーベルを納め、一歩主人へ歩み寄ると、血を吸った絨毯がぐじゅりと音を立てた。その染みが主人の足元まで至っていないことを確認して、クーリエは打算とは違う笑みを口端に乗せる。
「お前は変わらないな」
「旦那様こそ。少しも変わってなどいません」
　雪で閉ざされた山の代わりに、命を与えてくれた。降り積もる雪の中から、生まれ変わらせてくれた。人が神を創造主や庇護者だと崇めるのなら、やはりこのイトラにとって、神は一人しかいなかった。かつて父に母に教えられた信仰は、雪に埋もれてそのままだ。九死に一生を得た刷り込みであってもいい、この世に蔓延る信仰というものは、神の間に結ぶ呪縛と何の違いがあろうか。
「信心深い者に恥じない働きをしよう」
「あなたがあなたらしく在るのなら、どこまでも」
　労いはそれで充分だとばかりに、クーリエは恭しく礼をする。重い靴音と共に誰かの神とその僕が立ち去ると、あとに息のあるものは、もう誰もいなかった。